旧満州を見てくる
2009/05/14記
 昨年の1月にオリンピック開幕前の北京に行った。この変貌が著しい中国は定期的に見ておきたいと思っていたところ、GW明けに大連・旅順・瀋陽を回る安いツアーが有ることを新聞広告で知ってしまった。幸い連休明けの週末には予定がないので火曜日までの休暇にすれば仕事への支障は少ない。料金も一人部屋に燃料チャージがついて、昨年の北京61,890円をさらに下回る47,170円だけで参加できるツアーなので、4月上旬に衝動的に予約してしまった
 
 今回訪問した都市は近代日本の歴史と深い関係がある都市である。大連と旅順は日露戦争の勝利によって、それまでロシアが租借していた土地を1905年から継続して租借し続けた土地で、第二次大戦終了まで40年間統治していた。条約上は1997年までの租借権だったので、仮に第二次世界大戦が起きなければ英領香港と同様の都市になったかも知れない。なお、この租借地を関東州と言っていたので満州で独走した部隊が関東軍なのである。
 
 一方、瀋陽は清王朝の発祥の地で、満州国時代は奉天と呼ばれていた街である。日本領事館に逃げ込んだ脱北者を中国警察に引き渡してしまったことで一躍有名になった都市でもある。
 満州国は日本とは別の元首が居て、個別の政府があったから独立した別国であるという考え方が日本では主流である。外交上もドイツ・イタリア・スペイン・タイなど当時の独立国の1/3を越える20ヶ国から独立が承認された事や、存在していた13年の間に中華民国からの移民で人口が30%以上も増えた事、新日鐵の協力で上海宝山製鉄所が出来るまで中国最大の製鉄所であった鞍山製鉄所を始め多くの産業を興した事などで存在の正統性を認める声も良く聞く。しかし、政府組織の大多数が日本人で、それも日本国の各官庁から派遣されてきた官僚で運営され、満州人民による議会も憲法も無く、さらに国籍法まで無かった(=つまり法的な満州人は居ない)状況では、例え統治内容が国共内戦をしている大陸内より良かったとしても、実体は傀儡国家と見ることが自然であろう。ちなみに中国内では偽満州国と『偽』を付けて呼ぶらしい。
 
 参考に、大日本帝国時代に現在の日本国以外に権益が及んでいたエリアを一覧にすると下表の通りである。 
地域名 年月日 根拠条約等
千島 1875 千島樺太交換条約
台湾 1895 下関条約
南樺太 1905 ポーツマス条約
関東州(租借地) 1905 日清間満洲ニ関スル条約
朝鮮 1910 韓国併合ニ関スル条約
南洋諸島(委任統治) 1920 同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約
満州国(傀儡政権) 1932 建国宣言
 台湾は日清戦争で、南樺太と関東州は日露戦争で、南洋諸島は第1時世界大戦で権益を広げていった土地である。
 千島は平和的に入手したので第二次大戦の結果として放棄する土地には含まれないという主張も正統性がある。しかし綺麗事で話せばロシアはポーランドやフィンランド等の国から奪い取った土地なども返さなければ成らなくなるので現実的な解決は北方四島の帰属問題であろう。それ以外にも千島や南樺太に残してきた日本の財産を接収したことやシベリア抑留者への補償なども協議にすべきだと思う。先日まで日本を訪問していたプーチン首相に対し麻生首相はどこまで協議を進めたのかが気になるところである。と脱線が続くのでロシア関係の話はここまでとしよう。
 
 満州については関東軍の暴走で成立してしまった国家でありながら日本国政府も積極的に運営に荷担し、1929年に始まった世界恐慌を受けた日本の失業者の移民先という経済対策にもなったし、食料や鉄・石炭などの物資供給基地にも成っていった。
 ともあれ、現在の世界恐慌の中で日本の派遣切りに遭った失業者を世界に送り出そうとはしてないが、80年前の感覚を少しでも味わいたいと考え、今回の行き先を選んだのである。
 
 そんな訳で中公新書の『キメラ・満州国の肖像』を持ち、5月9日(土)に日本を出発した。今回は初日の飛行機が午前便で帰りが午後便という事になり、現地での滞在時間が長いツアーである。
 大連空港には昼過ぎに到着。雨の中で日本統治時代の名残が残る中山公園や大連埠頭に行く。ツアー参加者は高齢の方が多く、何人かは子供の頃にこの港から舞鶴港に引き上げた記憶を持った方であった。大連には日本企業の進出が続き、街中にも日本文字の看板が方々で目に付く状況だった。
 なお、為替レートはホテルでの交換で1万円に対して662元であり、昨年の北京での647.5元より若干円が強くなっていた。当時は元が上がるので中国の物価も段々高くなると思っていたが、世界恐慌で円だけがこんなに強くなるとは想像できなかった。旅行者には有りがたい話であるが、これでは輸出産業は厳しいと思う。

旧大連大和ホテル

日本建設の大連港埠頭
 
 翌朝は北京時間で8時に出発し旅順に向かう。さだまさしの『防人の歌』が耳に残る映画『二百三高地』を見てから、一度は訪ねたいと思っていた所である。しかし、あいにくの雨で旅順軍港は見えない。また105年の時間は禿げ山を緑豊かな丘陵に変えてしまい雰囲気も違う。資料館の写真などから当時を思うが、日露の主戦場となってしまった中国人はどの様な気持ちでこの史跡を維持しているのだろうか。ただハッキリしていることは日本の観光客相手に稼いでいる人達が沢山居る事である。

ロシア軍の塹壕

水師営会見所(復元)
 
 昼食に大連に帰り、14:35発の列車で上野駅を模して作られた大連駅から瀋陽に向かう。前日からの雨も鉄道に乗っている間にあがった。約4時間半の車窓から満州の大地を見ながら本を読み現代と過去を往復する。書物から新たに知ることも多く、やはり日本は近代史の教育が不十分だと実感する。
 日没後の瀋陽北駅に到着して夕食を取り、この日のツアー日程は終了。しかしガイドさんが別途130元(約2000円)でナイトツアーを行うというので他の2名とともに参加する。人数が少ないのでタクシーを使って毛沢東像の有る中山広場・旧奉天市役所前の人民広場・日本大使館・朝鮮街などを見て回る。奉天では北朝鮮政府によるホテルの隣に韓国資本のホテルもあり、中国で南北融和が行われている状況も見える。
 ナイトツアー料金を考えてみると、タクシー代は8元(約120円)程度なので合計5回利用しても50元かかって居ない事となる。従って130×3−50=340元(約5000円)がガイドさんの収入となる。普通のサラリーマンの月収の20%に相当する額なんだな、と暗算をする。さらにその後、1人で東京駅を模して作られたという瀋陽駅を歩いて見に行き、この日は終了である。

旧奉天大和ホテル

中山広場の毛沢東像

朝鮮街

東京駅に似た瀋陽駅
 
 翌朝は7時半から行動を開始。平日になったこともあり朝は通勤で大渋滞である。自転車社会から車社会に移行していることが良く解る。渋滞緩和のため地下鉄が工事中であった。瀋陽では清王朝初代と2代皇帝の墓地である北陵や瀋陽故宮などの世界遺産を見て回る。ガイドは説明しなかったが、1636年に故宮が完成という流れは、秀吉の朝鮮出兵に対抗して出陣した明朝が戦費の支出に伴って衰退した結果という説を思うと、既に400年以上前から日本との関わりの中に有るのだな、と1人考えていた。
 昼食後、慌ただしく瀋陽を後にして列車に乗る。帰りの列車の中で15年前に購入し読み終えていなかった316頁の新書を読み終わる。戦争に突入するあたりから日本の満州政策には目を覆いたくなってくる。ともあれ、車窓から貧しい村などを見ながら近代都市である大連に戻り、夕食を取って日程は終了する。この日は1人で地図を片手に夜の散歩を行い、中山広場やロシア人街などまで足を伸ばし、駅前にある食堂でビールを飲んでホテルに帰る。

北陵公園

瀋陽故宮大政殿

瀋陽北駅から鉄道に乗る

夜の友好広場とビル街
 
 最終日は午前11時にホテルのロビーに集合なので、朝食も取らずに1人で路面電車に乗り、旧関東州府や労働広場・ロシア人街などを見て回る。大連の名物であるアカシアの花には少し早い時期であったが、柳の綿毛が飛び、街路樹の若葉が鮮やかな綺麗な街であった。バイクもバッテリー駆動が多く、街中にはトローリーバスが走り、一面では日本より環境面が進んでいた。ごく少数だが最新の3輪車も走っていたり、観光地から横道に入るとまだまだ貧しさを感じさせる路地が広がり、発展途上に有ることも解る。

旧関東州府の一部

トローリーバス

労働公園

サンルーフ付き3輪車

表のロシア人街

ロシア人街の裏路地
 駅前地下街の地下3階で6元の坦々麺と9元の水餃子(18個!)を食べてからホテルに帰り、旅行会社のバスで空港に向かう。
 飛行機で隣の席に座った女性は建築技術者で、大連の日本語学校を卒業後、日系の会社に勤めており、始めての海外旅行で日本の本社に3ヶ月の研修に行くところだった。富士山を見たいと言いながら、入国に際し税関で聞かれそうな想定問答に何回も目を通していた。中国に入国する日本人は気軽に越境できるのに、まだまだ香港・台湾を除いた中国人には違法入国の疑いをかけてハードルが高いのだと実感する。
 戦前に日本人が満州に行けたようにまだ日本人の優遇が続いている現状がある。東アジアの人々がビザ無しで自由に交流できる日々はいつ頃になるのかな、と思いながら成田空港で混雑する外国人窓口を横目に日本人窓口で簡単な入国手続きを済ませて帰国した。豚インフルエンザが流行している国からの帰国ではないので手続きも簡単だった。