真夏の被災地で考える
2011/07/22記
 来月上旬に予定している会派の行政視察先として、東松島市に現地調査に行くこととなり、そのついでに福島県相馬市周辺や岩手県陸前高田市周辺のように過去3回の支援活動で見ていない被災地も訪れて、様々なことを感じてきたので記載する。
 
 17日の夕方に現地でボランティア活動を行いたいと思っている地元の友人と共に木更津を出発し、その夜は福島市近郊で宿泊。
 18日は相馬市に抜けるため旧霊山町を経由して山越えをする。この周辺は放射線量の高い地帯であり、自主的避難が進んでいると思っていたが、早朝から散歩や除草作業を行っている高齢者の姿を多く目撃した。
 相馬市も津波被害が無い地域は普通の朝の風景である。しかし相馬港の方に向かえば、やはり片付けが済んでいない車両が放置され、護岸や道路などの被害も目につく。5月のいわき市の風景と違うのは、潮を被った土地でも雑草が生え始め緑が所々に見える事である。東北電力の新地火力発電所に近づけば津波で大きな被害を受けていることが解る。原発による加害ばかりが強調されるが、電力各社の被災も大きい。
 さらにJR常磐線の新地駅を見に行くが、被災した車両は当然として、駅舎やレールも撤去され野原のような状況である。鉄路の回復は大きなシンボルになるし、原発以北の常磐線には相馬市や南相馬市という都市が有るので復旧を急ぐべきと思うのであるが、現位置に復旧するのか高台に移設するのか地元でも意見が分かれ、工事には着手出来ない状況が続いているようだ。

▲相馬港周辺(遠くに発電所)
▼駅舎も線路も無い新地駅
 JR東日本が4月末に発表した数字では、営業収益が590億円(うち運輸収入420億円)が減少し、復旧費用等に要する特別損失として587億円を計上したという事である。この額には常磐線・仙石線等の津波で被害を受けた路線の一部は上記のような理由で復旧方法が決まらないため計上できないという事なので、最終的には1社で1500億円近い損失に成る可能性が有る。この震災が巌根駅のホーム延伸協定に落とす影も、駅舎の廃墟の中から見えてくるような気がする。
 
 山元から常磐道に乗り、津波を止めた仙台東道路を通るが、津波被害を受けた範囲でも雑草が生え始め、遠目には緑が増えている事を意外に思いながら三陸自動車道を矢本まで走り、コンビニで朝昼飯を購入して東松島市災害ボランティアセンターに到着する。
 
 会派で行政視察先の検討をする中で、震災に対応している災害ボランティアセンターの状況把握を入れようと言う話となり、当初は最大の避難者を出している石巻市を候補に考えていたのであるが、先方の様々な状況を把握していく中で、石巻に隣接する東松島市の方が受け入れ態勢がよいと変更したのである。
 先方と電話やメールでは打合せたが、一度現地に行った方が早そうであるし、センターの運営状況も個人ボランティアとして経験する方が良さそうだと、宮城県まで出かけたのである。
 
 この日に与えられた仕事はヘドロで埋没した畑の復元で、7名でおよそダンプ1杯分のヘドロ撤去を行った。依頼者は震災でご主人を亡くし、自宅と船も失った方で、現在も避難所で生活しているという事であった。4ヶ月が経ち、せめて畑仕事でも再開したいという要望であり、許可を得て写真を撮影させていただいた。

▲東松島ボランティアセンター
▼作業終了後の状況
 
 活動終了後に担当者と確認事項の調整を行い、目的は達成する。東松島災害ボランティアセンターは原則月曜定休で、月曜祭日の場合は火曜が休みなので19日は定休日となるので連日の活動が出来ない。そこで、2ヶ月前に見た南三陸町周辺の状況を確認したく、気仙沼まで北上を開始する。
 2ヶ月前は衝撃で町内を見て回る事がはばかられた南三陸町志津川地区も瓦礫撤去が進み、上屋が無くなったガソリンスタンドも営業再開するなど、僅かでは有るが前を向き始めている事が解るが、それでも高台から見下ろすとやはり一面の荒野である。
 気仙沼に到着し、予約してある旅館に到着。台風6号が冷たい空気を引き込んで来たためか、予想していた腐敗臭も無く蠅等の虫も少なく、心構えをしていただけに拍子抜けする。
 夜には、前に行くことが出来なかった「旬菜屋KEN」へと思ったが電話してみると定休日だったので、前回と同じ居酒屋へ行き、鰹と烏賊の刺身で酒を飲む。これらの肴は気仙沼で上がり始めたもので、新鮮な美味さに感動して一日を終える。
 
 18日は市内で朝食を取るべく車で街中に入る。港は少し嵩上げ工事を行っていたが大きな変化はなかったし、南気仙沼駅前の風景が2ヶ月経っても殆ど変わっていないことに驚かされる。

▲JR南気仙沼駅前広場だった空間 ▼2ヶ月前の写真
 
 復興に向けた取組の遅さが実感され、国政の空転という罪で現地が被害を受けて居る事が解る。街中でファミレスや牛丼屋も復旧に向けた改修工事中で早朝に開店している店舗が見つからず、結局今日もコンビニの弁当で朝食を済ませ、気仙沼災害ボランティアセンターへ行く。
 気仙沼での活動を行った理由は、前回から2ヶ月経った状況を確認したいことと、友人にも気仙沼の被災状況を実感して貰いたいためである。この日は平日にも関わらず百人以上のボランティアが集まっており、我々は漁業用アンカー造りのお手伝いに唐桑地区に10名で向かうことになった。リーダーは2ヶ月前に一緒に活動した地元の青年で、偶然の再会が嬉しい。他には兵庫県や長野県などから仕事の休みをやりくりして集まってきており、多くは車中泊やテントで連日の活動を行っていると聞くと、日本のボランティア精神が足腰の強いものに成っている感覚を頼もしく覚える。
 唐桑の漁師さんから災害の話や、昔の遠洋漁業でアフリカに行った話などを聞きながら、養殖用生け簀の重石として40kg程度の砂利を入れた袋を何百と作り、腕の筋肉に疲労を残して午後3時に作業は終了。気仙沼災害ボランティアセンターは水曜定休で翌日休みという事と台風6号接近という事もあり、温泉で汗を流して気仙沼を離れた。この日は前回確認していない気仙沼以北の状況を見て奥州市水沢まで移動する事にした。
 
 まず、気仙沼でも被害が大きいと言われる鹿折地区に入ってみるとビルの撤去も進まず、海から500m程度離れているJR駅前には大型の漁船が鎮座したままである。

▲鹿折唐桑駅前の船
▼焼けこげた横断歩道
 このような大型の船が市街地に流されてきたことで破壊された家屋も多く、事前に津波スクリーンの対策も検討されていたようだが間に合わなかったようだ。木更津港でも検討に加えるよう、6月議会で平野卓義議員が質問していたが、本市の街中をガット船で破壊されない対策が必要だと、鹿折の景色を見ながら思った。火災の爪痕も多く残り、震災から130日も経過していると思えない。
 
 更に北上して7月10日に開通したばかりの国道45号線気仙大橋の仮橋を渡り陸前高田市に入る。本市の消防隊より市街地が壊滅的な破壊を受けていると聞いていたが、残されたビルの被害状況は想像以上で、海岸線にあったはずの松原公園の殆どは海中に没していた。

▲残された「一本松」
▼ビル4階の窓が割れている
▼周辺が水没している高田松原第一球場
 市街地の木造住宅の殆どは綺麗に片づけられていたが、水没を逃れた松原公園では撤去された瓦礫が大きな山となっていた。本市のKCSのような溶融炉を早急に建設し、量の縮小とともに溶融スラグを大量生産し、海岸の補強をしないと台風の高波に耐えられまいと思った。そのためには環境アセスメントなどの省略が出きる特区制度が急がれるのだろう。
 
 更に進み、大船渡市に入るが、こちらは被害から逃れた市街地も多く、銘菓『かもめの玉子』のさいとう製菓の売店が国道脇に開いていたので土産購入に立ち寄る。支払いをカードで行おうとするとシステムが復活していないという事で、まだまだ震災の影響が大きいことが解る。
 大船渡からは内陸に入り、住用町の木造仮設住宅などを眺めながら水沢まで移動し、駅前のビジネスホテルに泊まる。
 
 19日は朝から台風の影響で雨だと思っていたが降水確率が低いため、フィルムコミッションの先進地である「藤原の郷」を見学した後、2008年6月14日に岩手県内陸南部で発生した、マグニチュード7.2の岩手・宮城内陸地震の跡地を見に行く。岩手県では、3年前の地震被害が生々しい内に今回の大震災に見舞われているのであるから、つくづく辛抱強い県民性に脱帽するばかりである。
 

▲天然ダムの放水路
▼保存された祭時大橋
 
 一関市の磐井川では大規模な土砂崩れが発生し、多くの天然ダムが出きると共に祭時大橋の橋台部分を含む多くの斜面崩壊が発生し、国道342号線は2年間に渡り通行止めとなっていた。
 天然ダムが決壊すると一関市市街に被害が発生すると共に、東北自動車道や東北新幹線も大きな被害が生じると考えられることから斜面安定工事と放水路工事を進めている事も聞いていたし、祭時大橋はモニュメントとして保存する事も気になっていたので、あまり興味がない友人に『建設オタク』と言われながらも寄り道させていただいたのである。
 
 この地震で祭時大橋というシンボルがあったのでモニュメントとして残すことになった。一方、今回の東日本大震災では象徴的な被害物件もあまりに多く、仮に震災記念館を造るとしても場所の選択に困ってしまうことであろう。
 どうせなら都市の復旧を個別に国際コンペに掛け、未来型都市を国道45号線に沿って数多く並べ、それで都市博を開催するという夢のあるようなプロジェクトが必要とされているのかもしれない。
 真夏の被災地を旅しながらそんなことを考えていた。
 
 ※24日まで断続的に加筆を続けた。