冬の被災地で考える
2011/12/29記
 年末の公務も終わり、大掃除などの行事を後回しにして、今年最後の東北に向かうことにした。秋に気仙沼に行ったときに来月の後半にもう一度来るから、と言っていたのに11月議会の準備が予想以上に忙しかった事と視察や研修が建て続いたので行けなくなったことが気がかりであった事と、今月から常磐道水戸IC以北が無料になった事が東北に向かわせた要因である。
 
 今年の1月15日には、まさか2ヶ月後に震災で福島第一発電所の近くが立入禁止になる事を想像もしないまま、国道6号線を北上し、浪江町で焼きそばを食べてから雪の松島を見に行った。
 それから大震災を経て344日目となる日に再度同じ風景を見るために大高森に登った。もちろん、国道6号線は通れなくなっており、東北道を経由して目的地に辿り着いた。岡の上から見る風景は雪がないことを除けば大きな変化はなかった

▲2011年1月15日の松島

▲2011年12月25日の松島
 
 山から見る松島の風景には大きな変化が無くても、途中の風景は344日前に見たものとは大きく変わっていた。街並みは消失し、農地であった空間が水面に変わっており、松原も多くが倒されて密度が薄くなっていた。こんな状況で松島観光を行うものなど居ないのかなと無人の駐車場に車を停めて山頂に登ったのだが、その後に若者が一人来たことが救いであった。
 
 ちなみに手前の東松島市の風景は震災から289日が経過しても依然として下のような状況であった。建築物が被災していることはもちろん、地盤沈下の影響で多くの陸地、特に水田が海面下に没している。
 この写真の近くにあるJRの東名駅付近は、津波被害が生じない場所に仙石線を付け替える事が決まるなど方針は出されつつあるが建設工事に着手される段階には至っていない。東松島市には2回ほどボランティアで訪れながら見ていない風景があったのだと思いながら、石巻に移動する。
 
 石巻で顕著な活動している企業の一つとして『築地銀だこ』の話しも聴いていた。震災後に被災者にタコ焼きを配るという活動から先に進み、本社を石巻に移転して法人税として市を支える一方で、賛同する企業と供に『ホット横丁石巻』を運営することで賑わいを創出しているのだ。その店内を見て回ったが、多くの親子連れが訪れており、つかの間のクリスマスを楽しんでいるようで嬉しかった。そこからは徒歩で市内を見に行った。
 駅前の市役所に行くと、尋ね人の掲示板に津波で流された親族を捜している紙が4枚ほど残っていた。まだ心の区切りが出来ない気持ちを思うと辛くなる。さらに漫画ロードを進み石ノ森漫画館に行く。開園は当面できそうもない気配であったが、向かい側にある木造の旧石巻ハリストス正教会教会堂が奇跡のように流されることなく残っており、その補修工事が始められていた。
 さらに夏にも行った日和山公園に足を伸ばし、石段を海に向かって下りる。墓地では石が倒壊したままの物が多く、津波と火災に襲われた門脇小学校は無惨な姿をさらし続けていた。
 ※大晦日の紅白で長渕剛が歌ったのがこの校庭である。映像の通りに周辺に住居は残っていない。
 
 日本製紙の石巻工場は破損したままでも工場が再開されており復興に向かっている事は解るのであるが、歩みの遅さがどうしても気になる。宮城県では企業の倒産等に伴う失業者が増えている中で、建設労働者の求人倍率が7倍を越えるなど、復興に向けた人材不足も顕著になっており、復旧が本格化するのは来年の事であろうと思われる。
 
 この夜は仙台のビジネスホテルに泊まり、光のページェントを見に出かけた。道路を挟んで向かい合う公園ではdocomoとauがそれぞれのイメージアップを競い合うように華やかな演出を行い、通りにも大勢の人が集まっており、仙台は既に復興を果たしたように見えていた。
 
 翌朝は5時に起床し、夜明け前の暗闇で雪が降る中で気仙沼を目指して車を走らせる。岩手県に入る頃には晴れ間が広がり、仙台から2時間半で付いた気仙沼は快晴で、気温はマイナス2度であった。朝食を取り、いつもの南気仙沼駅前を見に行く。  

▲5/19の写真   ▼12/26の写真
 被災地以外では、年が変われば震災を過去のことに忘れる人達も出てくるだろうが、現場ではまだ時が止まったような状況にあり、継続的な支援が必要とされていることを意識し続ける事が重要だと解る。仙台の中心街のように元気を取り戻したところはごく一部なのである。
 
 8時半に気仙沼社会福祉協議会ボランティアセンターに行き、5回目の活動手続きを行う。全体では5/8いわき市・5/20-21気仙沼市・6/5山田町・7/18東松島市・7/19気仙沼市・8/2東松島市・9/24いわき市・10/8気仙沼市・11/13山田町に続く11回目のボランティア活動である。
 この日は鹿折地区での側溝清掃に申し出て、凍り付いた土をツルハシで起こし、スコップで土嚢袋に詰める作業を14人で行う。震災後9ヶ月が経過しても、まだまだやるべき事の多さに愕然とする。活動場所は駅の近くで、象徴とも言える漁船が鎮座していた。昼休みを利用して写真撮影も行った。震災直後は被災者の心の痛みを感じカメラを向けられなかった物が、時間の経過により現地でもどんどん写してくれと言われるようになっている。
 
 駅前広場を塞いでいる、この巨大な漁船をモニュメントとして残すべきかという議論が起きているようだ。この船で家を破壊された人にとっては早く撤去して欲しいという気持ちがあり、また錆を防ぐための塗装などの維持費が重くなるという点も有るようだ。しかし映像や記録だけでない現物を残すことで、常に防災意識を喚起するという事や、有る意味では観光資源として復興の手助けにする事も考えると、個人的には残してもらいたいと思う。
 
 効率よく作業を進めたので午後2時に終了となりセンターに戻った。そこで宿泊情報を元に数ヶ所のホテルに電話をして宿を確保する事が出来たので、この夜は気仙沼を味わえる。
 前回来たときに復旧していた「お魚市場」で土産を購入して宿に向かい、車を停めてから徒歩で屋台村復興横丁に出かける。 
 
 日没後の暗い被災地を抜けて、港の前に有る復興横丁に到着し、多くの店の中から「男子厨房 海の家」に入る。酒を注文しながら店主に話を聞けば、今回の津波で経営していた民宿を流された3名が協力して営んでいる店だという事である。
 先月より絞り始めたという地酒男山の燗とともにモーカの星、ドンコのたたき、いかモナカというメニューを頼む。出された摘みのあまりの旨さに酒が進み、この様な観光からでも復活が出来るのではないかと思わされた。
 店主に聴けば、11月12日のプレオープン以降はボランティアツアーや団体のバスが来て、それなりに混む日も有ると言うことだ。しかし、ボランティアなんてしなくても良いから、鹿折唐桑駅前の漁船を見て市内に泊まり酒を飲むという、単純な観光でも経済は活性化して復興に繋がるのだから、これほど旨い肴を食べる観光ツアーの段階に入るべきだろうと、飲みながら思っていた。
 5本ほど燗酒を飲んでから、毎回行こうとして行けなかった旬菜屋KENに移動する。そこで4年前の感謝と、今回無事に残ったことの喜びを伝えながらお勧めの日本酒を飲み、気仙沼の夜は更けていった。
 
 年が変わったら頻度が落ちるだろうが、それでも被災地には何度か足を運び続けて励ましを行うと供に、復興の程度を見届けようと思う。さらに今回の震災を、近年中に訪れるであろう東海地震の教訓にするよう対策を進めることが何より重要だろうと、大量の酒を飲みながら、冬の気仙沼で考えていた。
 
※12月31日に一部加筆をした