秋の被災地で考える
2011/10/12記
 9月議会も終わり、日程に若干の余裕が出来たので今年になって11回目となる東北に行くことにした。特に今回は過去の支援活動で見ていない岩手県山田町以北も訪れる企画とした。
 
 7日の早に被災の現場を見たことが無い地元の知人を福島駅前で拾って登山などをした後に気仙沼市まで入る。日は沈み掛けていたが、早速定点観測をしている南気仙沼駅まで行ってみると駅舎の建物は無くなっていた。

▲5/19の写真 ▼7/18の写真

▼今回(10/8)の写真・少しは片づいてきたようだ

 周辺は建築制限を掛けられているので撤去だけが進んでいる。相変わらず水没する状況は変わらず、復興にはまだまだ時間が必要そうである。しかし、港の周辺に行くと「さかな市場」が復活し、改修工事の建物も見られるなど、7ヶ月を目前に少しずつ賑わいを取り戻していることが解った。
 
 8日は数日前に再開した牛丼屋で朝食を取り、コンビニで昼食を用意してから、気仙沼社会福祉協議会ボランティアセンター(旧災害ボランティアセンター)へ行くと5月の活動を供に行い、前回は運営スタッフとして顔を合わせた若者が3名も居た。懐かしさも手伝い話を聞くと、彼らはそれぞれに仕事などを始めながらも5ヶ月も活動を続けていることを知り、心から頭が下がる。
 この日の活動は9件の現場に58人が向かうことになり、私は迷わず気仙沼大島での活動に申し込んだ。需要人数が少なかったので知人とは別行動となり、彼は港の周りの側溝掃除に加わった。気仙沼大島を目指したのは、個人的に未踏の島の中で最大の人口を持つから、という事だけでなく、被災から4ヶ月経ってからボランティアを受け付けることが出来るように成り、現在でも復旧が大きく遅れていると話を聞いていたからである。
 ボランティアと解るように全員にビブスが配られ港に向かう。大島行きの10人が9:30の船で島に渡り、島で4人が民家の草刈、6人がホテルの室内片付けを行う仕事に分かれた。

▲気仙沼港から乗船
▼カモメと気仙沼港

▲水面下の漁港設備
▼活動先で休憩中に撮影
 私はホテルの片付けに加わり、散乱する部屋から荷物を出し続けた。活動にはボランティアセンターとは別に関西学院大学の学生と引率の7名が加わり、ここで連日作業をしている指揮者と供に14名で畳やロッカーを運び、割れたガラスの分別等を行った。
 島では学生などの団体を受け入れており、この週末には関西学院大学を含め、200人近い人が活動しているようだ。知人が活動した市街地側でも東京大学の学生が働いていたと言うことで、このような学生時代の体験が社会に出ていく前に心に刻まれることは良い学習に成るだろうと思った。
 人数に関して言えば、学校等の団体は持続しているものの、個人単位のボランティアは減少してきており、平日は運営スタッフが働きに出ても需要を満たすことが出来ないと聞いた。この辺りは首都圏に近いいわき市と差が出ているようだ。
 
 この日の仕事はとても夕方までに片づくような内容ではなく、午後3:30の船に間に合うように作業を終え、ボランティアセンターに帰った。知人の班と帰ったタイミングが一緒だったようで待たせることも無かった。なお、どうでも良い情報であるが気仙沼大島に行ったので、未踏の島の中で最大人口の島は青海島になった。
 この夜は連休中ということもあり、市街地の宿が確保できず唐桑半島先端の国民宿舎に泊まることになった。宿は平日には復興工事の業者で混雑しているという事であったが、連休中に入り逆に部屋が空いているとの事であった。観光地に有る宿なのにおかしな現象である。そろそろ、被災地に観光客が帰ってきても良いようだが、妙に自粛中なのは却って経済復興の足を引っ張るのではと思う。
 
 9日は大船渡市に有る五葉山に登り市街地が復旧していない釜石に泊まる。賑わいは気仙沼以下だと思われた。
 10日は津波を止められなかった田老の大防波堤を見終えた後、三陸海岸で唯一津波災害を防いだ普代村の防波堤(水門)を見に行く。普代村は明治29年と昭和8年の大津波で多くの犠牲者を出した経験を元に、故・和村幸得村長が昭和59年に普代川の河口から近くに写真の水門を完成させたのである。

▲内陸側から撮影
▼海側から撮影
 昭和40年代の集落周辺の防潮堤と合わせた総工費は約36億円で小さな村には巨額過ぎ、反対論も多かったが「明治29年の大津波は高さ15mあった」という言い伝えに基づき、譲らなかった事が今回の結果に繋がったようだ。自分が当時の議員であって、この巨大施設の図面を見たときに、はたして賛成していただろうかと考えると自信がない。
 国道45号線を北上する中で『津波想定区域』に指定されている中で、無傷の普代村を見ると先人の偉大さを偲ぶことになるが、村民にとっては自分たちだけ助かって申し訳ないという気持ちも有るのだろうかと、東北人の優しさを考えざるを得ない。
 
 田野畑村では大規模に堤防が破壊されていたが、久慈市を越えると被災規模も目立たなくなり、八戸を過ぎた下北半島の海岸線では津波の痕跡を特に見ることは無かった。今回の旅ではここまで足を伸ばしたついでに原子力利用関連施設が立地する六ヶ所村を見に行ったが、耕作されていない多くの土地と、役場周辺の綺麗な街並み、さらに設備の立派さに感心する温泉施設(スパハウスろっかぽっか)に、税収の豊かさと、原子力に頼らざるを得ない村の状況を味わいながら汗を流していた。
 六ヶ所村から木更津まで10時間を超える長距離ドライブは厳しかったが、「こすもすフェスティバル」「第2回国保いきいきフェスタin木更津」「まごころ広場整備基金チャリティショー」等の開催を知りながら出席しなかった分以上に見聞を広げることが出来た思いつつ、この文章を記載した。