春の被災地で考える | |
2012/04/01記 | |
3月議会も終わり、年度末までの『東日本大震災による東北地方の高速道路無料措置』を利用し、恒例になるつつある気仙沼に向かうことを考えた。昨年末から3ヶ月ぶりで、場合によると館山や鴨川のような近隣市に行くより気仙沼の方が行っている頻度が高いかも知れないと思いつつ、ボランティアセンターのHPを見ると、行く予定であった29日が引っ越し作業のようである。27日の昼間に電話すると、センターの引越手伝いで良ければ、と受け入れて貰うことが決まり、その日の夜9時過ぎにアクアラインを渡ることにした。 27日のうちには福島市までしか走らず、そこの24時間営業の健康センターで仮眠を取り、翌日は無料措置によって渋滞する東北道を進み、途中で寄り道をしながら大東町に入り国道343号線で午後1時に陸前高田市に着いた。 |
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JR大船渡線の気仙川に掛かる鉄橋が、海が見えない位置にも係わらず流されて落ちている事や、市街地では市役所や公民館、大型商業施設等の解体工事が行われていない事など、震災から1年を超えてなお冷たい現実を目に焼き付けてから『奇跡の一本松』を見に行く。平日なのに多くの人が松の近くまで歩いている。 根本に地蔵様を祭った松の手前には「一本松の願い」として『少し休みます。枯れても切らないでね。変わったかたちで甦ります。』という看板が出され、その前には多くの花が置かれ、ここがシンボルになっている事が解る。その一方で、その近傍では膨大な瓦礫の山を築くために重機が動いており、一刻も早く本市を始めとしたKCSでも処分に協力せねばと思えてきた。 唐桑地区を過ぎて市内に向かおうとすると、打ち上げられた第十八共徳丸の前で記念写真を撮る団体がいた。 震災の記録を観光にすることには異論も多そうだが、経済が回り国民の意識が持続されるので有れば仕方ないと個人的には思うが、被災者はどの様な目で見ているのだろうか。 この日は気仙沼の宿泊所リストで6件目に予約が取れたホテル望洋の宴会室をボランティア用に用意した部屋である。相変わらず宿泊需要は多く、この夜の食事で一緒になった人も宿が取れずに最終電車で一関に行って泊まると言っていた。ホテルだけでなく、建設会社やコンビニ等は復興需要がますます高まっている気配を感じる。 商店街も幾つかは仮設店舗で営業を開始し、若干の賑わいが戻ってきているとは言うが、この日の夕方に買い物に訪れている人は少なかった。 |
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私は5時を回ったところで前回に来たときと同じ店に入ると『お久しぶりですね』と声を掛けられる。前も沢山お話をしたので記憶に残っていたのだろうと思いながら、今回も一人で来ている多くの方と話をしながら、夜8時を過ぎるまで、3時間以上も飲んでから宿に帰った。 翌朝早くに目覚め、朝風呂を済ませ、朝の市場を見に行く。 |
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競りは行われているようで、人の動きも有ったが、施設の半分はまだ嵩上げのために工事中であったことには、進みの遅さに驚かされた。 次いで、定点観測をしている南気仙沼駅前の状況の変化を見に行く。 |
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▲2011/5/19の写真 ▼2012/3/26の写真 |
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年末まであった傾いた木も含め、多くの物が片づいており、採石道路だった工事関係者の道路も年度末をもって舗装工事を行っていた。商業ビルの撤去は進んでいたが、まだまだ多くの建築物が残っており、将来計画も定まらない地域が何処に向かおうとしているのか予測が出来ない。 これらを「朝飯前」に済ませ、7時半に吉野家で朝食を取り、昼食のおにぎりをコンビニで購入してからボランティアセンターに顔を出す。この日は12名だけを予約で受け付け、それ以外は需要がないと断ったという事である。 5名はNHKの取材が入るらしい写真の洗浄作業へ向かい、私を含めた7名はボランティアセンターの移動作業に入り、テントの撤去や新しい場所での設置、自転車の回送等の作業を行う。参加している人達は皆が個人の参加で、前年中に気仙沼でボランティアをしていた人が多かった。中には前年3月の設置に立ち会った人もいて、皆手順が良く働き、予定していた以上の作業が予定より早い2時半に終了した。 |
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車に乗って走り始めたところで、永原議員の件で急遽会派室に集合という連絡が入ったが物理的に難しいことを伝え、国道45号線で南三陸町を目指した。 被災を受けた沿道で目につくのはコンビニの営業である。水道・電気・ガスと同じように物流を行うインフラにコンビニが成っていることを今更のように実感する。 廃墟のままである南三陸町の旧市街から少し内陸に向かうと「南三陸さんさん商店街」という28軒が一度に出店している仮設商店街を発見したので立ち寄る。 |
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復興商店街の海側には3階まで津波で破壊されたビルが隣接し被害のことを思わざるを得ない立地環境に息を呑む。営業していた豊楽食堂で焼きそばを食べながら応援招き猫を見て、ヤマウチで海産物や日本酒を土産品に買って、三陸に元気が早く戻ることを期待して帰路に着いた。 被災地は具体的な計画が示されない中で、手探りで明るさを取り戻しているものの、なかなか軌道に乗らない状況を見てくるのも辛い話であるが、今まで継続的に見てきた人物として、今後も定期的に気仙沼市を中心に訪れて、変化を見たいと考えながら夜の東北道を走ってきた。 |