震災501日目に思う
2012/07/24記
 昨年3月11日に発生した東日本大震災から昨日で500日が経過した事をラジオで聞いた。従って本日は501日目となって世間の感心が段々薄れてくる段階に入っているのだろうと思う。
 震災の中でも、フクシマについては国会や政府の事故調査報告書が自己弁護になっていない厳しい内容で発表された事が、自己批判能力を保持していたかと感心させられたり、大飯原発の再稼働に対して日本各地で反原発デモが繰り広げられている事に対して、日本人にも自発的にデモという意志表示をする文化が根付いてきたことに驚かされたりするなど、現在進行形の事象が多いが、被災地の復興については遅々として進まないようで、画期的な話を聞くことが少なくなっている。
 
 被災地の復興はボランティアによる人的支援の段階から、現地の建設業者による復興景気と観光や交流による精神・経済支援の段階に移りつつあるという認識を持っており、単に状況を見に行くだけでも良いから東北に行こう、と思いながら3月末の気仙沼以来、足が遠のいてしまっている。
 来月の冒頭には『かずさ災害支援ネットワーク』が岩手県山田町の少年野球チームを招き、東京ディズニーランドへ招待したり、木更津の少年野球チームと交流親善試合を行った後にマリスタでプロ野球の観戦を行うようだが、その日程は会派の視察と重複していて参加することが出来ない。
 別口で友人から来月末に南相馬市小高地区でボランティアをしないかという呼びかけがあったので、そちらには参加する方向で日程を調整中であるし、その前に可能で有れば気仙沼まで行ってモウカの星を食べながら陸前男山でも飲んできたいと願っている。
 
 そんな遠くまで行かなくても、身近な被災地の旭市飯岡地区を見に行こうかと思ったのは昨日のFMラジオで矢指ヶ浦海岸で『あさひ砂の彫刻美術展』が行われていることを知ったからである。考えてみれば昨年5月1日に見に行ったきり、東北には何遍も行きながら飯岡を訪れていない事にも気が付いた。
 午前中で仕事を片づけ、海岸に着いてみると日本各地から作家が集まっているようで、想像以上に芸術的、かつメッセージ性の高い作品も多く、入場料も無料で想像以上に楽しめた。
 
 この作品は国会議事堂と思われる建物の後ろで耳を塞ぐ政治家(?)に対し「とめろ」「ブタ!」と市民の声が響き、その後ろには死に神が近寄っているという、石川県羽咋市の千里浜砂像協会の作品でサブタイトルは「止めないブタはただのブタだ」と有った。能登半島には活断層の懸念がある志賀原発も有るので、その停止の話かと思いながら見てきた。多くの作品の中で最も気に入った作品である。ただ隣接する海岸では、平日という事もあり、海水浴を楽しんでいる人は少なく、私も夕方に用事があるので海には入らずに会場を後にした。
 
 その後、飯岡の街中に行くと、空き地には雑草が生え、僅かに建築に向けた地鎮祭の跡も見えたが、新築の家は殆ど見られなかった。海岸から離れ始めているのだろう。さらに、港に行くと5月に見た瓦礫の山は奇麗になくなっており、処理が進まない東北との進捗の差を感じた。身近な瓦礫の山が無くなっていると、東北にある山を想像する事が出来なくなってくるのでは、と思った。
 
 飯岡をさっと見て、土産を購入して帰宅したが、被災地への意識を維持し続ける大変さを改めて考えさせられていた。