2年目の夏の東北で思う
2012/08/12記
 議会終了後には定期的に訪れていた気仙沼に向かうことが今回はすっかり空いてしまった。お盆前に少し時間が取れそうなので早めの夏休みにして訪れようと考えた。今回は月末に福島でボランティアを行なう予定なので、宮城県では今まで見てこなかった牡鹿半島の周辺へ行き、夜の経済支援を行うだけにしようと考えた。
 夜中に高速を走り、前回より134日が経過した8月9日朝に東北道大衡ICを降りた。最近本で見た大崎市三本木で設営されている42万本の「ひまわりの丘」を見に立ち寄るためである。
 かつて木更津市農協が「花ほたる」という事業を行って多くの人を集めた実績があるように、アクアラインの効果を出すために、この様な風景造りが有効だろうと強く思いながら早朝に見ていた。
 
 そこから石巻を経由して牡鹿半島の鮎川を目指す。私には28年ぶりの訪問である。この地域は震源域に近く、地盤沈下も最大値を記録して、人口の少なさも起因して復旧も進んでいないと聞いていたので足を遠ざけていたのである。
 道路は未だに数ヶ所で片側通行が行われており、海岸沿いは大型土嚢を積んだ仮設堤防が設置され、港は嵩上げされずに水没している箇所も多かった。
 港の近くに「おしかのれん街」という小規模な復興商店街が有り、そこで土産物を購入しながら話を聞くと、観光地でもあった金華山には今でも定期航路が復旧できず、チャーター船で高い金額を払わないと渡れないという事のようだ。店の人が言うには神社の所有地と繋ぐ整備には公共性が少なくて補助金が出ないと言うことだが真実の程は解らない。何れにしろ、松島のような観光の復活は此処ではまだ先という現実を知る。
 
 半島の東側に回り北上を開始すると、橋の床盤が引き波で海側にずれてしまったのもが現れ津波の力を再確認させられる。道は農道を使って迂回路が出来ているが、しばらく道がなかったという報道を思い出す。
 
 石巻市から女川町に入り、原発を超えて街中に近づく。ここは1年前に会派の視察で訪れた場所なのに何か違和感がある。旧中心市街地で、「残す」と決めたもの以外が殆ど奇麗に無くなったからだと違和感の原因に気が着いた。

▲2011/8/2の写真   ▼2012/8/9の写真
 上記のように、モニュメントにすると言われている倒壊したビルを除き、前回は隣にあったビルも含めた周辺が奇麗に更地になっていたのであった。なお、前回は満潮で街の多くが水没していたが、この時は干潮のため海水が入り込んでおらず、その点も雰囲気が異なる点であった。
 
 女川から石巻市の雄勝地区に入ると公民館や学校、市役所支所(旧町役場)などが撤去されずに残っており、進捗率の差を感じる。ここでも「おがち店こ屋街」という復興商店街が出来ていたので、そこに立ち寄り昼食を執っていると次々に工事関係でも地元でもなさそうなお客さんが来る。被災地の観光客で経済は動いているのかもと思いながら先へ進む。
 
 雄勝から山を越えたところが児童108名中74名が死亡・行方不明、教職員で校内にいた11名のうち10名が死亡・行方不明となった大川小学校がある旧河北町である。ダンプカーが走り回る荒れ地となった中に学校だけが撤去されずに残っており、手前には慰霊の母子像も設けられ、さらに平日の午後にも係わらず多くの人が訪れていた。
 現地は上記の写真のように海が直接見えない場所で、此処に大きな津波が来ると想像はしにくかっただろうと思いつつ、近づいて校舎の状況を見ると、体育館への渡り廊下がコンクリートの構造物なのに押し倒されており、その他の破損個所でも引き波の強さを感じる破壊形態が目につく。
 倒壊の恐れがあるということで建物の回りはロープで囲まれ立入禁止になっていた。校舎の後ろには左下の写真のように最近切り取られた斜面があり、そこに維持管理用の階段でも有れば皆が上がったのだろうと残念に思わされる。ちなみにこの斜面も立入禁止となっており、登りにくさを体感することは出来なかった。
 皆が避難しようとした学校より高台に架かる新北上川橋は右下の写真のように南三陸側のトラス構造が流されてしまうほどの破壊を受けている(仮設構造で通行させている)。
 宮城県が2004年に策定した津波浸水域予測図では、大川小学校まで津波は来ないとされて避難所に指定されていた。そのため、地震後に高齢者を含む近所の住民が避難しており、それが裏山への避難を躊躇させたようでもある。
 起きたことを報道で知っている自分自身が、現場を前に自然の猛威を想像することが難しいと考えさせら、それと同時に北上川が海から悪魔を招いてしまったという現実に恐怖を感じた。
 東京湾に起きると想定され始めた東海連動地震に起因する津波は、高潮程度に大人しいものになってくれるのだろうかと考えながら、最悪の場合を想定することが政治の仕事なのかも知れないと現地で思い知らされた気がした。
 
 さらに北上を続け、南三陸町に入ると志津川病院も解体されて無くなっており、荒野に旧防災庁舎が妙に目立つ状況になっている事に気持ちが塞がれる。
 前夜の寝不足を感じて途中の駐車場で仮眠を取っている内に帰宅の渋滞が始まり、日のある内に定点の南気仙沼駅を見に行こうと急ぐ。近づくとまだまだ多くのビルが残っており、撤去完了までも長い時間が必要だと思い知らされた。

▲2011/5/19の写真   ▼2012/8/9の写真
 
 さらに鹿折唐桑駅前の漁船を見に行くと、3月には無かった看板が立っている事に気が着いた。
 前回に来たときにも観光バスで記念写真を撮っている事に気が着いたが、その配慮の無さに市役所に苦情が多く寄せられたという事だろうか。私も住民から見ると配慮のない観光客に見えるのかも知れないと思うが、現状を多くの人に伝えて欲しいという生の声も多く聞いているので戸惑いつつ写真を撮り続ける。
 写真を撮影後、街中の「おさかな市場」で買い物をしているうちに満ち潮になりはじめ、日没後の街が静かに海に沈み始める気配を感じた。復興商店街の行きつけの店に入り、酒を飲みながら話を聞くと大島には海水浴場が開かれるなど、少しづつは日常を取り返しているようだが、まだまだ先の厳しさも知ることになる。
 
 定期的な被災地訪問も、今後は間が空いてくるという自覚はあるが、忘れずに気に掛けている人達が日本中に居るんだよというメッセージを発していけるよう、取り組んでいかなければと思うとともに、この震災から学んだことを確実に活かしていかなければと心に誓いながら気仙沼の夜は更けていった。