フクシマ20km圏内を見る
2012/08/27記
 福島県南相馬市へ連続してボランティアに出かけている有人から『週末に南相馬へボランティアに行くけど参加する?』というお誘いがあり、議会質問の内容精査を進める必要を感じつつも、立ち入り禁止であった小高地区への支援と聞き、参加を決めた。
 
 25日の早朝に伊達市を発ち、相馬市を経由して南相馬市の鹿島地区に有るボランティアセンターに着くと神奈川県からの団体バスや、中日ドラゴンズの応援団の団体などを含めとても多くのボランティアが集まっていた(後で聞くと約140名という事であった)。放射線の風評に屈せず、多くの人が1年半後にも駆けつけている事に、まだまだ日本人も捨てたものではないと感心しながら受付を済ませた。この日のニーズは個人宅の片付けや草刈が5件なので、それぞれの場所に多くの人が回せることになり、私たちが向かった先は津波が到達しなかった場所で、揺れに対する片付けが終わっていない家であった。
 
 小高地区は福島第一原子力発電所から20kmであるため避難対象地区となり、旧小高町の全ての住民が他地域へ移住させられていた。その後、距離でなく放射線量による見直しが行われた結果、今年の4月16日から警戒区域から外れて、自由に出入りできるようになったのである。しかし、夜間の宿泊は依然として禁止なので、ボランティア作業をお願いする人も避難所から立会のために自宅を訪れる必要があるため、被災規模の割にはニーズが増えないようだ。
 
 前回の氷点下と一変して、気温35度の猛暑日の作業で大汗を流しながら作業を行うが、39名という数の力で、順調に仕事が片づき、依頼のあった片付けに加え、家屋回りの草刈や溝払いを行って午後2時頃に終了し、予想より1時間以上早めにボランティアセンターに帰って資機材を返却した。午後3時に解散という、時間的には短い仕事であった。
 センターの近くにある『かしま福幸商店街』という仮設商店街でかき氷を食べる。この商店街は、鹿島地区の海岸線の方だけでなく、市街地でも地震で商店が使えなくなった人や、小高地区から避難しているような人達で成り立っているという事であった。それから宿に行く前に時間があるので海辺の状況を見に行く。
 
 ボランティアに向かった小高地区では道路脇にコンテナや自動車が散乱しており片付け作業がまだ始まったばかりという感じはしていた。さらに、小高地区は環境省の管理下に置かれているため、ボランティアが集めた廃棄物等も搬出が許可されず、全て自宅の近くに野積みせざるを得ない状況なので独特の景観である。
 一方この日に見に行った鹿島地区では家屋や自動車などの撤去は殆ど終わっていたが、海岸の防波堤や防潮林の復旧は全く行われておらず、津波が入ったと思われる水田地帯も一面の雑草で農作は行われておらず、一部の向日葵だけが目立っていた。撤去が進んでも復旧までの道のりは長そうである。
 
 この夜は市街地の宿が全く取れないため、郊外の農家民宿に泊まることになった。そこで毎週末に南相馬でボランティアをしているという常連さんと一緒になり、何故中心街の原ノ町ではなく郊外であり小高に遠い鹿島にセンターがあるのか等、参考になる話を沢山教えていただいた。
 
 翌朝も作業に出る常連さんを見送り、帰路に着く前に警戒線や小高の駅前商店街などを見に行く。街中には人影はなく、営業中の店舗も見あたらず、倒壊しそうな家屋も撤去されずに残っており、500日以上も時が止まっているような街であった。
 
 2030年のエネルギーとして原子力発電所をどの程度の割合で維持するかという議論が行われている。しかし、事故が起きた場合にはまたこの様な風景を生産してしまうことに成るのだろうかと考え、改めてフクシマの悲劇を考えながら帰路に着いた。