31ヶ月後の被災地で考える
2013/10/10記
 春の連休の前半にも三陸の被災地を訪ねて来たが、今年の夏を過ぎてから震災モニュメントと化している地の撤去が始まると聞き、秋の時間が取れるときを狙って東北に足を伸ばすことにした。
 9月29日の夜に木更津を出て東北を大きく回り込むドライブを楽しみ、気仙沼には10月3日の夜に入った。宿は駅前のパールホテルで、8時過ぎに復興商店街等に繰り出して色々な話を聞いた。
 
 4日の朝は当該地域の変化を見ようと車を走らせる。先ずは恒例の南気仙沼駅前に行く。

▲2011/5/19の写真   ▼2013/4/29の写真

▼2013/10/4の写真
 GWに見た風景との変化の少なさに驚かされるほど、この周辺は何も変わっていなかった。しかし、これから数年以内に着手されるだろう三陸自動車道で湾口に大きな橋梁が掛けられる事になり、これに伴い風景は激変するのだろうと思う。
 
 
 次にJR鹿折唐桑駅前駅前に残る第十八共徳丸の撤去風景を見に行く。GWの時点で損傷が進んでいる事を感じていたが、地域住民はモニュメントとして残すことより撤去を選んだようだ。
  バス停の向かいを仮囲いで覆い、船の解体は進められていた。船の解体が終了するとBRTの駅として整備がされるのだろう。個人的には気仙沼を代表する風景だったが、新しい街づくりにあたり悲しみの遺産は不要だと決めた住民の気持ちも解る。
 
 一方、希望の遺産である陸前高田の一本松は完全に復元され、国道には「奇跡の一本松」でバス停も設置されているが、途中は大規模な造成や護岸復旧、吊橋の建設など、土木工事が最盛期となっていた中を細い歩道でたどりつけられるようになっていた。
 、津波で流された国道45号線の気仙大橋については橋脚の撤去工事が始まっており、この吊橋が新しい国道のバイパスになるのだろうと思うが、橋の西側の丘も大規模な造成工事中で、数年後に来たときには面影も無いほど変わっていることだろう。
 この陸前高田市だけでなく、八戸から仙台にかけての多くの場所で高速道路の工事を筆頭に、宅地造成や鉄道の復旧などが目白押しで、道にはダンプカーや生コン車が目に付いた。建設物価が上がり、入札で不調が多いと聞いていたが、確かに人口規模の割りに工事の数が多く、それも規模が大きい。当面は建設業を中心に好景気が続くのだろう。
 
 三陸沿岸では浸水地域の中にも多くの住宅や商店が戻り、勢いは生じているようだが、壊滅的被害を受けた本吉地区では廃棄物処分のプラントが増強されるなど、全てが復興に向かっているわけでは無いとも思った。
 
 
 そしてもう一つの悲しみの遺産である南三陸町の防災庁舎を見に行き線香をあげてきた。
 
 こちらは気仙沼の船のように撤去工事には取り掛かられていなかったが、撤去することは決まったようだ。
 写真に写るようにバスで被災地を巡るツアーも多くなっているようで、近くの復興商店街の駐車場は平日の午前中というのに多くのバスが停まり、飲食店も賑わっていた。
  久慈市も「海女ちゃん」効果で賑わっていたし、岩手県と宮城県については確実に復興段階を進んでいる事が確認できた。
 
 しかし、この翌日に入った南相馬市の小高地区やその隣の浪江町などは夜間の滞在が禁止されているため、町には全く活気が無い。最南端となる原ノ町地区は復興関係者でホテルやコンビニ等は混雑しているが、震災直前に店を出したマクドナルドの店舗は津波被害が無かったにもかかわらず、今も再開されていないのである。これは放射線を恐れて多くの子どもが避難してしまい売り上げが上がらないと判断したからだと、原ノ町の人達は説明するが活気が無くなる要素の一つであることは否めない。
 ちなみに次の写真は泊まったホテルのエレベーターに貼られていたものである。
  福島の浜通りでは将来は未だに見通せず、常に放射線の心配と隣りあわせという事実は重くのしかかる。この地域の復興のために何が出来るか、日本中で考えねば成らない問題である。
 ボランティアの受け入れすら出来ない浪江町、まだ帰還が認められない双葉町や大熊町など、これからどのような展開がなされるのだろうと、余りに宮城や岩手との違いに戸惑うばかりであった。