人の儚さを思う
2015/05/25記
 23日の土曜日の夜は2件の通夜が重なった。最初は私の同級生で51歳であり、次は地元で世話になっている方の娘さんで35歳であった。双方ともにガンによって若すぎる人生に終止符を打たれてしまった。悲しみの中で、残された親御さんの心中を察すると、せめて親より僅かでも長生きをしなければと思わされる。
 
 ガンは親族にとって苦しみを見続ける事の辛さや治療の負担が大きく患者本人にとっても弱っていく自分が悲しく思えることは理解できるが、それでも亡くなるまでに時間が掛かり心や環境の整理を付けられるだけ良いという話も聞く。そう言えば数年前に読んだ『僕の死に方(金子哲雄著:小学館)』は余命宣告をされてから仕事の整理や家族への対応などを済ませる姿勢が素晴らしく『終活』という言葉も流行った元になった事を思い出した。その域に達することは大変だと思うがいざというときにはその様な自分でありたいとも思う。
 
 4年前には脳溢血で身近な人を続けて失った。数日前に一緒に酒を酌み交わした人が突然居なくなる喪失感は厳しいものがある。もう少し話をしておけば良かったな、等と後悔が残る失い方である。事故死や遭難も同じ様な気持ちになるだろう。幸いなことにこれだけ山に行きながら、まだ知人を山で失っていないことは幸いだと思わねばならないだろう。
 
 もっとも辛いのは良く知る人が相談もなく自らの命を絶ってしまうことである。その人との思い出が多ければ多いほど、何故一言が無かったかと悔しくなってくる。バブルが弾けて木更津の地価が下落している中で、経済的な理由で多くの友を失ったときは本当に辛い思いをした。
 
 大学を卒業して始めて現場を持たされた神戸で、橋梁塗装の足場解体現場で職人が転落して死亡し、橋の床版補強工事現場の交通規制現場に通行車両が衝突して亡くなられた。雪が降り始めて発生した事故現場で車外に飛び出した遺体が発見されていない状況の中で道路の損傷を調べたこともある。市原の区画整理を担当していたときには現場で近くの人が首を吊ったと知らされたこともある。消防団を行っている間には何回と無く焼死体の搬送を目撃した。個人的な付き合いが無い他人の死であっても手の届く場所での死は心に棘を刺す。
 
 更に大規模に多くの方が亡くなる現場は戦争と天災だろう。今年は戦後70周年で、人類の頭上に原爆が投下されて70年が経過する年でもある。現在もシリア等では明日をも知れぬ絶望の中で、多くの命が失われている事だろう。一度も戦力によって人を殺したことのない軍隊である自衛隊を持つ我が国は幸運だったのだろう。
 
 阪神大震災の被災地には10ヶ月後に入って衝撃を受けたが、東日本大震災の現場には2ヶ月もしないうちに入り、土地に満たされた悲しみと凛とした姿勢には人の強さを教えられ感動を覚え、その感動が4年も経った今でも私を南相馬へと誘う事に繋がっている。
 
 先月始めに私達の元に新たな命が訪れたことは前にも書いたが選挙戦を終えて母子手帳を貰ったのに9週目に入る前に天国に帰ってしまった。重城産婦人科の先生には一定の確立で起こりうる話だと教えて貰い、頭では理解しても残念な気持ちや悲しみは残った。それでも母体に影響がなかった事を感謝したい。
 
 今という時間は誰かが生きたかった時間で、今があることだけで充分な感謝をしなければならないと、週末の通夜に出ながら過去のことを想い出し、人の儚さに思いを馳せていた。