親と成りて思う
2018/05/09記
 先月の中旬に娘が2歳になり、語彙が豊富になってくると同時に我が強くなり、母親の言う事には何とか従うものの、父親の言うことには余り耳を貸さなくなり、沢山の会話が出来るように成ってきた喜びと同時に寂しい思いもしている。それでも仕草や笑顔に癒され、手間の掛かることなどは簡単に許せてしまう。これが子供の力なんだろうと親の立場に成って実感している毎日である。
 
 新潟県で小学生の女の子が首を絞められてから線路に放置され電車に轢かれたニュースが届いた。少し前には島根県で監禁されていたと思われる娘さんのニュースもあり、毎日のように交通事故は続いて子供の命は失われていく。海外まで目を広げれば内戦やテロで多くの子どもたちの命が奪われ、難民が避難していく途中でも飢えや病気で多くの幼い命が失われていく。それらの子供の親は、どれ程悔しい思いをしているのだろうと、具体的に想像できるように成ってきた。
 ましてお腹を痛めた母親で有ればなおさらの事で、安全や平和に関する運動に母親が多く係わってくる事も、理性を越えて感覚として理解できるようになってきたことが幼い娘を持つことで変わってきた事だと、最近は実感している。
 
 その様な意味合いで、東日本大震災の津波に対し学校が適切な避難行動を行わなかったことで子供を失った石巻市の大川小学校の父兄が、何故我が子が死ななければ成らなかったのかと思い、市を訴えている感情も良く理解できる。しかし、その一方で裁判所の判決のように市の作成したハザードマップを超えて学校に対策を立てる義務があったのかと考えると、私は無理があるのではないかと思う。
 現地は震災の翌年に訪ねたが、海も見えない土地で、そこで学校や市教委の事前防災の不備を指摘する判決は、明石花火大会事故を警察の責任とした判決後に各地のイベントで警備員が増大して負担増に繋がったように、日本中の学校に独自の災害対策を強いる結果となって行政負担が増大するのではと危惧する所である。その視点に立てば、昨日、上告を議決した石巻市議会の気持ちも賛同できるのである。
 より根本的な問題は「釜石の奇跡」を導いた群馬大学の片田教授が指摘するように、想定に囚われた大人が災害で子供を死なせる状況に成ることを回避することであり、子供が独自に生き抜く判断と行動をとらせずに、整然と待機させた学校の対応は非難されるべきである。もちろん、我々、大人の常識である「学校が誘導すべきだ」という考えも改めて行くべきだと自戒している。
 この考えの詳細については集英社新書の「人が死なない防災」(片田敏孝著作)を読む方が具体的なので、ここでは割愛する。
 
 この娘が成長していく時代は、世界では人口爆発と異常気象による食糧難が予想され、日本では人口減少に伴う社会の縮小という撤退戦を余儀なくされているだろう。せめて東アジア諸国が現在のヨーロッパ諸国のように自由に往来が出来て、互いを仮想敵と思わなくて済むような環境に変えて欲しいと、急激に展開する北朝鮮情勢を見ながら願っている。
 そして、私は私の立場で出来る仕事を通じて、この地域をどの様に変えて、次の世代に残すべきなのかと考えながら雑駁な考えを記載した次第である。