49.8月上旬の活動記録 |
1日は午前中にHPの更新作業等を行い、昼から東京で打合せ。その後、船橋でビアホールを楽しみ、翌日に甲子園で行われる木更津総合高校の野球の応援にため鉄路で一路西に向かった。
2日は午前中にスーパー銭湯で夜行の汗を流し、神戸市三ノ宮を経由して甲子園に入る。初戦が乱打線に成ったので全体にゲーム時間は遅れ気味である。入口で石井量夫議員と会い、市長や議長も来ているという情報を貰う。先にアルプススタンドに入って居たところ、皆は屋根のある特別内野席で観戦していると議長より電話があった。私は臨場感のある総合高校応援団の直ぐ後ろで、強い西日を受けながら観戦を続けることにした。試合開始は予定より1時間遅れた16時半であった。 |
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最初は後攻の木更津総合が押し気味に進んでいたがバントやスクイズの失敗で鳥取西も立ち直り、双方の好投手による緊張した投げ合いになる中で同点のホームランを打たれる。周辺でも『田中投手を早く楽にしてくれ』という願いの声もなかなか届かず、8回の裏を迎える。ヒットと四球でワンアウト満塁になるが、この状況は2回裏に無得点となったのと同じであった。スクイズでなく強打だ!と叫んだ声が五島監督に届いたわけではないが、見事にタイムリーヒットが出てスタントは大きく盛り上がり周辺の観客とハイタッチをする。この臨場感と一体感を味わうために甲子園まで来たんだなと思う一瞬であった。その後も攻撃が続き、一気に5点を入れる。最後のバッターもレフトを抜けそうな当たりであったが鳥取西の気迫有る守備で止められた。木更津総合側からも大きな拍手が送られたところは高校野球らしくて好感が持てる。9回表に先頭打者の出塁を許すが慌てることもなく最後の打者も内野ゴロで終わる。校歌を歌う生徒達の誇らしい姿と、スタンドに挨拶に来た清々しさを心に残し電車で甲子園を後にする。 |
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電車で甲子園を後にするが京都で飲み、この日は大垣までしか帰らず駅前のホテルに泊まる。
3日は個人的な趣味で、全線を乗ったことのない飯田線を乗るために湯谷温泉を経由して中央線で帰る。大垣を朝6時半に出たのに巌根駅に付いたのが0時22分であった。帰路には18時間も掛けてしまった。
今回の甲子園応援に使った切符は、20年ぶりに購入した『青春18切符』であり、各駅で行く関西の遠さを改めて実感したが、本を4冊も読むことが出来たのは良い収穫であった。
4日は先週、ずっと旅暮らしをしていた反動で事務仕事に追われる。予定したように議会質問もまとまらない。
5日は議会質問のデータ収集のため、いきいき館に関する資料請求を行いに議会事務局へ行く。不安定な天気で清見台方面では豪雨でも江川には殆ど降らない。夜は青年会議所の納涼例会に出席する。その直前の総会で翌年の理事長に松岡君が決まったという報告があった。現役は変革の能動者として頑張り続けてもらいたいと期待するし、先輩としてしっかりやらねばと思うところでもある。
6日も事務仕事を早めに切り上げ、シャワ−を浴び、盆踊り大会に出席するため航空自衛隊まで歩いていく。夕涼みに良いかと思ったが夕日の暑さで汗だくになりならが会場入りする。今年も基地対策特別委員会副委員長として壇上で紹介されるが、段々そのような場にも慣れてきた。それは良い事かどうか・・・。
7日は朝HPの更新などを行い、昼から外出。夕方には江川漁業組合の役員会議に江川総合運動公園拡張計画の概要報告などのために出席し、その後、お世話になった人の葬儀に出席する。
8日は昼過ぎに袖ヶ浦に用事で出掛けたが、そろそろ市議会議員選挙に向けた(?)看板類も目に入り始める。夕方から一昨日の航空自衛隊に続き陸上自衛隊の盆踊り大会に出席する。昨年の今頃は中越沖地震の派遣に行き、最近ではサミットの要人輸送や岩手の地震への派遣など、忙しい基地での一時の休息の場である。空には月も輝き、浜風が気持ちよい設営だった。
帰宅して北京オリンピックの開幕式を見る。見終えて風呂に入ったら午前2時だった。
9日は朝方に届いた中村昌成県議の訃報に驚くが、この日は新日鐵君津製鉄所主催の新日鐵君津・木更津市議会・君津市議会・富津市議会による親善野球大会の日であり、午後から君津市大和田の新日鐵グランドに行く。やはり出席が12名と少ない中での試合となったが、初戦の富津市議会、決勝の君津市議会を破り優勝を飾ることとなった。 |
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木更津市議会が優勝を決めた少し後の時間に、甲子園では木更津総合高校が智弁和歌山に2−5で破れ、朝の訃報もあり、手放しで喜ぶわけには行かない複雑な感情の懇親会を行ってきた。
10日は久々に涼しい陽気なので、議会質問を根詰めて作成し、夕方には中村県議の通夜に参列する。開始40分前に訪れたが、生前の人徳が忍ばれるほど多くの参列者が集まり、焼香には長い列が出来ていた。個人的にも5日の青年会議所のOB会、6日の航空自衛隊の盆踊り大会と続けてご挨拶させて頂いただけに、64歳という若すぎる旅立ちが残念でならない。ご冥福を祈りたい。
→2008年8月中旬の記録 |