75.1月下旬の活動記録
 21日は朝から寒い土曜日である。この日の午後に出席を要望されていた集まりもあったが、それを辞退させて貰い、ひたすら後援会報発送準備作業を行う。肩こりで腕が上がらなくなる等の苦痛を入浴で緩和し、夜10時よりHPの更新作業を行うなど夜鍋をしてしまった。
 
 22日は午前中から前夜の続きの発送準備作業(袋詰め、糊付け)を進めたところ、宛名ラベルが不足するので買い出しに出かけ、午後2時からは江川区の各種ボランティアの方々による慰労会に出席する。
 区長さんの挨拶に続き、私が現地で聞いてきた震災の時に地域の力が試された話をさせて頂いたが、参加者も今までの活動の中でそれを実感していたようだ。また水曜日に尼崎市で聞いてきた「要援護高齢者見守り対策」についても多くの方が興味があるようで、その話をさせていただいた。
 慰労会終了後に区の役員と消防団役員の間で、消防詰め所の立地等に関して調整を行いって解散し、この夜も内職で夜鍋である。
 
 23日は朝から農業委員としての遊休農用地実態調査を実施する。先週は久津間地区を回ったが、今回は中里地区と江川地区である。改めて調べて回ると身の回りに活用されていない農地が広大に広がっていることが解る。効率的に地域を回り、少し早めに調査を終えた。
 一旦自宅に帰り、衣服を着替えて市役所に戻り、各所で打合せを行った後に帰宅して、この夜も宛名張りを夜遅くまで行い、発送準備作業を何とか終了して、午前1時過ぎに床についた。
 
 24日は郵便局に封筒を持ち込み、その足で市役所に行って岩根や金田地区の進捗情報を確認する。その後、自宅に戻りHPの更新作業を行ってから君津市に行き、かずさ四市議長会の研修会に出席した。
 木更津高専の鬼塚淮教授による「地震防災について」という講演会であったが、東大の地震研究所が「マグニチュード7級の地震が南関東で4年以内に発生する確率は70%に高まった可能性がある」と発表した直後なのでタイムリーな話題であったが減災の視点をもっと加えるべきと思って聞いてきた。
 講演会終了後、速やかに木更津に帰り、小櫃川桜祭り実行委員会の新年会に岡田議長・齊藤副議長・重城議員とともに出席する。その場では矢那川や太田山の桜祭りと合わせて、市政70周年事業の一部になれないかと聞かれたが、今後の課題として帰宅した。
 
 25日は午前中に一仕事を片づけてから保険相談センターに行き健康指導を受ける。近年は体重の増加傾向が顕著なので、今年は例年以上に健康を意識しようと思いながら、昼食にはラーメンの汁を飲んでしまうのであった。午後から漁組で資格審査委員会に出席し、夜はかずさ青年会議所のOB総会に出席し、最後のエールを担当させられてきた。
 
 26日は終日自宅の仕事を片づけ、夕方から市民会館に向かい『第3回木更津まちづくりリレーシンポジウム』を聞く。元企業庁長の下村恵保氏の話は明朗で、若手職員からの質問に丁寧に答えられていた。講演の内容のように職員一人一人が広報官になる事を期待したいと思う。
 
 27日は早朝からHPの更新を行う。パソコンを打つ手が冷たい。昨年春の震災後から自宅の冷暖房は全て停めていたのだが、流石に耐えきれずにハロゲンヒーターを稼働させた。昼食後に市役所に行き会派室で会派代表質問に向けた作業を行う傍らで、様々な打合せや調整を行う。夕方からは地域の住民と一緒に工事説明会に出席し、微妙な立場ながら、調整的な役割をしてきた。
 
 28日は午前中に自宅の仕事を行い、昼から袖ケ浦公園に行って散歩を楽しむ。太田山より多くの人が集まる理由などを考えながら2時間程度うろうろした後に金田の三日月にホテルに行き、かずさ災害支援ネットワークの総会に出席する。岩手県山田町から参加していただいた斉藤さん達と意見交換をして夜遅くに帰宅した。
 
 29日はホリデーパスを使用して横浜に出かけ、中華街で旧正月を祝う祝舞遊行を見る。改めて横浜の集客力の強さに感心しながらも夕方は厚木に出て、シロコロホルモンを食べてくる。往復の車内で読んだ「上から目線の構造」は、現在の人間関係を考えさせられる良書であった。
 
 30日は木更津駅へ集合し、基地対策特別委員会の行政視察に出発する。羽田から鹿児島空港に飛び、宮崎県西部のえびの市には午後1時に到着した。
1.宮崎県えびの市
 市制施行 昭和45年12月1日
 人口 21,110人(平成23年4月1日現在)
 面積 283.00km2
 平成23年度一般会計予算額 102億85百万円
 財政力指数 0.327 (平成22年度)
 視察項目 『基地対策活動の概要』について
 えびの市の吉松地区には旧軍の演習場があり、戦後は民間に払い下げられ開拓が進んだのであるが、昭和30年に『陸上自衛隊霧島演習場』として使用が再開され、昭和57年の拡張や平成19年の市街地訓練所の開設等も行われ、平成10年と22年に日米合同訓練も実施されている。
 さらに昭和52年に西部方面隊第8師団(熊本)に部隊増強の計画があることを知ると全市を上げて誘致活動を行い、昭和56年より『陸上自衛隊えびの駐屯地』も開設された。そして昭和61年には海上自衛隊の送信所の誘致を決議し、平成3年より『海上自衛隊東京通信隊えびの送信所』という潜水艦に連絡する施設も開設された基地の街である。
 現在の駐屯地の人員は約650人、海上自衛隊の通信所は民間の電気業者も含んでも40人弱という規模であるが、人口減少が続く2万人のえびの市にとっては経済効果も大きく、今も駐屯地の増員増強の要望や交付金対象事業の取組を行い、市議会の特別委員会でも年に一度は西部方面隊や県及び防衛省への要望活動を実施している。その結果、障害防止・民生安定・調整交付金等の各種事業を継続的に実施し、毎年2億円程度、予算比では2%近い補助金を受けて社会資本の整備等を行っている。市役所にも基地対策室を設け、情報収集や調整、地区住民との意見交換を行うなど、取組の具体化に置いては、担当官の肩書きすらない本市より遙かに進んでいる自治体であった。通常2時間程度の視察の予定が3時間近い質疑を経て、さらに山の上にある通信所にも同行していただける事になり午後5時半を回る時間まで、議会事務局と藏園議長さんにも付き合いを頂き恐縮するところである。
 標高700mを超える高台にある通信所は日本近海で活動する水面下の潜水艦に対し情報を届けるもので、そのために日本唯一、世界でも6ヶ所しかない超長波(VLF)通信施設であり、巨大なアンテナや変電設備は感動する規模であったが、軍事機密ゆえ、外観の写真を掲載するに留める。
 この夜はえびの市内で宿泊し、委員会内での意見交換を深めた。
 
 31日は帰宅するだけの日であるが、今年になって活発な火山活動を行っている桜島を見て、嶋津家のお屋敷であった仙巌園に立ち寄ってから空港に向かう。羽田空港に降り立ったときには暖かいと思ったのであるが夜になると冷え込みが厳しくなり、HPの更新を諦めて寝てしまった。
 
 
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2012年2月上旬の記録