94.8月上旬の活動記録
 1日は万石会場でラジオ体操を行い、娘を保育園に送った後は自宅で私的な仕事を片づけ、午後からは駅前庁舎に登庁して議会事務局との諸調整や会派代表質問に対するアドバイス等を行う。
 午後4時を過ぎて帰宅し、黄色のTシャツの上に半袖のYシャツを羽織って、徒歩にて航空自衛隊に行く。基地の主催する盆踊り大会には岩根西地区のまちづくり協議会青少年育成部会が14日のやっさいもっさいの前哨戦として参加しているので、私も来賓紹介後は黄色のシャツになって踊らせていただいた。
 
 2日は岩根小学校会場でラジオ体操を行い、娘を保育園に送った後は市内で所用を済ませて帰宅すると、事務所が猛烈に暑い。
 仕方ないので、午後からは駅前庁舎に行き、6階に開設された学生用の自習室を見学した後は、会派室でじっくりと9月議会に向けた作業を行う事とした。夕方には帰宅が遅くなる妻の替わりに、娘を保育園に迎えに行き、寝かしつけた深夜にHPの更新作業を行った
 
 3日は久津間会場でラジオ体操を行い、娘を保育園に送ってから自宅で私的な仕事を片づけ、夕方から会派室に行く。諸調整の後に娘を保育園に迎えに行って、夜中に事務所で仕事した。
 
 4日は中里会場でラジオ体操を行い、終了後にジェスパルの役員会で相談したいことがあると言うので夕方に参加すると約束して帰宅する。
 朝食後に娘を連れて耕す木更津農場に行きカブトムシ相撲木更津場所を観ながら11月3日の夜灯に向けた廃油からのロウソク造りや竹の加工といった、知人の行うワークショップも見学して回る。娘が転んで怪我をしたので昼前に帰宅して昼食を摂り寝かしつけた。
 午後からは着替えて君津高校同窓会に列席する。木更津市の平野卓義議員は出席しているが、君津や袖ケ浦の議員は市民祭りと重なって出席出来なかった。今年還暦を迎える、私の姉と同級となる4期生の皆様が沢山集まり、会を盛り上げていただいた。同窓会終了後、地元の後輩に中里まで送って貰い、ジェスパルの定例役員会議に参加して、意見交換と懇親を深めて帰宅した。
 
 5日は岩根4丁目会場でラジオ体操を行い、日曜日なので娘を今年で営業終了となる鳥居崎海浜プールに連れていこうと思ったが、注文していた水着が間に合わず、自宅の庭先でホームセンターで購入した空気を入れて膨らます安いビニールプールを何回も楽しませる。
 午後からは寝た娘の横で夏の読書を楽しんで、午後5時からは岩根西中学校の体育館に行き、やっさいもっさいに向けた最終調整に参加し、その後は役員の皆様と運営に関する打合せを行いながら、学校外での子供の成長など、熱い議論を交わして帰宅した。
 
 6日は岩根西中会場でラジオ体操を行い、娘を保育園に送ってから自宅に戻り、私的な仕事を処理する。午後から駅前庁舎に行き午後2時から議員政治倫理条例策定特別委員会に出席し、核心となる倫理基準の条について2時間ほど議員間で意見交換を行う。会議後は会派室で作業を行い、5時半過ぎに娘を保育園に迎えに行って、妻の帰宅まで子守をしていた。
 
 7日は台風13号接近で朝から雨なのでラジオ体操は休み、娘を保育園に送ってからHPの更新や議会質問に向けた準備作業を行う。午後になり農地の貸借の打合せを行った後、市内で所用を済ませて回る。
 午後7時からはかずさ青年会議所の納涼例会にOB会員として出席する。鈴木理事長の想いと会員拡大に向けた力強い講師の話を聞いた後で現役とOBの懇親を深め、最後に江崎次年度理事長予定者に期待を込めて例会は終了し、翌日を考え速やかに帰宅した。
 
 8日も朝から雨で台風13号の接近が心配される中、会派の行政視察を開始する。午前8時にアクアラインバスで羽田に移動し、ANA383便で米子空港に飛び、タクシーを拾って境港市の昭和南埠頭へ向かう。港に繋がる交差点を曲がると壁のような船体が目に入ってきた。東アジアで最大の旅客定員を誇るOvation of tha Seasである。
 パナマの船籍であるが中国の会社が運行し、上海から日本へのクルーズで前日は長崎、翌日は舞鶴に向かう途上で境港に寄港している。全長348m、総トン数168,666t、乗客定員4,905名と乗組員1,500名の合計6,405名が収納可能な船で、船体の大きさやバスの待機のため工業用埠頭で対処している。
 昨年9月に木更津へ入港した「ぱしふぃっくびいなす」は全長182.9m、総トン数26,518t、乗客定員696名であるから、規模が格段に違う大きさである。しかし、木更津港のG・H岸壁でもこの規模の船が係留可能なので、運行する上海の会社に市長自らが足を運び具体的な話も進んでいると聞く。更に、2020年の東京オリンピックの際にはホテルシップとして使用する事も検討されているようだ。境港市には2年前に建設経済常任委員会がクルーズ船の対応について行政視察を行っているので、今回は会派で大型船入港時の具体的な対応等を視るために来たのである。入港対応で大変と思われる境港市の職員による解説は求めず、現地で様々な方に聞き込みを行いながらの調査である。
 埠頭には約百台のバスが待機しており、ナンバーを観ると鳥取や島根だけでなく岡山や倉敷も多く観られ、会社の種類も雑多で周辺から掻き集めてきたことが想像される状況である。私達が到着したときには乗客の下船が始まる前で、港にはバスの添乗員が多数集まり中国語で雑談してた。
 日本には前日の長崎で入っているので入国管理や税関といった国境業務は置かれていなかったし、基本的には職員が船に乗り込み、船内で事務処理するという事は私が約25年前に台湾の基隆港へ上陸したときに経験している。そのためか仮設物も少なく質素な感覚であった。
 下船口の近くにはテントが張られ、両替場所もその中に置かれていた。現金を沢山扱う場所なのだがこの開放感で、日本の治安の良さを実感させる。乗客の下船時にはセレモニーもなく粛々とツアーバスに吸い込まれていった。市役所の車が中国語のバスの看板を設置し、運行が12時から開始された。
 シャトルバスは大人400円で境港駅と15分間隔で結んでおり、地元のバス会社で運行されていた。シャトルは船の乗客でなくても乗れるとの事だったが、あまりに混雑していたのと安上がりにつくのでタクシーに5人で乗って駅へ向かい、街中の様子を見て回った。
 日射しは強かったが気温は32度程度に収まっており、平日なのに多くの観光客が歩いていた。中国語が目立ってはいたが国内の観光客も多く混じっていた。境港市も「水木しげるロード」を整備し、車道を減らし一方通行として歩道を広げ、本年7月14日にリニューアルオープンしている。
 街中で話を聞くと、今回の前にも数回の整備を行っているとの事であった。旅行者は妖怪ガイドブックを元にスタンプラリーを楽しんでおり、駅前には大きな絵が掲げられ、街灯は目玉の親父をモチーフにして造られており、JR境港線の車両も全てラッピング車両になるなど、観光地に成ろうとしている境港市の姿勢も特筆したいところであるが、今回はクルーズ船の状況なので細部は省略する。
 夕方になり出港の状況を見るため再度岸壁に戻る。午前中はバスが並んでいた場所に多くのテントが有り、食べ物や土産物の店が撤収を始めていた。ツアーバスが出た後にテントが設営され、山陰でのツアーに参加しない乗客に対応していたものと思われるが、その状況を見落としたことは残念だった。
 港は写真のように木材も沢山並べられ、常時は工業の用途に使っている外観を隠そうともしていなかった。木更津港でも特に化粧するような対応は必要ないという実感を深くする。出港に際しては子どもたちが太鼓の披露を行い、喫水上に14階のフロアを数える屋上部分から多くの乗客が見下ろして拍手を送っていた。港にいた境港市の職員から見送りに振る旗を渡され、スピーカーから県の職員による中国語の別れの言葉とシンセサイザーの音楽に包まれる中、午後7時にタッグボートも使わず、自力で岸壁を離れて次の舞鶴港に向けて船は出港して行った。
 翌日は日本船籍の大型船が2隻同時に入港するので、一人の職員で両方を対応するのが大変だと境港市の職員は言っていた。経験を重ねてきた結果として市では少しの人員で対処しているようだ。視察を終了して午後7時半より食事を摂り、外を歩いてみると照明で妖怪の影絵を造っていた。
 
 9日はホテルの窓から外を見ると、既に大型船が入港している姿が見えた。それぞれ11.6万トンと5.7万トンの船だから昨日の16.9万トンに比べれば小さい。それでも高層ビルのない町には巨大に見える。
 
 境港市に8月中に入港するクルーズ船は7隻で、そのうちの3隻を今回で目撃したことになった。この様に大きな船が頻繁に入ってくると、それを前提とした経済も回り始めるのだろうと考えながら朝食を摂り、8:17の路線バスで七類港へ移動し、隠岐汽船のフェリーで次の視察先である海士町のある菱浦港へ降り立った。
 
1.島根県海士町
 町制施行 昭和44年1月1日
 人口 2,250人(平成30年4月1日現在の住民基本台帳登録数)
 面積 33.43km2
 平成30年度一般会計予算額 58億25百万円
 財政力指数 0.1 (平成28年度)
 視察項目 移住定住促進の取組について
 観光案内所に「視察受付」が設けられるほど海士町の取組は多くの視察者が有り、月曜日は34人が勉強して帰ったと聞く。説明を行ってくれる観光協会の高野さんは昨年まで職員として議会事務局長を努めていたという事で、様々な経緯に詳しい方であった。最初に座学で概要を学ぶ。
 海士町では離島振興法に基づく公共事業整備が進んだが、地方債残高(借金)が増加して平成13年度末のピーク時点で101.5億円まで膨らんだ。さらに、昭和25年には7千人近くいた人口が平成12年の国勢調査で2,672人に減少する厳しい状況の中、小泉改革による地方交付税の大幅削減で基金残高の減少が進み、このままでは平成20年には財政再建団体へ転落すると予想されるに至った。その様な中で平成14年5月に行われた町長選挙では、地縁・血縁を超え、島外から移り住んだNTT出身の山内町長が選ばれ、危機感を元にした行政運営が始まった。
 「ないものはない」(必要ないものは無くて良い。生きるために大切なものは全て有る)というスローガンの元、職員の意識改革が始まり、年功序列を廃止した適材適所と現場主義の組織に改め、町長以下の幹部や議会、職員給与をカットして、その浮いた財源で第一次産業を中心に攻めの行政が始まった。
 産業振興のため少ない職員の中から「交流促進課」「地産地商課」「産業創出課」を設け、役場の中ではなく町の玄関口である菱浦港のターミナルに置いて現場重視の展開を始める。産業振興を「海」「潮風」「塩」を糸口に展開し、鮮度を維持して凍結するCAS技術の導入に5億円を投入する他、隠岐牛や岩牡蛎といった特産品の担い手にIターンの若者が起業し、これらのブランド化を始めると同時に、島で商品開発研修を行う中で新しく事業を始めたい者には町が施設を用意して与えるなど、「若者」「余所者」「馬鹿者」の交流を起爆剤とした新しい事業で活力を増している。さらに、民宿やホテルの運営内容も指導を深めるなど、官民一体・地域一体となった行政運営が進められている。平成27年9月には東京の神楽坂に「離島ショップ」というレストランを設け、68の離島と協力しあいながらの事業展開も進め、他の離島にも成功事例の波及効果を広げている(海士町では成功事例でなく挑戦事例と言う謙虚さも凄い)。
 今回の視察項目には含めていないが、高校の存続を守るために県立高校であるが地域が一体となった教育方針を作成し、それに共感する多くの高校生が数多く転入し、島民は寮生の里親として一対一の対応で見守っているようである。また新たなお茶の開発では障害者雇用を進め高い報酬を提供している。
 さらに建設会社が畜産業に参入できるよう特区制度を活用して農地法の規制緩和を行い、中国留学経験のある若者が干しナマコを造って中国に輸出し、料理研究家の移住で天然塩の製造も始まった。島で造るコシヒカリも減農薬で「海士の本気米」としてブランド化をすすめ、視察に来ている我々にも3合入り袋が配られた。この様な取組を次々と進める島の底力に圧倒され続けた。
 この様な島の魅力を求め、平成16年から28年の間に566名の移住者があった。定着率は約5割という事だが、今では町の2割が移住者という状況となり、人材が人財となって町を牽引している。近年では移住の相談者に面接をし島で仕事をする意志の疑わしい人は断るなど、移住者も役場で選択していた。
 海士町の取組がテレビで好意的に取り上げられることで町役場の人気も高まり、平成29年度当初で76人という規模の採用試験で島外を中心に2百人を超える応募者も有ったようだ。人が人を呼ぶ良い循環に入っているが、空き家の不足を補うような開発は考えて居ない様である。視察も相次ぎ、島の人口を上回る2500人が訪れた年も過去には有ったと聞く。宿泊や交通費等で一人の消費額を3万円とすると7千5百万円の経済効果である。何故近隣の島で同じ様な取組が出来ないのかと、答えにくい質問をしてみたが、余所者に対する交流の意識が大きく違うのではという回答であった。木更津市でも肝に銘じねばと考える答である。この様な展開を進めた山内町長も平成28年5月で勇退し、今は次の町長が発展的に事業を進めているとの事である。
 現地視察のマイクロバスは午後5時に港の観光案内所があるキンニャモ二センターに戻り、所要時間3時間半の行政視察を終了した。町の第三セクターが経営するホテルに宿泊したが、ホテルの社長もIターンの若者だという事である。夜中に外に出ると天の川まで肉眼で見える綺麗さに感動を深めた。
 
 10日は7:54の高速船に乗り境港に戻る。手配していたジャンボタクシーに乗ってラジオで木更津総合高校の活躍を聞きながら最終日の視察先である松江市を目指す。車内で話を聞くと一昨日は城の回りに中国人が溢れていたそうだ。確実にクルーズ船の影響である。
 道路の渋滞もなく順調に市内に入れたので、食事前に少しの時間が取れそうだと判断し、県庁の隣にある竹島資料館を30分間ほど見学する。突然の訪問であったが、館長より丁寧な説明をいただいた。韓国の書籍も並び先方の主張を把握して論破しようとする姿勢には感心させられた。
 資料館の見学を終えて車に戻ると点差が拡大して勝利が目前だと嬉しくなる。テレビのない蕎麦屋で割子そばを食べながらネットで甲子園の第一試合の状況を逐一確認し、食事中に平成27年の春の選抜大会に優勝した強豪校の敦賀気比(福井県代表)に10-1で勝利したことを知り、気分爽快のまま市役所に入り午後1時20分より視察を始める。
 
2.島根県松江市
 市制施行 平成17年3月31日(旧松江市は明治22年4月1日)
 人口 203,288人(平成30年4月30日現在の住民基本台帳登録数)
 面積 572.99km2
 平成30年度一般会計予算額 962億38百万円
 財政力指数 0.57 (平成28年度)
 視察項目 小中一貫教育と地域と供にある学校づくりについて
 松江市では中一ギャップの解消と小学生の成熟化に対応するため「松江市小中一貫教育推進計画」を平成21年度に策定すると供に教育委員会にも小中一貫教育推進課を設置した。市内の16中学校区を中心に学区の保幼・小中学校の繋がりを目指し学園という名称を平成22年度より使用している。平成30年度には八束小中学校の更新に併せて一貫校である「義務教育学校」に編成し直し、平成33年には玉湯地区でも義務教育学校を造るべく調整を進めているという事である。
 学園(中学校区)単位で個性有る教育を進めるため、管内の保育園・幼稚園・小中学校の連絡を密にして、義務教育期間は6.3という区分ではなく4.3.2という成長ステージ別のカリキュラムを編成している。この様な「たての一貫教育」と供に地域と一体になった「よこの一環教育」にも取り組まれている。
 施設が一体になったのが現在八束学園だけで、隣接しているのは4学園、他の11学園は敷地が分散しており、施設の一体利用やPTAの合併といった展開には進んでいないし運動会も別々に行っているようだ。しかし一貫教育を始める前から一つの小学校から複数の中学校へ進学するような学区割りに成っていなかったようで、小学校と中学校との連携は以前より活発であったことが推察できる。義務教育学園における部活動は、小学校の高学年から自然に参加し、小学校の先生も協力するが中学校の免許を持った先生が担任に成っているようだ。特別な授業編成や制服・運動大会への参加など多くの課題が残っている様だが、不登校の減少や学力向上に繋がるなど、一定の成果は上げ始めているようである。 地域との一体化は木更津市でも先進的に取り組まれている学校支援ボランティアであるが、制度運営は若干異なり、市内に29人居る地域コーディネーターが必要に応じて人材を集めるという制度のようである。ボランティアも直接教育に携わるものが多いようで体育の応援といった事の他にはふるさと教育やキャリア教育で協力をしているようだ。木更津市でも富来田地区で取り組みを始めるので良い勉強になった。
 午後3時を回って視察は終了する。帰りの飛行機までに時間があるので出雲大社に参拝し、出雲空港で車を降り、JAL286便で羽田空港に飛び、アクアラインバスで木更津市に帰ったのは22時を回っていた。さらに反省会もしたので帰宅前に日付も回ってしまった。
 
 
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2018年8月中旬の記録