千束台の事業が終わる
2019/11/25記
 木更津市は土地区画整理事業によって多くの宅地を供給し、現在の人口に至っている。私も現在「羽鳥野」として多くの人が居住する烏田特定土地区画整理事業の事務局で設計工事を担当していたので区画整理事業には人一倍の理解と思い入れがある。
 木更津市の区画整理事業は新日鐵君津工場の進出に伴う宅地供給を目的とした昭和40年代の清見台の造成、経済成長に伴う昭和50年代の真舟・大久保・八幡台等のニュータウンの造成、上総研究学園都市の構想に基づく平成になってからの「かずさ」とそこに進出する人達の住宅地として中尾伊豆島(ほたる野)・請西第二(請西東)・請西第三(請西南)・小浜(港南台)・烏田(羽鳥野)・千束台の造成、アクアラインの効果を取り組むための金田開発といった、大きく四つの時代区分に分けることが出来る。
 
 本日、組合の解散式を迎えることになった千束台も平成4年に組合設立認可を受けているが、ほたる野・請西東・請西南・港南台・羽鳥野といった平成15年前後に完成された地区と違うのは当初からゼネコンと一括業務代行契約を結ばなかったことである。土地が大きく値上がりした場合は組合員で利益を分配できるメリットはあるが、値下がりした場合は組合員が減歩として負担せねばならない制度で、千束台は後者の悲劇を招いてしまった組合である。
 それだけでなく、使途不明金問題や森本組との一括業務代行委託契約の締結と破棄、さらには特定調停や民事調停、賦課金徴収など、組合の存続が危ぶまれるような様々な事態が立ちふさがり、地権者の多くの負担を伴いながら乗り越えてきた。この事は業務代行者との訴訟が決着した2012年11月の記事でも記載しているので詳細はそちらを読んでいただきたい。
 ともあれ一時は見通しが立たなかった区画整理事業が波瀾万丈の道のりを経て無事に解散の運びになったことは目出度いことである。本日の祝典で叶V昭和や樺|中土木を始め事業に尽力された会社の表彰も行われ、鈴木さんの演奏する太鼓が明るく響いていた。
 
 千束台の中央に置かれた公園の碑には「千束台地区は古墳時代(西暦300年代)に造られた円墳等が密集した群集墳になっており、神に捧げる祭りを行った遺跡も存在することから海に近く、遠く都を望む高台で、いにしえの時代より住居として最適の場所で大きな集落が存在していた。当然その周辺では稲作も活発に行われていたので、稲の生産高を表す言葉として千束が使われ、大は稲一束を得た耕地の広さを表す意味もあることから生産量の多い大地・耕地という意味で千束台という小字名がついたと伝えられている。」と書かれているように、これから住宅地に多くの人が居住し、木更津市の人口政策の重要な一翼を担ってくれることになると期待する。前にも書いたが急激な人口増加が見込まれる結果、一時的には中学校の教室不足といった問題も生じると思われるので、第二中学校の拡張等の諸対策が検討されるべきだと思う。
 
 千束台が終結した後は、金田西の区画整理を残すのみとなり、それ以降は大規模な宅地供給が計画されていない。調整区域の土地利用計画制度などを活用して、常に時代に対応した都市改造を続けないと木更津市の勢いが停まることになると心配している。
 コンパクトなまちづくりと、人口減少下で進める撤退戦という課題はあるが、今後の木更津市の住宅政策も考えて行かねばならないし、工業用地の供給も進めるべきだと考えながら今回の解散式の中にいた。
 
 ※11月26日に加筆し、写真を追加した。