65.1月後半の活動記録
 11日は午前中にHPの更新を行い、午後から荷物を片付け夕方のアクアラインバスで羽田空港に向かい、機中泊2泊を含む4泊5日のドバイへの旅に出発する。
 バブルが崩壊して酷い状況という報道も有ったが、少なくとも訪問時点は活気があった。これで衰退なら、以前は何処まで活気溢れる状況だったのか、まるで想像が付かない。
 
 15日の夜9時半に木更津に帰ってきたが、片付けている内に午前3時まで起き続けてしまった。5時間という時差が身体に残っているようだ。
 16日は10時から広報委員会であるが、同時刻に巌根駅西口広場の整備に関する要請書を地元から市長に提出すると言うことに成り、委員会には10分の遅刻を申し出て、最初の提出だけ同席し、委員会に復帰する。全ては自らの調整不足が招いた責任である。
 駅前の整備については@照明灯AロータリーB広場拡張の3点を要請した。巌根駅前の交番の裏にあるバイク用駐輪場周辺の利用形態が悪いこともあり、大きな金額を投入しなくても改修は可能ではないかと考えるところである。
 遅れて出席した広報委員会は、ここまで何回も編集会議を開いていることもあり大きな変更点も無く次号を発行することになった。ただし、今回より表紙と裏表紙をカラーにする代わりに紙質を落としたが、それでもコストアップする分を来年予算にどう反映させるかという議論が続いた。
 会議終了後、市民部より防犯灯の件で話が持ち込まれ打合せを行ってから帰宅する。この日の午後から後援会報の発行準備に追われることになる。
 
 17日の土曜日は久々に自宅に居るので、来週の行政視察の前に所用をひたすら片付ける。その時間の中で、地元に住む親戚の通夜に参列する。先月にも親族が亡くなっており、地元でも寂しいことだが、大きな世代交代の流れを感じずには居られない。
 
 18日は9時から消防出初式に出席する。薄曇りで風が吹くと少し寒いが、我々来賓はテントの中である。消防団員時代の寒さを思えばコートなど不要だと、若ぶって出席する。
 
 配付された資料を見ながら、年々消防団の定員充足率が低下しているような気がしてくる。地元4分団も定数108に対し91名にまで減っているのには驚かされた。式が終わった後で団役員に聞いてみると、どの部も定員確保が困難なだけでなく、中には今後を検討している部もあるらしい。地元の意向が優先されるとは言え、何か考えねばならないと思う。
 
 19日は
後援会報の翌日発送に向けた準備で袋詰めやラベル貼りを朝から深夜まで行う。作業は多くの場合、ニュース放送と年末に録画していた映画を見ながら行ったので、16日から19日までの間に『どろろ』『Shall we Dance ?(米版)』『天然コケッコー』『L change the WorLd』『眉山』『陰日向に咲く』など多くを見てしまい、目と肩と腰がすっかり痛くなってしまった。
 
 20日は郵便局に行き後援会報を投函する。昨年は【料金別納】のスタンプを郵便局が押してくれたが、今回は依頼者が行うことを求められ、郵便局員の協力もいただきながらも窓口脇の机で長い時間スタンプ押しをすることになってしまった。
 その後、市役所で色々な情報収集を行い、帰路にふと思い出すように大久保真舟線の工事現場を見に行った。今年度内の完成は間違えないなと思いながら状況写真を撮っていると羽鳥野造成時代の知人に会った。今年の2月1日で街開きから4年となるが僅かな間に住宅が増え変化が著しいことなどを話してきた。金田にしろ築地にしろ動き出せば変化が生じ、木更津全体も上向きに変われるのにと思った。
 
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2009年1月下旬の記録