58.8月上旬の活動記録
 1日は朝7時半に木更津駅へ集合し、会派羅針盤として始めての行政視察に出発する。私は会派の代表であるが研修日程管理も私の担当である。会計と報告書作成を宮木議員に担当して貰ったので負担は少ないが、それでも緊張感を伴いながら内房線特急に乗り込んだ。東京駅16分間の乗り換え時間で京葉線から東北新幹線に移動し、米沢駅で外に出ると乾いた爽やかな風が吹いている。夏の東北は気持ちよいな、と思いながら予約しておいたジャンボタクシーに乗り込む。
 視察先に行く前に上杉神社に立ち寄り、財政再建の先人である上杉鷹山公に思いを馳せる。成らぬは人の為さぬなりけり(成果が出ないのは行為をしないからだ)という句を心に刻み込み、本日からの視察を行う決意を高める。
 今回は「民間の力」というテーマで、役所に行かない視察である。最初は農村部の地域運営をNPO法人が実施している先進例である。
1.山形県川西町
 町制施行 昭和30年1月1日
 人口 17,474人(平成23年3月31日現在)
 面積 166.46km2
 平成23年度一般会計予算額 90億5千万円
 財政力指数 0.27 (平成21年度)
 視察項目 『きらりよしじま』について
 川西町は7つの自治地区単位から成り立ち、吉島地区は755世帯で人口2,814人のエリアである。本市では中郷地区や鎌足地区が類似する規模である。行政としても町役場の「まちづくり課」に各エリア担当の職員を一人づつ配置するという支援体制を取っている事も参考となるが、それ以上に画期的なことが地区住民の全てを会員としたNPO法人「きらりよしじまネットワーク」が地区交流センター(平成20年に社会教育施設である公民館から組織替えを行い社会教育法の縛りを解いた)の指定管理者と成ると共に、自主防災組織・児童見守り活動・放課後児童クラブ・地域住民スポーツ活動、高齢者向け生涯学習・産直市場等を営むと共に、地域要望を集約して町役場との窓口に成っている事である。
 運営の責任を取る理事会は当て職を排し、運営組織である事務局には地域の若手を登用し、自治会や地区社協・民生委員等はその下の部会に配置するという組織形態も、学校等とNPOで協議して地域行事日程を一元化して的に管理されている画期的である。若者の人材育成が図られ、地域参加により郷土愛が育まれているようだ。
 実はこれらのことは2009年2月に岩根西公民館に講演に来て貰ったときに強烈な印象を残していたので、それの現場を見たいと思って企画した視察である。現地では地区交流センターに児童クラブが併設され、夏休み中で子供の声で賑わっていた。子供達の明るく挨拶する姿勢に、素晴らしい運営をしていることも確信できた。ただ、会派のメンバーは先進的で濃い内容の咀嚼に戸惑っているようでもあったし、川西町の他の6地区が同様な組織を立ち上げていないことを考えるとハードルが高い内容であるのかも知れない。
 吉島の視察を終え、仙台に移動し、昨年と同じホテルに午後7時少し前に到着して宿泊手続きを取り、翌日の作業用に送っている荷物を受け取る。夕食に繁華街である一番街へ出たが、夜の街には大勢の賑わいがあり、仙台は震災から復興を果たしているように見受けられた。
 
 2日は朝7時20分にホテルを出発し、東松島市にある災害ボランティアセンター(以下「VC」と略す)へ8時半に入る。最初に活動状況を体験した後に話を聞く、という厳しい計画のため、この日の服装は作業着で、昼食もコンビニで各自事前調達したものという、およそ行政視察らしくない行動である。
2.宮城県東松島市
 市制施行 平成17年4月1日
 人口 41,150人(平成23年6月1日現在)
 面積 101.86km2
 平成23年度一般会計予算額 158億75百万円
 財政力指数 0.46 (平成20年度)
 視察項目 『東松島災害VC』について
 東松島市は石巻市の西側に隣接する都市で、今回の震災では市街地の6割が浸水し、死者1,037人・行方不明者259人(5月26日現在)という被害を受けている。平成の大合併で矢本町と鳴瀬町が合併して成立した都市であり、行政規模を大きく上回る被害の中で全国から訪れるボランティアへの対応が課題となっていたが、VC自体が全国のボランティア約30名によって運営され、地元の住民は社会福祉協議会のOBを数名ほど嘱託で入れているだけである。今回の作業指揮を行ったスタッフも千葉県長生郡から来て1ヶ月以上となるボランティアの青年だった。
 経験した作業は我々を含む3団体と個人を含め50人以上の労働を集約して津波の汚泥で閉塞した道路側溝の清掃作業である。コンクリ蓋を開け、土をスコップで一輪車に上げるという単純な作業を、休憩を含め午前9時から午後2時まで行う。気温は高くないが水分補給は怠らないように気を配っていた。
 災害VCについて話を聞くと、阪神大震災の返礼という事や経験が高いという事もあり関西からのスタッフも多く、同様の理由で中越の方も大勢居たようだ。仮に数年後に東南海で災害が起きた場合は、今度は東北から多くのスタッフが駆けつける事になるのだろうと思う。事実、新潟と会津を襲った水害に対し、資材と人材を直ぐに派遣するなど、自治体の枠を越えたフットワークの良さに感心する。
 今回の震災では時間が経過しても人々の関心が低下せず、東松島災害VCでの活動希望者は連休後も増加を続けている。要因としては多くのVCが閉鎖されたり個人での登録を停止した事も上げられるようだ。一方で市民からの新規ニーズは着実に減り続け、東松島も8月17日から、生活復興支援センター(仮称)に変更し、外部からボランティアに頼らない体勢を取るようだ。
ボランティア活動希望者の推移
ボランティアの新規ニーズの推移
 震災後、5ヶ月に渡る運営で蓄積されたノウハウが外部から来たスタッフに残り、全国で何かが有ったときに再度活用される事も有るだろうが、本市からもこの様な場所に人員を派遣して経験を積ませるということが、いざというときに役に立つのではと思いながら話を聞いていた。
 
 東松島を出たのは午後3時半に成っていたが、今回の津波の力を改めて認識するため女川町に向った。途中の石巻市に広がる大規模な市街地の壊滅状況もショッキングであったが、丘を越えて入った女川町ではビルの5階の窓まで破壊されたビルがあり、その海側には規模の大きな鉄筋コンクリートの杭基礎のビルが横転し、周辺は地盤沈下で海水が入り込んでいた。
 
 他にも多くの鉄筋コンクリートビルが横転しており、技師でもある斉藤議員と私は破壊形態について色々と推察を重ねていたが、多くの会派議員は現実の凄さと被害の大きさに言葉を失い、写真撮影も躊躇っていた。もちろん木造建築は殆ど流出し、平地にあったはずの住宅地は基礎を残すばかりになっていた。なお、女川町は震災の記録を後世に伝えるため、このビルを含め多くの破損された建築物を保存すると決めたようだ。将来は観光資源として利用される事も有るのだろうと考えると複雑な気分になるが、何より多くの人に来て消費活動を行って貰わないことには被災地の復興も難しいと考えながら仙台に向かう帰路についた。
 復興作業と思われる車両で三陸自動車道は数カ所で渋滞し、ホテルに帰り着いたのは外も暗くなった午後7時を回ってしまった。連日行動時間が長いのにこの夜も遅くまで意見交換を続けることになるのだった。
 
 3日は行政視察最終日である。この日は前日の荷物等を各自で配送手続きを取り、8時に仙台駅の改札口に集合するという、各々に緊張感を与える日程である。前夜が遅かった者も居るようではあるが、6時半には殆どの議員が朝食を取り、歩いて数分の駅に集まっていた。
 新幹線で郡山まで行き、そこから在来線で白河駅に到着すると改札には商工会議所を始めとする関係者がお待ちいただいていた。この大正時代に建てられた駅の待合室を利用して「駅カフェ」を開設し、市街地観光の拠点となるようにしているので、そこでお茶を飲みながら説明を受ける。
3.福島県白河市
 市制施行 昭和30年1月1日
 人口 64,257人(平成23年7月1日現在)
 面積 305.30km2
 平成23年度一般会計予算額 255億9千万円
 財政力指数 0.60 (平成21年度)
 視察項目 中心市街地活性化について
 白河市は新幹線駅のある新白河側に賑わいが移る中、白河駅前の旧市街の空洞化が進行していた。そこで、商工会議所、まちづくり会社である「滑y市白河」、白河市役所で中心市街地活性化基本計画を作成し、平成21年3月に総理大臣認可を受けた。現在はハードとソフトを合わせて54もの事業の実現に向けて動き始めている。木更津でも同様の問題を抱える中で白河の取組を学習に行ったのだが、川西町吉島地区の高橋事務局長と同様に、白河市でも滑y市白河の鈴木社長の行動力に負う部分と、それを支える市長直轄部署である『市長公室まちづくり推進課』のサポートに有る事が解った。鈴木社長は亡くなられた前市長から、街中に居住する事業主で50代前半という事で社長に一本釣りされ、商工会議所青年部や青年会議所の経験と人脈を活かして次から次へと事業を進めているという事である。
 過去に実施した区画整理事業等で賑わいを取り戻すことが出来なかった経験を持つ古くからの商店主等は滑y市白河に対し『上手く行くはずがない』と、最初は否定的であったものが、実際に街中に人や店舗が帰って来た事実により、本来は自分たちが行わなければ成らない仕事であると、最近は積極的に協力するように成ってきたという。会社の資本金も当初の2700万円から増資され、現在は5400万円に成っている。本市の旦那衆も同じ様に協力するだろうかと考えながら話を聞く。
 54もの事業を進めると、財政負担が大きくなっているのではと思いながら行った視察であるが、とても上手に補助金を使用し、市としては僅かな額で街の改革を進めている事に驚かされる。現地視察に行った『楽藏』は約1億5千万円の総事業費に対して市の補助は9百万円を切っていた。
 白河における課題としては、滑y市白河の従業員の多くが緊急雇用制度を利用しているため、今後は経済的な自立が必要となる。しかし従業員自らが売り上げ拡大について提案を行うなど、モチベーションは確実に高まっているようで今後の活躍が楽しみでもあり、数年後には個人的に来ようかと思う。
 3時間近い研修を終え、遅めの昼食に白河ラーメンを取り、14:15の新幹線で帰路に着く。この日はさらに夕方から航空自衛隊の盆踊りに来賓として招かれているので、自宅に荷物を置いただけで直ぐに会場に直行する。地域の区長さん達と麦酒を飲みながら様々な話をして、21時過ぎに帰宅した。内容の濃い3日間であった。
 
 4日は早めに事務処理を済ませて市役所に行き、何点かの調整を終えて昼飯を取り、午後1時から会派代表者会議を行う。議案は請西保育園とお米の放射能検査であるが、請西保育園については資料不十分で翌日の教育民生に委ねる形となった。
 会派代表者会議が予想より長引き、一旦帰宅して着替えてから向かった市営球場では議会野球部の練習が既に始まっていた。
 
 私もそこに加わり軽く汗を流して、日没少し前から議会改選後の新しい野球部の結団式に出席した。その後も代表者会議で出された議案の意見交換などをしていたら、何故か遅い帰宅となってしまい、HPの更新が出来なかった。
 
 5日は前日市営球場駐車場に置いてきた車を取りに行き、10時から教育民生常任委員会を傍聴する。前日に真舟小・中学校用地を使用できない説明を教育部から行うするよう申し入れていたが、同じ時間に監査が有るという理由で福祉部だけの説明となる。質問も数多く出され、現地を見てから話をしようという事になり、10日に再度委員会を開催する事が決まった。議会が揉めている内容については『
最近思う事』に別途記載するので参考にしてもらいたい。
 傍聴終了後に昼食を取り、視察の残務処理や翌週の富士登山研修の準備等を済ませて帰宅。HPの更新に取りかかるが陸上自衛隊の盆踊りの時間が訪れ、作業を中止して会場に向かう。爽やかな浜風が吹く中で名刺交換等を行った。
 
 6日は夕方まで行事がないので滞っている事務処理やHPの更新、部屋の清掃等をひたすら進める。夕方になると木更津駅前に行き、青年会議所の納涼例会前の一杯を行い、例会に出席する。その後、知人の新規店でお祝いを兼ねて2次会等も行い、自宅に帰ってきたのは家を出た8時間後になっていた。
 
 7日は万石まで自転車で走り、6月4日に植えたパッションフルーツの手入れ作業をお手伝いする。今回は視聴者の3家族による除草や棚の作成であり、斉藤りさ嬢やBayfmスタッフは不参加であった。作業は午前中で終わり、帰って富士登山準備を行った。
 
 8日の朝から基本的には『十九の会』主催で、今期当選組の『里見会』にも呼びかけをした富士登山研修に行く。しかし同期議員の内、岡田・篠崎・平野の各議員が所要で欠席し、斉藤議員も近所の不幸で直前になって欠席となった。里見会からは会派羅針盤の3人とその家族等が参加して、最終的には9人で頂上を目指すことになった。ちなみに富士登山経験者は私だけである。心配なので保険に加入して出かけた。肉体的な厳しさの中で自分を見つめ直すことが出来たとは鶴岡議員の言葉である。ちなみに初日は9合目まで約1,090mの標高差を登って泊まった。
 
 9日は晴れた中、それぞれの判断で山頂を目指し、各自の満足感の中で午前中に無事下山する。頂を踏んだ人もそうでない人も、挑戦や挫折を自信や信念に変えて9月議会に臨むことになれば、研修の意義も出てこようと思う。
 
 10日は9時から教育民生常任委員会の仮称請西保育園の現地視察に同行する。委員会以外の9名の議員も参加するという注目度である。視察後の委員会で一人一人の感想を述べた結果は、会派に関係なく現在行政が進めている計画を見直すことを求めていたようだ。
 我が会派は全員参加していたので、昼食前に前日の富士研修の精算や、代表質問に関する会派会議を12日に行う事等を決めて解散。私は午後2時からの都市計画審議会までの時間を使って資料作成や打合せを続ける。調整区域の地区計画等に関する諮問に対して2時間ほど議論を行い4時に散開。更にその後に会派室や執務室で打合せを行っていた結果、市役所退庁は7時を回ってしまった。
 
 
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2011年8月中旬の記録