No.105 北覇編(2/2) (1/2) 日本を走る ←No104青島No106鎮西→


















9日目 2001年9月25日
i移動区間 札幌市手稲K藤邸→JR手稲駅→千歳空港→羽田空港→自宅
10日目 2001年9月26日
移動区間 自宅→成田空港→CHANGI空港→SING VICTOLIA HOTEL
 札幌のK藤邸を後にして千歳で沢山お土産を購入して羽田に帰り、基本的には北覇編が終了になるのであるが、これ以降は激動の9月の真骨頂になるおまけの旅の部分である。
 25日の北海道から帰った夜に木更津で行われた会議に出席し、懇親会まで付き合った後で家に帰り、久々に自宅でゆっくり睡眠を取り、翌昼に内房線で成田空港に出かけ16:25発のシンガポール行きの飛行機に乗る。
 23:55に着いたシンガポールチャンギ空港に迎えに来てくれたH田に「白い恋人」と「マルセイバターサンド」を土産に渡すが『F島から今月の動きをだいたい聞いていますよ』とさして驚かれずに若干ガッカリ来る。H田はF島の高校・大学・職場の先輩なので情報が漏れても仕方がない。私にとっては同学年となる大学の友人で、この頃はシンガポールの地下鉄工事をしていたのだった。彼の車で市街地中央にある安ホテルまで送ってもらい、明後日の夕方にアテンドしてもらうことを約束して別れる。
11日目 2001年9月27日
走行区間 SING VICTOLIA HOTEL〜SING VICTOLIA HOTEL
走行距離 38km
走破市町村 国外なので計上せず。
 この日、夢の一つであった『自転車で走って国境を越える』行為を行いにマレーシアジョホールバルを目指す。なお、私の語学力は中学生でももっと上手だろうと言う程度なので日常会話などとても出来るレベルにはない。それでも1人で走ってしまうのはシンガポールという国家の民度を信じているからである。
 街にこれだけ緑が溢れているのに蚊が飛んでいない事なども驚きの国である。とても整った街並みの中でマレー鉄道だけが東南アジアを主張していて好感が持てる。国境についてマレー人のオートバイに続くように出国手続きを終えて橋を渡る。しかしバイクに付いていくと入国手続きをすることなくマレーシアのジョホールバル市街に入ってしまう。何が起きたか良く解らないが、多分マレーシア人でなければ別の窓口を通らねばならなかったのであろう。それより心配なのはシンガポールに無事再入国できるのだろうかという事である。
 あまり気にしても仕方ないので街中の両替でシンガポールドルをマレーシアリンギットに交換し、街中を見て回ってからフードコートで辛い麺を食べ麦酒を飲む。少し気分も落ち着いたので帰路の国境に向かう。今回もバイクと同じ所を走っていくとマレーシアの出国手続きを行う場所が無いまま海の上に出て、海峡を走り抜いたらシンガポールの入国審査を受ける。何も言われないまま無事手続きを終えてシンガポールに戻れてホッとする。そんなわけで私のパスポートにはマレーシアのスタンプはない。
 帰りは国境に近い地下鉄の駅からシティの中心まで輪行して帰り、部屋に自転車を置いてイスラム地区や中華街、インド街を散策して回りその日の行程を終える。
12日目 2001年9月28日
 国境を越える目標が終わったので12日目以降は全て公共交通機関による旅である。だから自転車の旅では無いが一連の旅なのでついでに何をしてきたか記載しておく。
 28日はマラッカ海峡を船で渡ってインドネシアのバタム島ナゴヤに日帰り旅を行う。往復約1,900円のチケットを港で購入し出国手続きを終えて乗船する。わずか1時間の船旅でインドネシアの港に着き今回はきちんと入国手続きを済ませ、シンガポールドルをインドネシアルピアに交換して港前の広場に出る。するとタクシーやバイクが群がってきて客引きをしてくる。日本語を理解できる者がいないため片言の英語で値段交渉を行い300円相当でタクシーに乗る。街までは歩けない距離だと言うのに3km弱で市街地に着く。これで300円は高いと思うが地図をもらう約束になっていたので地図代と思えば納得できる。
 通りにバラックのような店舗が並び、道路の舗装も悪く排水路は汚い。こんなに貧富の差が多くても良いのだろうかという気がしてくるぐらい貧しさが目に付くが、これでもインドネシア北部では豊かな所らしい。流石に屋台で食事を取る気にならず普通の食堂に入り昼食を取る。
 市街地の立派なビルにあるデパートに入ると品揃えも良く清潔である。そこでシャンプーとか色々な雑貨を購入して回る。港への帰りは歩こうと思っていたがバイクが後ろに乗っていけと付いてくる。値段も50円ぐらいで交渉が成立して港に行く。
 船がシンガポールに着くと改めて大都会だと思わされる。超高層ビルの展望台に上がったりリバーサイドでお茶して夕方にホテルに帰る。夜は仕事を終えて迎えに来たH田の車でH田家の人々と食事を取った後、ナイトサファリに出かける。
13日目 2001年9月29日
移動区間 SING VICTOLIA HOTEL〜全日空747
14日目 2001年9月30日
移動区間 全日空747〜自宅
輪行区間 SING VICTOLIA HOTEL→CHANGI空港→成田空港→自宅
 29日の朝に3連泊したホテルを引き払い自転車をH田の車のトランクに収納し、午前中は彼の案内で市内の各所に連れていってもらう。昼はH田のマンションに行くが日本では大手企業の部長クラスでないと入れないような贅沢さに驚く。ここの住環境も良いし、子供は英語と中国語を不自由なく使えるようになるし、正直な所日本には帰りたくないとは奥さんの弁である。気持ちは分からなくもない。
 夕方はイーストコートパークで送別の宴を開いてくれる。海鮮料理が辛くて美味くとても満足した気持ちのまま空港に行き、帰りの飛行機に乗るのであった。こうして激動の9月は25日間の旅を行って終わるのである。ここまでやってしまうと社会復帰が正直大変である。(次は鎮西編