No.106 鎮西編      日本を走る ←No105北覇編No107沖縄編→
旅行期間 2002年4月27日〜2002年5月5日 旅行日数:9日間
総走行距離 888km
走破市町村 26
同行者 無し 使用自転車:GT
総費用 170,690円 当時の年齢:38歳
初日 2002年4月27日
輪行区間 自宅→木更津駅前BS→羽田空港→宮崎空港
走行区間 宮崎空港〜西米良村民宿いっせい
走行距離 149km
走破市町村 2(南郷,西米良)
累計数 3,222
 昨年末から区画整理の造成設計と四市合併のHPの更新や組織展開が多忙で11月以降は山にも行けない状況が続いていた。睡眠時間は長くて午前2時から7時までの5時間という状況である。厳しい年度末を越え、せめて連休ぐらいは旅に出ないと息が詰まりそうになっていた。
 幸い、4月30日(火)〜5月2日(木)の平日部分も休むことが可能となったのでいよいよ九州と本州から未走破の自治体をなくすための戦いを始める。旅の開始は今回も早朝の飛行機である。朝9時の宮崎空港で自転車を組み立て、10号線を北上し高鍋に入ったところで遅めの朝食を食べる。ここから小丸川を源流まで登り詰めて大河内峠を越える標高差1,130mの戦いである。木城町内の県道は細く、途中の工事で10分以上の通行止めに遭ったりする。橋は古く、細かい部材をリベットで繋いだアーチ橋などが出てきて、当時は大型部材の製作運搬が大変だからこんな構造なんだなと指定されていない土木遺産に価値を感じる。
 南郷村に出たところで午後3時を回ってしまった。ここから西米良まで4時間はかかりそうだし途中に宿はないと考えるとここで泊まることも検討しなければなるまい。百済の館前の公衆電話で幾つかの宿に空き部屋を聞くが営業してなかったり満室と断られたりで取れない。諦めて西米良の民宿を到着が遅くなるから朝食だけと予約して電話を置く。これは気合いを込めるしか無さそうだ。
 388号線の上りは予想通り長い。島並編で越えた湯山峠の直ぐそばまで来ていることを考えると、なぜこんな九州山地の奥に何回も足を運ばねばならないのかと自らの行為に感動すら覚えてしまう。峠を過ぎれば長いダウンヒル。しかし山が深いために暗くなるのも早く、道路状況が今ひとつ解らなくて速度を上げられない。
 結局、8時少し前に民宿に到着する。近くに日帰り温泉が出来ているという情報を宿で入手し、一風呂浸かり、蒟蒻を肴に湯上がりの麦酒を楽しむのだった。
2日目 2002年4月28日
走行区間 西米良村民宿いっせい〜大崎町民宿清風園
走行距離 174km
走破市町村 7(須木,綾,国富,田野,山田,松山,輝北)
累計数 3,229
 今日も厳しい山岳戦が続くので食事を6時に取り、早めの出発を行う。小雨が降ったり止んだりの微妙な天気なので汗対策に登り坂は合羽を着ないで走る。265号線の尾俣峠に登っていく最中に追い抜いた車はたった1台だけだった。朝が早いとは言え連休なのに人が少なすぎる。峠で下りを前に合羽を着てダウンヒルをする。速度をそれほど出したわけではないが、通行量が少なすぎるために道に積もった濡れ落ち葉でスリップダウンしてしまう。合羽は破れたが怪我は打ち身だけだ。正面から車でも来ていたら、と思うとぞっとする。
 綾北川の大きな橋を渡ったところで川に沿う県道に入り慎重に国分町まで下っていく。そのうち雨も上がり気温が上昇し始める。国分から田野町に着いたところで昼食に焼きそばを食べ、269号線で都城に向かう。途中の薩摩編で輪行した山之口駅から万ヶ塚方面に走り山田町を走破して宮崎県の走破を完了する。都城からは松之山を抜けて大崎町荒佐まで南下する。そこから県道を東に走れば輝北町に入るはずである。しかししばらく走っても境界の標識が出てこない。心配になる頃に輝北町青少年育成町民会議の看板が出てきて街に入ったと確信して安心する。スローガン看板に有りがたいと思ったのは初めてである。後は荒佐から大崎の街中に駆け下れば日没前に予約してある民宿に到着する。
3日目 2002年4月29日
走行区間 大崎町民宿清風園〜鹿児島市BH天文館芳住(輪行含む)
輪行区間 JR山川駅→JR西鹿児島駅
走行距離 86km
走破市町村 2(内之浦,田代)
累計数 3,231
 前の2日間が頑張って走ってくれたお陰で今日は走行距離が少なく楽である。ゆっくり朝食を取ってから出発する。内之浦の海岸線のアップダウンはきつそうだと予想していたが、それ以上に向かい風が辛い。東大宇宙空間観測所でも近くで見ようかと思うと入口に無料の科学資料館を併設してあり、それをのんびり見学しながら足を休める。
 田代町との境界で随分高度を上げて行くと、道路の周辺には路駐の車が多くなり始める。日差しも良く絶好の山菜取り日和なのかも知れない。田代町の標識を過ぎれば鹿児島県は残りは十島村の1村となる。ここから若干の上りも入るが殆どは下り坂で根占港に至る。錦江湾フェリーまで2時間近く余裕があるので根占温泉のネッピー館で錦江湾越しに開聞岳を見ながら湯に浸かる。
 錦江湾フェリーは九州編以来の17年ぶりなどと考えると戦いの長さを感じてしまう。その長い戦いの多くを一緒に進んだF島が紹介したい人が居るので鹿児島で落ち合いましょうと言ってきたのは3月末頃だったか。何はともあれ楽しみである。
 山川駅から輪行して西鹿児島(鹿児島中央駅に変更となっていたかもしれない)で降り、集合まで時間があるので自転車を組み立て鹿児島城を見学してくる。西鹿児島駅に帰り着くと大きなザックを背負った2人が居た。まずは事前にF島が予約したいつもの安宿ではないホテルに荷物を置きに行き、天文館の小綺麗な居酒屋でゆっくりと話を聞く。大阪勤務時代に山岳会で知り合ったというお嬢さんだ。明日は2人で霧島に登るというが、わざわざ報告に鹿児島まで来てくれるのが嬉しい。せめてものお祝いに飲み代を驕らせてもらう。
 心から美味い焼酎を味わったのでこの日の寝付きはとても良かった。
4日目 2002年4月30日
走行区間 鹿児島市BH天文館芳住〜東陽町松山旅館(輪行含む)
輪行区間 JR西鹿児島駅→JR水俣駅
走行距離 32km
走破市町村 2(御所浦,東陽)
累計数 3,233
 F島達とゆっきり朝食を取っていきたいところではあるが水俣から御所浦の船への接続を考えると朝早い鹿児島本線に乗らねばならない。ホテル前までで良いというのに2人に西鹿児島まで見送られて改札を潜る。こうやって見送られると却ってこれからの戦いの孤独さが際だち、朝の空いた列車の中で寂しい思いをする。
 水俣港への乗り換え時間は40分弱。乗船場所が解らないので道を間違えると致命的だと緊張を強いられ、タクシーに道を聞いて全力疾走する。何とか間に合うと空いた船の中でのんびりと読書の時間である。
 御所浦では3時間近く時間があるので中瀬戸大橋を渡り牧島に入り、化石公園を見学してから御所浦に戻り、煮魚定食を食べて白亜紀資料館をじっくり見学するなどして時間をつぶす。八代まで1時間半の船に乗ったら読書を続ける。
 八代に着いたらせめて未走破の自治体に泊まろうと東陽町の旅館を予約して、のんびりと走る。まだ海に近い東陽村の入口が立神峡という渓谷になっており明日の山岳戦が心配になる。宿は落ち着いた造りでのんびり休むことが出来た。
5日目 2002年5月1日
走行区間 東陽町松山旅館〜筑後市ヘルシーパル船小屋(輪行含む)
輪行区間 JR松橋駅→JR船小屋駅
走行距離 104km
走破市町村 3(五木,泉,豊野)
累計数 3,236
 朝から霧雨。急な上り坂で熱くなる体を冷やしてくれて丁度良いさ、と思いながら大通越を登る。取りあえずここは余力を残して五木村に降りる。ダムの建設で揺れる町は公共施設の更新も思うようにならないのか、ダム水没範囲内が酷く貧弱である。それに比較して水没地域以外は良く予算を回してあるようだ。
 五木村から445号線で平家の落人の里を登っていく。本当に五家荘は山が深くて、よくここで生活しているなと思わせる。登りがきつくなった頃、梅の木轟公園吊り橋が現れる。中四編の祖谷渓で見たPC吊床板橋より遙かに大きくて驚く。延長116mで丈夫な構造部材も外からの吊材も無いと凄く不安定な気がしてしまう。雨のため橋の途中まで渡って引き返す。そこからさらに上り続け標高1,107mの二本松峠に到着する。峠の砥用町側は細く急で、先日の転倒の記憶が蘇り、細かくブレーキをかけながら慎重に下り豊野町に入れば熊本県走破完了となる。
 218号線で朝居た東陽町から僅か20km程度の松橋駅まで走り、船小屋駅まで輪行する。途中の大牟田駅での乗り換えを利用して駅前のラーメンを食べ麦酒を飲む。福岡県下は雨は降って居なかったようだ。ヘルシーパル船小屋は立派な設備に驚く。泊まる側としてはコストパフォーマンスが良いので嬉しいが、このような健康保険で作った公共施設は後年、世間の批判を浴びる事になっていく。
6日目 2002年5月2日
走行区間 筑後市ヘルシーパル船小屋〜北九州市めかり会館(輪行2回含む)
輪行区間 JR桂川駅→JR東郷駅、JR赤間駅→JR門司港駅
走行距離 115km
走破市町村 5(上陽,星野,宝珠山,小石原,大島)
累計数 3,241
 目覚めるとスッキリ晴れている。夜明け前の展望風呂に上がり湯船の中で御来光を仰ぐ。朝食を食べて矢部川から星野川に沿って上流を目指す。船小屋温泉の飲泉所や星野村の石積みの棚田など、それなりに見所が多く、飽きることもなく合瀬耳納峠まで至り筑後川温泉に下る。杷木で早めの昼食を取ってから211号線の葛生に向かい県道を走る。国道に出ても宝珠山村と小石原村の境界が分かり難いため、一旦200mぐらい南下してから北上を開始する。
 嘉麻峠を越え、標高を放出していくと気温がグングン上がり、酷くバテ始める。当初計画では飯塚から若宮を経て宗像まで走ろうと思ったが、あまりに怠くなり、どうせ走破済の地帯だから飛ばそうと桂川駅から東郷まで輪行を決意する。
 東郷に付く頃には少し涼しくなっていた。神湊まで走りフェリーで大島の港に降りれば福岡県走破完了となる。港にはウッドデッキなどが整備されており離島とは思えないほど綺麗である。宗像大社中津宮に参拝して九州本土の走破完了が無事終わった事を感謝し、残る中国ステージの無事を記念する。
 帰りは東郷駅の一つ先の駅である赤間駅まで走り、門司港まで輪行する。九州編では関門海峡の本州側で1泊してからの九州上陸をしたのだから、今回は九州側で泊まって翌朝の本州上陸という企画にする。日の暮れた門司港駅の周辺はレトロな建物が綺麗にライトアップされて美しい。
 めかり会館は料金も安く海に面して展望も良いのであるが設備の老朽化が目立つ。同じ公共の建物とはいえ、昨日のヘルシーパルとは雲底の差である。まぁ酒飲んで寝てしまえば施設の違いも気になるものでは無い、と言うのが私の持論だから実はどうでも良いのである。
7日目 2002年5月3日
走行区間 北九州市めかり会館〜頓原町琴引荘(輪行2回含む)
輪行区間 JR新下関駅→JR本由良駅、JR大道駅→JR西三次駅
走行距離 78km
走破市町村 2(秋穂,赤来)
累計数 3,243
 山口県に残った最後の自治体である秋穂町を走るために本由良駅から大道駅までを走行することを決めていた。しかしその前に関門海峡を九州から本州に走る事と、山陰編で下関市街手前から輪行した部分の未走行区間を有る程度走りたいと言う思いで新下関駅までの走行を行うこととする。
 電車の接続を考えると出発は朝6時のエレベーター開業時になる。水底で県境を越え本州側の地表に出たら進行方向と逆に西に向かい、下関駅前を通過して9号線で安岡まで走ってから新下関駅に入り、7時後半の在来線で山陽本線本由良駅まで輪行する。
 本由良駅に降りると東風が強い。駅前から細い農道を走り、広い道に出て周防大橋を渡り幹線道路を東に進めば山口県走破完了になる。走行時間40分で大道駅に着き9時台の普通列車で再度輪行する。広島で芸備線に接続し、2時頃西三次駅に到着しコンビニで簡単な食事を取り、54号線を北上する。
 54号線沿いに有る頓原温泉には午後6時頃に到着。三次から到着が若干遅れそうだと連絡しておいたので夕食も遅めに作ってもらっており、暖かで1人にしては充分すぎる品数の夕食を頂く。麦酒を飲んでも6,825円のお得な宿泊であった。
8日目 2002年5月4日
走行区間 頓原町琴引荘〜西郷町BHサンロード(輪行含む)
輪行区間 JR松江駅→JR境港駅
走行距離 75km
走破市町村 2(掛谷,大東)
累計数 3,245
 昨日に引き続き54号線の北上を続ける。木次から鉄道沿いに大東町に入ったところで日本中の全ての「町」の走破を終える。残るのは「村」が9箇所だけである。
 大東町から岡を越えて玉造温泉の中心部を走り抜け宍道湖畔に出た辺りで雨が降り始める。いつの間にか高架橋になっている山陰本線松江駅に立ち寄り雨宿りをする。ついでに観光協会に立ち寄り隠岐の宿を予約する。民宿や旅館は全て満室でビジネスホテルを何とか取ることが出来る。今まで走ってきたところは随分空いていたが隠岐は観光地だし今はGWなんだなと改めて思う。
 駅ビル内で割子蕎麦を食べている内に段々雨が強くなる。幸い14:40のフェリーは七類でなく境港なので、直行すれば25kmの距離を走らず列車輪行にする。3日目から6日連続の鉄道旅である。移動が電車だと思えばキヨスクで麦酒を購入して気軽な旅行者になってしまう。
 境港駅は船への接続も便利で、雨に濡れることもなく船の客になる。4時間を越える船旅を終えて18:50に西郷港に到着する。雨は上がっている。待合室前で自転車を組み立てに出るとMTBを組み立てている2人組が居る。今夜の宿を聞くと同じホテルである。自転車を置いたら夕食を兼ねて居酒屋に行こうと誘い、初めて合った光市の青年2人を町完走の打ち上げに付き合わせてしまった。
9日目 2002年5月5日
走行区間 西郷町BHサンロード〜自宅(輪行含む)
輪行区間 米子空港→羽田空港→袖ヶ浦BS
走行距離 75km
走破市町村 1(布施)
累計数 3,246
 MTBの青年は時計回りに進むと言うので逆方向である。どうせ単独行になるのだから彼らより早く起きて、荷物の大半をホテルのフロントに預けて反時計回りに東側半周の走りを行う。そもそも隠岐編の時に半日で島後1周が出来ると甘く考えて失敗したつけが2回目の隠岐訪問になってしまったのだが、逆にこの島に複数回も訪れる理由が出来たことを感謝したいような良い天気であった。
 道も細くなり上り下りが険しくなることは想定内である。そして宿を出て1時間走ったところで布施村に入る。これ以降の未走破自治体は全て離島であるため、自治体境界を越えて走破をするのはこれが最後になる。そんな形で島根県走破を完了して、残るのは鹿児島県1村(十島村)と沖縄県7村だけになる。昨日の居酒屋でも彼らの『自転車で何処に行きました?』という質問に対して『行ってない所を数えても両手で足りるようになった』と答えたときの驚きの顔を思い出し、1人笑ってしまう。
 隠岐白鳥海岸を見て、若宮神社を参拝し、隠岐郷土館を見学していると彼らが到着する。アドバイスの通り半周でバテましたと顔に疲れが出ている。まだ日没までは長いから頑張って1周して、と彼らを励まし、自分は中央を走る485号線で西郷港に戻る。ホテルで荷物を受け取り、定食を食べて15:10のフェリーで本土に戻る。17:30に七類港へ到着し19:55の米子空港発の飛行機までの2時間強の時間を利用して境港の埋め立て地に出来た竹内温泉で汗を流し、湯上がりの麦酒でハードだった旅の終わりを祝う。
 羽田空港に21:10に到着しアクアラインバスに乗り継ぎ、袖ヶ浦BSから夜中の街を自宅まで自走した。また明日から仕事と合併のハードな日々が続くが良い心の休養になった。
 なお、今回乗ったバスが2回、航空機が3回、が7回で列車が8区間である。これに行きの自宅から木更津駅の乗用車を加えると21回の交通機関を使っており、その回数は琉球編の32回に次いで長崎編と同数の2位である。走破の旅を続けることで様々な交通機関にも詳しくなってしまった。(次は沖縄編