陸中山田の支援に加わる
2011/06/07記
 福島県いわき市宮城県気仙沼市に続く『日本が大変な時に選挙していた贖罪ツアー』の第3段として岩手県山田町の支援活動に行って来た。
 
 今回、山田町を選んだのは、1982年8月7日の夜に山田町にある国鉄(当時)山田線の織笠駅で野宿させてもらった恩返しというわけではなく、地元の青年団体(社団法人木更津法人会青年部会、社団法人かずさ青年会議所、木更津商工会議所青年部)の有志により設立されたかずさ災害支援ネットワークが継続して行っている支援活動に参加させていただいたからである。
 前の2回が個人参加で瓦礫撤去等の支援であった事に対し、今回は団体行動による炊き出しという活動である。この活動の前段となる山田町への支援物資搬送を始めた4月8日の夜には、積み込みを見送りながら『選挙が終わり、落ち着いたら参加するから』と言っていたのであるが、週末には行事が何かと多く、2ヶ月も経過した後の第3回炊き出し支援への参加となった次第である。
 参加にあたり、同じ会派の議員にも呼びかけをしたところ、鶴岡市議、宮木市議、永原市議とその子息の4名が同行を申し出ていただいた。急に市議が4名も参加する事になった上、0泊3日の強行軍の帰路を休ませていただき、我々だけ1泊3日とさせて戴いたので、若干の混乱を生じさせてしまったことは申し訳ない。
 
 団体としての活動は、各週の現地支援とその間の募金活動、さらには地域の多くの企業より支援物資等の入手や、緊急自動車の登録など、現地に行くまでの間に多くの行為が行われているのであるが、私の参加は4日の夕方4時から始まる事に成る。
 土曜日の夕方にトラックへ支援物資やテントなどを積み込み、一旦解散した後の午後9時に商工会議所に集合。今回の支援活動への参加者は市役所職員6名を含む19名で、トラック1台とワゴン車3台からなる団体となった。活動内容の確認や諸注意を行った後、一路北を目指して出発した。

▲土曜の夕方に積み込み
▼深夜出発前のミーティング
 
 私は木更津を出発と同時に仮眠を取らせていただいた後、最初の休憩場所である蓮田SAから東北道最後の休憩場所である前沢SAまでトラックを約400kmほど運転した。その間は助手席で鶴岡市議のアシストを受けながら、議会制度の問題などを語っていたので眠く成らずに済んだ。夜も明け始めた前沢SAからは宮木市議が提供していただいているワゴン車に戻り、釜石市まで再度仮眠させていただいた。
 炊き出しの具材については木更津から持参するが、ご飯については釜石市内で炊き立てのものを調達する事となっており、それを受け取ってから山田町のボランティアセンターに向かった。
 岩手県も宮城県の気仙沼等と同様に、津波を受けていない場所では被害が殆ど見られないのに、釜石市の市街地以降の海岸沿いでは廃墟と瓦礫が連続して広がっていた。震災から3ヶ月が経過しようとしている事もあり、撤去された瓦礫が多くの山を作っていた。それでも破壊された防波堤の復旧は未着手で、やらねば成らない事はあまりに多い。
 ボランティアセンターで名簿登録と初回参加者は保険加入を行い、今回の活動場所である船越防災センター前の消防団詰め所前広場まで移動し、設営を開始したのは朝9時であった。
 

▲車窓に広がる被災地の風景(大槌町)

▲ボランティアセンター
▼テント設営準備
 
 今回の活動場所は高台にあり、周辺には外見上被害の生じていない家屋が建ち並ぶ場所である。もちろん船越防災センターに避難されている方々も居るし、断水のためか沢水を受ける水場にはポリタンクを持ってきた人も時々訪れていた。
 設営を終え、支援物資である缶詰18箱を船越防災センターに降ろした後、毛布の搬送と打合せのために町役場に行くミッションに参加させてもらう。
 山田町役場に併設される形で町民会館が有り、その大ホールが物資の仕分け場所になっていた。中では山形県の職員が働いており、人的支援も進んでいるようである。物資も既に全国から多くが届けられており、特に欠乏しているものは無いという事である。
 その後、本日の炊き出しを町内放送で流す件を役場と打ち合わせるために庁舎に行くと、6月から土日は閉庁するという張り紙がされていた。そこで休日出勤をしている担当部署と電話連絡を取りミッションは終了である。なお、山田町役場は若干の高台にあるため被害を逃れているが、消防署や病院、警察などの多くの機関が津波により失われているという事である。それを裏付けるように役所の前には廃墟が広がっていた。

▲支援物資の集積状況
▼高台にある山田町役場
▼山田町の状況。瓦礫撤去は進んでいる
 
 テントに帰ると、数名の子どもたちが集まっていたが、11時半から牛丼の炊き出しを行いますと言う放送が流れた直後から多くの方々が列を作り始める。奈良本リーダーの挨拶で供給を開始すると同時に私も杓文字でご飯をお椀に入れ続け、およそ半分の段階で交代してもらい撮影や段取りに回ったが、当初予定の400食を上回る約600食を1時間弱で提供することが出来た。並んでいた人が多かったため供給数を増やしたのであるが、後半の方々はご飯や具材が少な目になったことに不満を持たれないか若干心配していた。

▲牛丼の盛りつけ
▼テントの前には長蛇の列

▲撤収時の打合せ
▼帰路に見る大槌町
 
 山田町の方々から多くの感謝の言葉をもらい、こちらも支援活動をさせていただいたことの感謝を伝えて撤収活動に入る。若干のご飯と牛丼の汁が残ったので、スタッフは『汁だけ牛丼』を食べ、撤去を終えたのは午後1時であった。その後、道の駅やまだで経済支援に土産品を購入し、ボランティアセンターで活動終了を告げ釜石市で緊急車両手続きを終えたところで本隊と別れ、市議4名と子供1名は北上市のビジネスホテルで1泊してから帰宅した。
 本隊は前日の寝不足にも関わらず一気に木更津まで帰り、資材等の片付けを行い日付が変わる頃に解散したようである。そのハードワークには頭が下がる思いである。
 
 今回は19名で牛丼約600食を提供した支援活動である。現地の仕出し屋に頼めば、食事の提供と現地の経済活性化に寄与するし、金額も1食400円とすれば24万円程度で済むことを、大勢のスタッフが物資の提供をお願いし、資材を仕入れ、交通費を掛けて向かうのである。単純に効率の点だけで言えば如何なものかと思われるであろうが、重要なことは心のつながりであろう。
 いわきや気仙沼など、被災地で活動している地元のボランティアの方々から聞いた言葉として、全国から手伝いに来てくれているのに地元が頑張らねばどうする、というものがあった。外からの支援は被災地のやる気をかき立てているのである。
 今回の山田町の人達には、木更津からも支援の手が差し伸べられているという事を実感することで希望を抱き、やる気を起こすことが出きるし、参加した木更津の我々を含め、全国のボランティアは疲弊した日本を建て直そうというモチベーションを高めることこそが、この悲惨な被災を乗り越えていく力になると思うのである。
 その為には、ボランティア参加のハードルを下げ、出きる限り多くの人が現地を経験してもらいたいと思うところである。
 
 まだまだ、木更津では多くの人達が何かしたいと思いながら、どうして良いのか解らないという声を聞くことがある。現地に迷惑を掛けるような行為は慎まねばならないことはもちろんであるが、1人で行くと邪魔になるのではという不安も情報を集めることで乗り越え、臆病に成らずに参加すべきである。それが難しいと思うのなら今回のような活動に参加することは有意義であると考えるが、正直な話、0泊3日はハードだなと思うのであった。