三陸を訪ねて思う
2015/12/22記
 年が開けて3月11日を向かえると東日本大震災から5年となる。震災発生の頃は木更津市議会議員選挙の途中であり、被災地にボランティアとして駆けつけることが出来たのは震災から2ヶ月が経過しようとしているGW明けのいわき市であった。
 それから宮城県気仙沼市・東松島市、岩手県山田町、福島県南相馬市など多くの場所でボランティアを行ってきたが、今でも放射能の関係で帰宅が許されていない南相馬市小高区以外では震災から1年で活動を中止し、それ以降は職業人の仕事だと割り切り、自分が行うことは観光で活性化に寄与する事だと考えて訪ね続けてきた。
 しかし、震災の初期には頻繁に足を運び、変化を見届けようと定点写真などを撮っていた気仙沼市にも2013年10月に訪れたきりで2年以上も足が遠のいていることが気になっていた(昨年の夏には会派で宮古市を訪問して視察しているが気仙沼市には行っていない)。さらに隣の陸前高田市ではベルトコンベアーによる大規模な土砂運搬も終わったと報道で聞き、そろそろ様子を見に行くべきかと思っていた。
 12月議会も終わり週末を空けることが出来る日程になったことに加え、「東北観光フリ−パス」という高速道路料金が割安になる企画がこの週末で終わることが解り、久々に三陸を訪ねてきた。
 
 18日の金曜日の午後に木更津を出発し、大栄JCTから圏央道を通過し、つくばJCTで常磐道に入り北上する。茨城県を北上している内に日が沈み、放射線量が高い区域に入る頃にはすっかり暗くなっていた。
 設置されている放射線量表示板は広野〜南相馬間が0.1〜4.1[μSv/h]と表示しており、今年の5月16日に走った時(右写真)の0.2〜5.5に比べ下がった事は解るが、窓の外はまばらな外灯を除きで家も闇に沈み不気味な沈黙である。
 南相馬まで走り抜けると家の窓からこぼれる街灯りが目に入り気持ちもホッとする。亘理から先は片側1車線の高速に渋滞が目立ち始め、人口が過密になってきたと感じた頃に仙台についた。
 
 19日は7時前にビジネスホテルを出て、まずは石巻市の日和山に向かう。三陸道は4車線化工事が完成して流れも良い。館山道の4車線化と比べると遙かに工事が早く、復興予算の多くが道路建設に回っていると思わさせられる。
 日和山から見る海岸側の風景は相変わらず殺風景であった。
 
 ここは災害危険区域として居住できないことが決まり、国が祈念公園として整備することが決まっていると看板に表示してあった。その後は市内を見て回ってから南三陸町に移動する。
 
 南三陸町の中心である志津川地区は造成現場へと姿を変えており、車を置いて歩くことなど難しそうな状況であった。盛り土の合間に防災庁舎が見えたので車窓から撮影する。
 
 この建物は保存と解体で意見が分かれるなか、町から県に移管されて結論が出るまで県が維持する方針のようだ。
 
 多くの港町を通過し、変化の速度にも濃淡があると思いながら北上して気仙沼市に入る。まずは目的とした南気仙沼駅に近づくと明らかに浸水した地区にビルが建設されていた。

▲2011/5/19の写真   ▼2015/12/19の写真
 公営住宅と思われる幾つかの高層建築も建ち始めている上に盛り土造成も進み、道路位置も変更となったため何処に南気仙沼駅があったのかも解らなくなって「定点」が撮影できない。工事車両も多くて自家用車を停めて歩き回るような雰囲気ではないのでそれらしいところに停めて盛り土の上から急いで撮影したものが上の写真である。55ヶ月前の写真とは写している方向が若干違うが、風景には隔世の感が出ている。今後は三陸道の大きな斜張橋の建設工事も進み、更に風景が変化をすることは明かである。昔の町の面影が無くなっていくことは未来に希望が持てて嬉しいことなのだろうか、当事者でないのでよく解らない。
 津波の象徴としてJR鹿折唐桑駅前に有った第十八共徳丸は2年前に解体撤去の途中であったが、今回は区画整理事業が進み仮設商店街も移設されたり、気仙沼線跡も撤去され駅が何処にあったのかも教えてもらわなければ解らない状況である。ボランティア作業で堆積した土砂を掘った側溝はもとより、道路そのものが無くなり、町が大きく変わっている感覚を受けた。
 
 そこから更に北上した陸前高田市は、より巨大な造成現場と化していた。奇跡の一本松とその隣の橋と倒壊した建物は手つかずで残されているが背後には巨大な防波堤が築かれており、昔は見えた海が見えなくなっていた。
 
 旧市街で生活の痕跡を残していた街路は造成された土砂の下に埋まり、土砂を運搬したベルトコンベアーの痕跡はまだ明瞭に残っていた。
 
 三陸沿岸の大きな被災を受けた場所は被害が小さくなるように盛り土した上に新しい町を築くことになる。その土地から見える山並みは懐かしい故郷の風景ではあるだろうが、ニュータウンのような整然とした街に商店街の活気は戻るのだろうか。全国展開しているチェーン店が多く進出する事はよく見る風景であるが、その前に商店街を維持するだけの人口が戻ってくるかも心配である。
 
 震災直後には被災地への支援という言葉を聞いていたが、時間が経過する中で意識が向かなく成りつつあると感じているし、何より自分自身も意識が東北には向かっていない時期が多い。
 その様な中で復興予算が消化され、桁違いの大規模工事が進んでいる事を目の当たりにして、せめてこれだけの投資をした効果が現れて繁栄が戻ることを願おうと思っていた。