平成の時を思う
2019/04/29記
 明日で「平成」が終わり、明後日から「令和」が始まる。
 多くの報道機関で平成とはどんな時代だったかという特集が繰り返し流れているが、ここでは自分の平成史を振り返りながら、この時代を送ろうと思う。
 
 昭和63年(1988年)は、日本道路公団で大学卒業後3年目を迎えた24歳の職員として長野県上田市に住み、長野オリンピックに向けた上信越自動車道の設計業務を行っていた。年末の正月休みは友人と供に北東北のスキー場(田沢湖・雫石・安比・網張)巡りをしてから木更津の実家に顔を出し、昭和64年(1989年)の年始の挨拶を上田市の職場で行った数日後に昭和天皇の崩御の報道を聞いたように記憶している。それから数日間は自粛ムードの中、多くのイベントやお祭りが中止になり、ラジオから音楽もあまり流れない中、ビデオのレンタルとスキー場が混雑していた事を不思議と思い出す。
 その2年前(1987年)に父が最初の市議会議員選挙に出たことや、木更津市で東京湾横断道路の建設が具体化している状況もあり、道路公団での仕事は楽しいし、評価もされていることを理解していたが、早く地元に帰るべきではないかと感じている頃だったが、改元が気持ちを後押ししたかも知れない。
 
 平成2年(1990年)の4月に木更津に帰り、消防団や青年会議所などに席を置きつつ、建設プロジェクトの建設監理や設計などをし続けたのが平成の前半で有った。今は閉鎖された東京電力富津火力発電所の新エネルギーパークの仕事を終えて少し早い夏休みを取得した平成5年(1993年)7月に、友人と利尻岳の登山道北の自転車旅を行っている最中に、政権交代が行われ55年体制が崩壊し政治も新しい時代に突入したことを実感した。
 同じ年の年末から請け負ったかずさDNA研究所の裏口となるゲートの造園工事の監督から携帯電話を使い始めたが、当時はアナログで、矢那から話をするためには丘の上まで登らなければならなかった事も懐かしく思い出す。
 平成6年(1994年)からアクアラインの橋梁舗装工事を監督するようになったが、工事は行程が厳しいことと特殊舗装でプラントを拘束する必要があることから1日の施行量を伸ばすために午前4時から現場が動いていた。その為、正月が明けて間もない1月17日未明に阪神大震災が発生した事を橋の上の車のラジオから聞くことになった。その日の午後は青年会議所の新年総会があったために早退して、午後2時頃に今は無き昭和記念館に入ったとき、テレビで流れていた近代土木が自然の前にうち砕かれた映像を始めて見て衝撃を受けたことを今でも覚えている。
 その後は青年会議所が主体となり、多くのボランティアが現地に向かう中、現場の行程が厳しく抜け出して応援に駆けつけられなかった事が今でも残念に思っている。舗装工事が一段落すると同時にアクアラインのトンネル工事の一部を担うことになったが、これも関西資本である大林組の仕事をしていた関係で大林組の職員の多くが関西に連れ戻され、その穴を埋めるために入ることに成ったので、さらに現場を抜けられなくなった。シールドマシンの出発など滅多に見られない現場を見られた事は得難い経験なので、文句はないが上田市に転勤する前の2年間は神戸市で生活していただけ気になり続け、結局その年の11月に現場を訪れた
 
 自社さ連立政権で社会党の村山首相が担う中、オウム真理教の事件が阪神大震災に続き、危機管理に対する政治の問題も明らかになり、バブル崩壊の現実感が具体化して平成9年(1997年)には山一証券の倒産という象徴的な出来事も発生した。木更津市でも駅前のダイエー・EPO(旧西友)・十字屋・SOGOといった商業施設と多くの都市銀行が撤退を始め、商業地の地価下落率は4年連続日本一を記録し、区画整理事業の多くが保留地処分金の不足で破綻が噂されるなど、昭和が平成に変わる事で、これほど多くの価値観が変わっていくのだろうかと感じているうちに、地価下落の影響で地元でも多くの企業が倒産し、青年会議所時代の先輩も何人かが自らの命を絶つなど、やりきれない感覚も平成の前半では感じていた。
 
 大きな騒動もなく2000年問題も超えて今世紀に入り、平成14年(2002)年には青年会議所を中心として「かずさ四市合併協議会設立運動」を展開し、発議に必要な署名を集め、袖ケ浦市を除く三市の9月議会で可決していただいたものの、袖ケ浦市議会の否決により運動は終了し、以来現在に至るまで合併が前に進んでいる感じは受けない。ただし近年では広域行政が具体的に進んでいるので、行政の合理化は一部で達成されていると思う。
 その署名運動が日韓ワールドカップと並行して行われたことと、要望書を提出するため前年に表敬訪問していた須田市長が任期を1年残して退職し5人による市長選挙の公開討論会を行うことになったのも懐かしい想い出である。
 
 そして平成も後半に入った17年(2005年)3月に渡辺二夫県議の死去に伴う補欠選挙で、現在の市長である渡辺芳邦候補を応援して当選を得た事から政治が自分たちの世代に移動してきた事を実感した。平成19年(2007年)4月の市議会議員選挙に立候補して初当選し、議員となってからは広報委員長・建設委員長・副議長・総務委員長・基地対策委員長というように役職を努め、また市の内外でも多くの公職に就くように成った。
 市民として行った公開討論会の選挙で初当選した水越市長は、木更津市の財政再建に全力で取り組んでおり、私はその2期目の2年目から市議会議員に成った。平成22年(2010年)3月に行われた3期目の選挙戦は、先月亡くなられた石川哲久氏を相手に行われ、それを支えるために今は閉鎖中の市民会館大ホールで如何に行政改革を進めながら市民生活の水準を高めてきたかとプレゼンテーションしたことも懐かしい想い出である。
 私生活でも平成26年(2014年)12月に嫁を貰って家族を構成し、平成28年(2016年)4月の熊本地震の日に娘を授かって父親となり、旅暮らし、飲み歩きの日々が失われる寂しさを埋めて余る充実感を感じており、先日の江川での事故のように子供の事故に対しては単なる事実の理解ではなく感情が揺さぶられるような感覚を得たことも大きな変化だと感じている。
 
 平成26年(2014年)3月の選挙で水越市長の後を受けて当選した渡辺市政の元、アクアラインの値下げや業務代行業者の赤字処理に伴う安価な宅地供給や大型商業施設の進出など、バブル崩壊後に木更津市に漂っていた暗雲が消え去るような勢いを感じ、更には他市から視察が続くような先進的施策の連発で、勢いが付いたまま木更津市は平成を終えることが出きる。
 令和の時代は、日本に確実に訪れる人口減少と、予測困難な人工知能の発達を受けた社会構成が進む中で、国家財政の軽減として地方分権はよりいっそう進み、市議会もその力量が試される時を迎えて来るであろう。その様な前提の中なのに、投票率の低下や全国的に議員のなり手が減少している状況を危惧する。昭和の終わり頃には、あれほど議員に成りたかった多くの人が居たのに、隔世の感である。
 
 平成13年(2001年)9月11日にアメリカで発生した同時多発テロや平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災を始め平成の世の中では増大する中国の影響力と豊かになるアジア諸国、オレンジ革命からイスラム過激派へ繋がる中東の混乱、めざましく発達したインターネットとSNSのビジネスなど、昭和の時代の価値観では計り知れない事が数多く発生している。悲しいニュースも多いが、癌が不治の病でなくなり、再生可能エネルギーが増加し、国際機関は様々な枠組みを使って危機を乗り越えようと努力しているなど、昭和の時代より確実に人類は進歩し、英知を更に活かしていく世の中が目前に広がることを期待したい。
 
 残り少ない平成の時代は辛いことも多かったけど全般的な意味で感謝しながら、次の令和時代は、私達の働きかけで良い世の中にしていかなければと皆が思いながら過ごす時代になることを期待して、平成最後の「最近思う事」を記載させていただく。