No.82 道北編      日本を走る ←No81東濃編No83筑肥編→
旅行期間 1993年7月17日〜1993年7月26日 旅行日数:10日間
総走行距離 1,394km
走破市町村 64
同行者 F島・K藤・S井 使用自転車:GT
総費用 141,851円 当時の年齢:32歳
初日 1993年7月17日
走行区間 自宅→新日本海フェリー(輪行のみ)
2日目 1993年7月18日
輪行区間 自宅→手稲駅前、留萌駅前→稚内市伊豆旅館
走行区間 手稲駅前〜留萌駅前
走行距離 140km
走破市町村 4(石狩,厚田,浜益,増毛)
累計数 2,541
 最果ての山を登り、北の大地を走ろうと4人の意見が一致し、それぞれの職場で長期の休みを確保して合同の北海道遠征に出かけた。出発直前に北海道南西沖地震が発生したが旅行範囲への影響は少ないようなので予定通りに実行する。車はハイエースを持っているK藤が出し、16日深夜に出発。4台の自転車と人間を各々の場所で積んで新潟から小樽行10:30の船に乗船する。
 稚内までの移動の途中で、私の要望により札幌留萌間のオロロンラインの走行を行う事にした。出発は手稲駅前が良いだろうと言うことになり私とF島が自転車を降ろす。まさか数年後に手稲駅前にK藤が住む事になり、そこをベースにした旅が始まるとは無論この時誰も予想していない。
 手稲から如何にも北海道らしい直線道路を石狩市に入りオロロンラインを北上する。天気も晴れて風もなく、その上荷物は軽装で、F島を先に立てて風切りをさせているので快適に進む。厚田まで走った所で同走者をF島からK藤に交代する。
 K藤の自転車は私のアドバイスで最近作ったもの。フレームサイズ580で最大ギヤ比も52/12=4.33という巨人使用。浜益までの峠道では登りの速度は差がないが下りで引き離されていくという体験をする。今回用意したトランシーバーでS井に聞くとK藤は下りでもどんどん漕いでいるという話に呆れてしまう。そして浜益の右手に台形の黄金山が目立つ場所でS井と交代にする。まさかこの黄金山にK藤と登りに行くことがあるとは無論この時誰も予想していない。
 浜益から雄冬まで袋田編以来の11年ぶりとなるS井との併走を行い、雄冬から再度K藤が出撃して午前11時半頃に留萌に到着。昼飯前の140km走行を済ませ留萌駅で自転車を積み本日終了とする。その後荒磯という寿司屋によって昼食はいくら丼や海鮮ちらしなどを楽しむ。
 車に4台とも載せて日本海沿いを延々と北上してサロベツ原野などの見学の後、稚内温泉に入る。この温泉の脱衣場で日本新党が躍進し、自民党が下野することになる開票速報を見ていたことが印象的だ。この夜はテントと車中に分散して野宿の予定だったが寒さのあまり旅館に泊まることにしてしまった。
3日目 1993年7月19日
走行区間 稚内市伊豆旅館〜利尻富士町うめや旅館
走行距離 85km
走破市町村 3(礼文,東利尻,利尻)
累計数 2,544
 K藤とS井は利尻島をじっくり見たいという意見なので例によって別行動の開始。
 私とF島は礼文行きの船に乗り香深港に上陸。海岸には大きな波の花が揺れ、雲も厚く気温は低い。礼文島高山植物園を見た後でスコトン岬まで走る。港まで帰り桃岩展望台に登る。あの宿が有名な桃岩YHだったものかと、旅先で何度も聞いた伝説を思い出し感慨に耽る。
 礼文島から利尻島へフェリーで移動。乗客はかなり多い。船出の時、港で送別の踊りをする一団を発見。礼文の気質は健在なんだなと無性に嬉しくなる。
 鷲泊港に上陸し、荷物を宿に預けてから沓形岬を目指す。快調に飛ばしている途中で島を一周中のS井達とすれ違う。島の南は晴れていたが沓形あたりからは見えなかったのではとの情報を聞く。
 岬に到着すると山肌の大半は見えているが山頂だけ雲がかかった状況。見上げるその標高差に翌日の登山に気合いと不安を抱く。我々には島を回る時間が残っていないので岬からは往路を帰る。来るときとは逆に向かい風で難儀する。
 宿に着くと部屋にはストーブが焚いてある。この島では1年中ストーブを仕舞え無いという話しに日本の広さを実感する。この夜は酒も軽めに明日に備えて早めに寝るのであった。
4日目 1993年7月20日
走行区間 利尻富士町うめや旅館〜稚内市伊豆旅館
走行距離 5km
走破市町村 0
累計数 2,544
 甘露水まで宿の車で送ってもらい、そこから4人で利尻岳を登山する。沓形に下山後、宿に帰るとまだ最終のフェリーに間に合う。前日に泊まっており、S井とK藤が連泊を決めているうめや旅館には船に間に合わなかったら宿泊させてもらうという話しをいたので再度K藤、S井と別れ、我々だけ稚内に戻る。港で同じ旅をしている友人に見送られて出航するのも不思議な気持ちである。
 稚内は一昨日に泊まった宿が素泊まり3000円と安かったから同じ場所にする。稚内の街は今日も寒い。港から宿まで走ったら荷物を置いて駅前の居酒屋に行き、体を内側から温めて来た。
5日目 1993年7月21日
走行区間 稚内市伊豆旅館〜幌加内町一刻館
走行距離 165km
走破市町村 6(中川,音威子府,中頓別,歌登,美深,幌加内)
累計数 2,550
 大雪に向けた2日間の移動を開始する。北海編では海岸沿いを走っているので内陸部に残った未走破の自治体を走るのも目的である。
 40号線を坦々と天塩川に沿って遡る。寒さのため米が作れず牧場ばかりになる単調な景色に辛くなった頃、西部劇の寂れた街というイメージのする音威子府に着く。昨日K藤がここの蕎麦はうまいと言ったし、街のあちらこちらにも幟が立っているので期待して食べたらこれが・・・蕎麦を残し口直しにカレーを追加注文する。
 音威子府の東側に歌登という町がある。これを素通りすると次回行くためにものすごい努力をしなければならない場所にあるため、今回遠回りにはなるが牧場地帯の丘陵を走り回る。さすがにF島も付いてくるのが苦痛になって居るようだ。
 美深から幌加内に入るため朱鞠内湖畔まで行こうと誘うが、F島はこのまま国道を進むので明日の昼に旭川駅で会いましょう、という話になりここで別行動になる。全国走破への道は厳しく孤独である。
 朱鞠内湖畔の母子里は日本最低温度記録地で、そこに有名なとほ宿があるとK藤から教えられていたのでそこを予約する。とほ宿とはYHのようでもう少し自由で親密な民宿という所だろうか。なお、左下の写真は母子里に登る途中で取ったアーチ橋と自転車のフレームである。UCHIBO RACING CLUBの文字が読めるが、これは私の行きつけの自転車屋が中心になり運営しているチームであり一応その一員のはずである。だがこのような走破に向けた旅とレースは随分違う世界である。
6日目 1993年7月22日
走行区間 幌加内町一刻館〜旭川駅前
輪行区間 旭川駅前→東川町栄楽館
走行距離 98km
走破市町村 6(名寄,風連,士別,剣淵,和寒,鷹栖)
累計数 2,556
 快適な天候の中、母子里からトンネルを抜けると名寄への長い下り。昨日は随分登ったことを実感する。名寄で久々に水田を目撃して40号線を旭川に向かい、東鷹巣で右に折れ鷹巣町を走破の上で旭川駅前に出てF島と合流する。
 ここの買い物公園という大規模歩行者天国は都市計画の上で画期的な出来事であり、それを始めた旭川に尊敬を持っている。その旭川は旭岳温泉までのバスは往路無料などと言う新しい試みを行っている。復路で金を受けるから良いと言うが私たちは輪行袋で自転車を持っていき、下りは自力になるけどそれでも無料で良いか確認するが構わないと言う回答なので登山口までバス輪行するのであった。
7日目 1993年7月23日
走行区間 東川町栄楽館〜美瑛町民宿美馬牛
走行距離 38km
走破市町村 0
累計数 2,556
 宿に自転車を預かってもらい、朝から大雪山の最高峰である旭岳を登山する。
 下山後、宿の食堂でドライカレーを食べ、ダウンヒルだけだからと、つい麦酒を飲んで山を駆け下る。志比内から北美瑛に抜け拓真館に至ると何処かで見たことのある習志野ナンバーの車が有る。ナンバープレートの数字までは覚えて居なかったので偶然の一致かな、等と思って中を見て回り、外に出るとそこにS井の姿。「K藤は?」「稚内に残った」。
 どうやら2人の間で車の押しつけ合いがあり、S井が回送することになったらしい。本当に団体行動を出来ない団体だ。ともあれ再会を祝う。旅のセンスが近いせいか今夜はとほ宿の美馬牛を取っているのは一緒である。
 最初に北海道に渡った北海編の頃にはまだ無名だった美瑛が一人の写真家の力によって、同じように雄大な風景を持つ十勝の町村をさしおいてこんなに有名になったことに学ぶべき物は沢山あるなどと思いながら民宿に向かう。
 良い宿の条件はどんなメンバーで泊まったかによることを実証するような、楽しい一夜を過ごす事が出来た。 
8日目 1993年7月24日
輪行区間 美瑛町民宿美馬牛→富良野駅前、苗穂駅前→札幌市BHライン
走行区間 富良野駅前〜苗穂駅前
走行距離 147km
走破市町村 8(芦別,赤平,歌志内,上砂川,浦臼,月形,当別,新篠津)
累計数 2,564
9日目 1993年7月25日
移動区間 札幌市BHライン→新日本海フェリー(輪行のみ)
10日目 1993年7月26日
移動区間 新日本海フェリー→自宅(輪行のみ)
 せっかくサポートカーが有るのだから北海編と重複する区間を短縮するために富良野駅前まで運んでもらい、そこからF島と2人で走行を開始する。S井はK藤を迎えに行く約束を果たすためにUターンして旭川に向かう。今日の集合場所は午後6時の苗穂駅と利尻島で決めてあるのでそこまでの走行になる。
 快適な38号線を西に向かうが北海道開発庁がこの国道にバイパスを工事しているのを見て、他にやることもあるだろうと正直呆れる。赤平市茂尻から歌志内市に抜け人口最小の市の衰退状況を見に行くが劇場等の炭坑時代の遺産が多く、生かし方によれば面白い町も出来そうだな、等と思い砂川へ下る。
 石狩川を渡り275号線に出れば南西の強い向かい風。先頭を交代しながら風と闘いながら進む。浦臼で名産と初めて知ったメロンを食べ、午後3時以降の水分接種を禁じて南下を続ける。2人とも風との戦いでヘロヘロになって午後5時前に苗穂到着。F島は駅の待合いベンチで疲労のあまり居眠りを始める。私は一人駅を出て札幌ビールに行き整理券を入手してくる。その内にK藤を載せてきたS井が到着して全員集合となる。
 ビジネスホテルに車を停めて一汗流し待望のビアホールへ向かう。大勢の観光客が並んでいたが整理券の力で待つことなく入場する。迷わず食べ放題飲み放題コースを注文する。4人前の皿を4人で4皿食べ、私とK藤は大ジョッキ8杯、F島は7杯、S井は「4杯も飲んだのにみんなの前では霞んでしまう」と嘆くような状況になる。つまり4人で肉16人前と大ジョッキ27杯である。そこからの帰り道は私とS井は札幌ファクトリーの喫茶店でアイス珈琲を飲んで帰ったのに対し、K藤とF島はラーメンを食べに行ったと言うから驚きだ。
 大騒ぎの翌日は朝早くホテルを出て小樽から新潟に向かう長距離船で余韻を残しながら北の旅を終えるのであった。(次は筑肥編