No.86 隠岐編      日本を走る ←No85西海編No87西岳編→
旅行期間 1995年11月1日〜1995年11月5日 旅行日数:5日間
総走行距離 389km
走破市町村 23
同行者 初日以外はF島 使用自転車:GT
総費用 85,697円 当時の年齢:31歳
初日 1995年11月1日
移動区間 自宅〜寝台特急・瀬戸(輪行のみ)
2日目 1995年11月2日
輪行区間 自宅→JR巌根駅→JR高松駅
走行区間 高松駅〜米子市BH藤
走行距離 198km
走破市町村 17(直島,玉野,灘崎,矢掛,井原,芳井,美星,川上,成羽,備中,哲多,神郷,日南,日野,江府,溝口,岸本)
累計数 2,779
 西海編が終わってからアクアラインの仕事が忙しくなると同時にJCの30周年記念事業などで忙殺され、たまに手に入れる2・3日の休みは登山に当てたので久々のまとまった旅である。
 山陰編で対馬壱岐、西海編で五島列島に行って来たのでそろそろ隠岐に行かねばならないと思うが、隠岐に渡る島根県の南側には未走破の地域が多く残っている。それらを目で辿っていると瀬戸内海に面した玉野市や直島まで行っていないのが気になる。それならば乗りたかった寝台特急もあるから高松発の旅をしようと思った訳である。
 早めに仕事を切り上げ東京駅21:00発の瀬戸で西に向かう。岡山通過後はラウンジに行き瀬戸大橋を渡る車窓に感動して7:35高松到着。自転車を組み立て駅前のうどんを食べると直ぐに8:12発の船で直島に9:07に到着。僅か13分の滞在で切符を買って9:20に出航し9:40に宇野に到着。瞬間の四国が終わり日本海を目指す。
 宇野からは彦崎、倉敷を抜け清音から井原鉄道に沿って井原市に進む。井原からは313号で北上し、吉木から成羽川を遡り田原から哲多を通り新見に出る。そこからは伯備線に沿って進むのだが県境を越えたところで日没を迎えてしまう。
 翌朝9時に七類港の船に間に合わせるためには夜でも走らねばならない。これだけ山越えが多いのだから岡山発にすればと後悔しても後の祭り。さすがに境港まで行くのを諦めて米子に宿を取り、午後9時過ぎに到着した。
3日目 1995年11月3日
走行区間 米子市BH藤〜西郷町民宿大枡屋
走行距離 81km
走破市町村 3(西郷,都万,五箇)
累計数 2,782
 朝7時に宿を立ち、水木しげるロードの見学をして境水道大橋の自転車料金をハイカで渡って七類港到着。F島と合流して麦酒などを買い船に乗船。9:00出航し12:10西郷港到着。
 港に着くと「かえれ!竹島」の看板にここも国境の島であることを実感する。島根県議会が竹島条例を作った後ならいざ知らず、日本人の何人がこの時に韓国と国境問題を抱えていた事を知識でなく感覚として持っていただろうか。
 宿に荷物を置いて島の走破のための1周に取り掛かる。隠岐が大きな島とは言え1周せいぜい80kmが走れないはずは無いだろうと舐めてかかっていたのがいけなかった。
 西郷から時計回りに行動開始。加茂までは風が強い程度で好調だったがすぐさま急な上り坂。海岸線沿いでも上り下りがあることは有る程度覚悟していたがかなり手強い。高度計の機能があるF島の腕時計によるとピ−クで標高200mを越えているという。それが繰り返し現れ午後4時が近付いた段階でまだ半周もしていない。これは1周を強行したら宿の門限を回ってしまうのではないかと不安になる。
 そんな中で五箇村の中心に入ると水田が広がる穏やかな里と水若酢神社などの歴史に溢れた良い所。時間がないからと素通りするのも惜しいし、何より体が休憩を欲している。島の人に聞くと今来た西海岸より東側がきついとの話で1周を断念して中央突破で西郷に帰ることにする。ただ、東半分に布施村を残しているし、西郷から朝方にちょっと行く程度の所でも無いので、1周の断念は隠岐の再訪問を意味することを覚悟の上の判断をした。
 中央を抜ける道は思いの外平坦で5時にならないうちに民宿に帰り着いてしまった。近くの酒屋で麦酒や日本酒を買い、食事の時間まで港で苦い酒を飲んだ。
4日目 1995年11月4日
走行区間 西郷町民宿大枡屋〜JR境港駅:夜行急行・大社
走行距離 36km
走破市町村 3(知夫,海士,西ノ島)
累計数 2,785
 島後に村を一つ残したまま西郷港を後にして8:30に出航する。幾つかの港に着いた後10:55に来居港で下船。知夫村役場まで往復した後、時刻表に乗っていない島内連絡船で来居から中島日津港に渡る。菱裏まで走り12:50のフェリーで西島別府港に13:05に到着。船を3回乗り継ぎ島前3町村の走破がこれで完了。
 別府の黒木御所跡を見てから浦郷を過ぎて国賀に到着。257mの断崖である摩崖天に登りハイキング道路を駆け下る。とても時間も金も掛かったが、この風景を見るために隠岐に来たんだなと納得させてくれる景観がそこに広がっていた。
 再び浦郷に戻り16:10発のフェリーで七類港に18:30に到着する。まだまだ鳥取や岡山に未走破の地帯が有るが、それを後回しにしても行きたいところが有った。
 阪神大震災の発生からおよそ10ヶ月が経過し、復興第一段階の生命安全の確保、第二段階の社会資本の復旧から第三段階の経済の回復に移ったと考えたので封印していた神戸への旅を実施したのである。
 JR境港駅から乗車。乗換駅の米子で酒やつまみを大量に買い込み、福知山線経由の夜行急行大社の椅子席では酒の力で寝るのであった。
5日目 1995年11月5日
輪行区間 JR境港駅→JR三田駅、JR三宮駅→JR巌根駅→自宅
走行区間 三田駅〜三宮駅
走行距離 74km
走破市町村 0
累計数 2,785
 急行大社を三田で降りる。棚にカメラを忘れたのに気づき、駅から大社の車掌に連絡してもらう。幸い発見されたが逆方向の列車でここ三田駅ではなく管理区のある篠山口駅に持っていくとの事。駅前に自転車を置き篠山まで電車で往復。そんな時間の無駄を過ごしてから走行開始。
 神戸時代に通勤で使った神戸電鉄沿いの谷間を進む。夜行の寝汗を拭うために有馬温泉に寄り道する。この辺りではそれほど地震の影響は見られない。鈴蘭台から須磨に降り、地震で主塔間隔が1m以上伸びた明石海峡大橋の工事現場を見てから長田に入る。
 あれから時間が大分経ったというのにまだまだ復興の道は厳しそうである。急激に空き地が広がると火災の跡地だと解る。阪神高速も寸断され、あの綺麗だったハーバーシティも護岸が液状化で変形している。貿易センタービルから見下ろせば市役所を含め破壊されたままの建物が多く残りブルーシートも目に付く。
 三宮に入り昔行きつけの店を探すが全て壊滅。貴金属を売っていた店はラーメン屋に変わるなど街の変化が激しい。しかし変化があると言うことは人々が自立に向けて動き出していると言うことだ。よそ者の私には励ましの言葉の他にはそこで消費活動を行い、少しでも経済が活性化するように努めるしかない。
 店を何軒か梯子して飲み歩き、ガンバレの言葉を後に神戸を離れ、大阪でF島と別れて新幹線で帰宅した。(次は西岳編