江川運動場を遡る
2019/06/23記
 本日、江川総合運動場拡張工事の第一段として、陸上競技場のオープニングセレモニーが開催された。ナイジェリア連邦共和国のイサ大使を始めとする大使館の方々や北関東防衛局の松田局長を始めとする自衛隊関係者の方々、さらに地元の浜田代議士、高橋・森両県議など多数の来賓が来られる中で木更津市初の陸上競技場の完成を盛大に祝うことが出来た。
 
 地元のサッカーチームやミニバスのチームを始め、多くの子どもたちやその父兄も集まる中で、私は議長の挨拶として、ここは昭和30年代の米軍による飛行訓練の影響で集団移転して出来た土地の有効活用であることを伝えた。
 この拡張事業については5年前にも記載しているが、今回はこの土地の歴史について遡って考えたいと思う。
 
 昭和22年(1947年)2月22日に米軍によって撮影された木更津市の航空写真が太田山にある郷土博物館金のすずに有り、それを利用して戦後の木更津市の特集が組まれた時のパンフレットから江川運動場周辺を引用したものが下の写真である。
 
 戦争中の集団疎開に伴う家屋の減少や軍用道路と空襲から飛行機を隠す「掩体壕」の跡が数多く残る写真であるが、海軍飛行場の滑走路延長線の北側(中型機と書いてある辺り)に多くの家屋が写っていることが解るであろう。さらに昔は現在の海上自衛隊の先で海岸側に曲がり自衛隊沿いに北上しており、幹線道路は現在の金木橋に至る県道では無かったことも写真から解る。
 
 少し時間が経ち、昭和43年(1968年)4月30日に国土地理院が発行した1/25,000地図を見ると、依然として江川の集落の多くは滑走路の延長線上に存在していることが解る。
 
 しかし、実際にはこの頃に多くの家屋が住み慣れた場所から騒音の比較的少ない場所に移転しているのである。移転の原因は騒音だけでなく、米軍機による家屋破損や火災といった事故と航空法による財産権の制限である。
 
 次の図は昭和47年(1972年)12月28日に発行された国土地理院の地図であるが、上記の図から僅か4年半が経過しただけで滑走路延長線上の家屋郡が殆ど消滅したことが解るだろう。
 
 この事については平成23年(2011年)12月8日に行った議会質問で取り上げたが、この集団移転については木更津図書館の郷土資料室や公民館等で調査したものの記録を発見することが出来なかったのである。
 
 なお、参考に上記の図面に陸上競技場(青)と取り付け道路(緑)を図示すると下図の通りである。
 
 今後、野球場やサッカー場の整備が完成した段階で、この地には多くの人々の営みがあり、それが基地政策のために移転を余儀なくされ、その結果として総合運動場が出来たことを整理し、公園の片隅にでも何らかの形で留め置きたいと考えながら今回の記事をまとめている次第である。