震災の日を迎えて
2023/03/11記
 今日から12年前は東日本大震災の発災日である。私は議員の一期目として最後の年を迎え再選に向けた準備も進めていたが全ての委員会を傍聴していた。前日までは三中や日本賃貸保証の建設現場を見に行ったり桜祭りの打合せに出ていたりと、日本の風景が一変するような災害が来ることを想像もせず、深く勉強せずに予算審査の傍聴に臨むことになってしまった。
 当時は予算費目毎の審査であり、消防費の審査が終わり教育費の審査が進む中で残りは水道事業会計と討論や採決を残すのみとなり早めに委員会も終わりそうだと感じている頃だった。
 
 市役所が大きく揺れ始め、審査を中断して情報収集が始められた。私の携帯ではワンセグが視聴できたのでテレビの速報で東北地方での巨大地震だと知り、中断している間に周辺の土地で液状化の噴砂が発生していないだろうかと市役所の屋上に登ると新日鐵君津製鉄所から煙が上がり、春霞の向こうになる東京や横浜方面でも黒煙が登っていることが確認できた。
 会派室に戻ると今まで感じたことのないような力強いP波を感じて、次のS波で下敷きにならないようにロッカー等から離れると茨城沖のM7.4の強い揺れが市役所を襲い壁の一部が剥がれ亀裂も入る事態となった。全員が市役所から退去することを命じられ、私も駐車場で携帯を見ているとNHKでは宮古市役所が津波に襲われる映像を流していた。災害対策本部を設置するために予算委員会の継続は不可能だと判断され津波注意報が発令される中で帰宅する途中で北東の地平線に夕焼けのような光を見た。これは市原市で石油タンクが爆発した閃光で、近くの工場に勤務している友人によると熱波も感じて戦場のようだったという事である。
 
 帰宅して周辺を確認するが震動による大きな被害は無さそうだったので自宅で報道番組を見続ける。情報が錯綜し全体像が見えてこないが津波の映像からは戦後の日本では経験した事のない、阪神大震災を凌駕した大災害が発生していることは明らかだった。
 選挙に向けて準備していた会議などは中止や延期を余儀なくされ、電話の錯綜による通信不良や計画停電による混乱が続く中で議会としても現職議員は選挙活動を日没までで自粛しようという申し合わせが行われる。被災地では深刻なガソリン不足に陥っている事も解っていたので選挙に自動車を使わないと決めて、それ以降の3回の選挙は全て自転車だけで行っており、今回もガソリンを消費することは行わないつもりである。
 
 大災害に伴う深刻な税収不足が発生すると想像した私は、斉藤議員・鶴岡議員と連名で議案の修正動議を提出するなど議会の対応を求めたが否決された。この時に議員の報酬も下げる案件を計画していたが、それがコロナ対策の費用を捻出するためにとして数年後に形になるとは想像していなかったが、当時は議会の機動力の無さを嘆いていたものである。
 
 市議会議員選挙に先立つ県議会議員選挙は無投票で決着が付き、当時県議会議員であった渡辺現市長は青年会議所時代のメンバーたちと岩手県山田町へとボランティアに出かけていった。私は阪神大震災の時にアクアライン建設に携わっていた状況の中で現地へ行けなかった負い目があったので、今度は何とかせねばと思うものの選挙が終わり、後始末が終わるまで動くことが出来ず、一息つけた5月1日に旭市飯岡などの被害状況を見に行き、7日から一泊でいわき市に入ってボランティアをするなど、その後も宮城県気仙沼市や岩手県山田町、福島県南相馬市などで数年間に渡りボランティアをしながら代わり行く被災地の状況を見続けてきた。
 震災関連道路が昨年度に全通したようなので妻子を連れて東北に行かねばならぬと思いながら感染症の流行などで思うように出来ていない。気持ちはまだ繋がっているということを現地に行くことで示さねばと考えている状況である。
 
 12年前には破壊されなかった十勝沖や房総沖を起点とする日本海溝型大地震の危険性を毎年考えていたが、東南海でも大きな歪みが蓄積されているはずで、これからの12年以内には次の震災を受ける可能性は極めて高い。報道も備えを忘れるなと繰り返し伝えているが、災害直後のような危機感は薄れている。
 その頃から繰り返し伝えていた久津間地区への命山の建設構想は何とか絵になってきたもののスケジュールは具体化していない。人口や税収の増加により文化的な事業に力が注がれているが、改めて人命を救うための準備をすることが行政の仕事だと自覚する日が今日であると思いながら今回の記事を書き連ねた。