03.1月下旬の活動記録
 21日は朝から溜まった仕事を片づけ、消防本部や都市整備部や経済部などで諸調整を行うとともに市内で所用を済ませて回り、帰宅後に事務所に籠もり遅くまでHPの更新作業を行った。
 
 22日は午前中に雑務を処理してから特別養護老人ホームさつき園に行き平成27年度第2評議員会に出席する。議題は理事及び監事の選任であり、私も引き続き評議員を務めることと成った。会議終了後に駅前庁舎に入り視察の写真データを会派共有パソコンにアップして、議会事務局と翌週の行政視察を調整してから君津市生涯学習交流センターへ移動し、かずさ四市議会議長会議員研修会に出席する。
 内閣府地方創生推進室の麦島次長による「広域連携で進める地方創生」という議題で講演を聞く。先週の鴨川市における研修会も地方創生であったが、人口減少社会と今回の制度について違和感が出た(詳細は
最近思う事に記載)。研修会終了後は四市の議員がホテル千成に集まり、懇親を深めた。
 
 23日は後援会報の打合せをしてから自民党木更津支部役員会に出席して参議院選挙に向けた会議を行い、午後1時から君津学園と木更津市の合同開催になる『故真板益夫先生お別れの会』に出席する。
 会には多くの国会議員や県内各地の首長、多くの教育関係者も集まり、改めて真板先生の歩んできた道の偉大さを実感する。戦後の何もない社会からこれまでの成果を残して来られたが、我々のように様々な物がある社会の中から同様の偉業を成すものが現れるだろうかと感じながら、偉大な人を失った感覚に浸っていた。
 帰宅後は夜から地元消防団の新年会に呼ばれて出席する。最近は操法や早出で良い成績を続けているが新入団員の勧誘には苦労しているようだ。江川で大変なのだから人口の少ない地域はとても苦労している事だろうと思う。
 
 24日は朝から家の片付けや家事の手伝いを行い、午後からは江川区各種団体慰労会に出席する。民生委員や消防団、交通安全協会等の各種ボランティアを行っていただいてる人達と区の役員が懇親を深める場で、様々な情報交換を行わせていただいた。
 
 25日は九州や台湾から雪の被害の話が届くと言った寒波の中、学生時代の後輩と日光の
鶏鳴山[962m]に登りに行く。標高は低くとも冬の時期の山は登り堪えがある。山から降りたら久しぶりに後輩と飲みたいところで有るが、視察の準備もあるので早々に帰宅した。
 
 26日は市内で所要を済ませてから朝日庁舎に向かい江川運動公園関係設計の進捗状況などを確認した後で昼食を取り午後から農協の理事会に出席する。農協として道の駅の入札に参加するかどうかなど、11件の審議事項と20件の報告事項を議論し終えたら午後6時を回っていた。帰宅して視察の鞄に着替えを詰めてからHPの更新作業を行った。
 
 27日は基地対策特別委員会の行政視察で朝7時10分に木更津駅に集合し沖縄県に飛ぶ。木更津では一面に霜が降っていたが辿り着いた宜野湾市では寒緋桜が咲き始め、気温差の大きさに戸惑うところである。市役所の視察に入る前に嘉数高台公園と沖縄国際大学に立ち寄る。
 嘉数高台公園の展望台からは普天間基地が見下ろせる場所であり、本日の視察項目であるオスプレイがこちらを向いて停めてあった。1機はヘリコプターモードに替えて回転させていたが飛び立つことなく、単なる点検だったのかも知れない。暫く見ていたがオスプレイの離発着は無かったので展望台を後にして沖縄国際大学のモニュメントに移動する。
 
 移動する車の中で重量感の有る音が聞こえたので上空を見たらオスプレイが基地に帰ろうとしているところであったので車窓から写真撮影をした。沖縄国際大学には2004年8月13日(金)の14:15頃にCH-53Dが墜落炎上した記憶を留めるため焼けこげたアカギの根本を保存してあるが校舎は綺麗に建て替えられて面影は残っていなかった。
 寄り道を済ませてから予定されていた午後2時に宜野湾市役所に到着し、行政視察を開始する。 
1.沖縄県宜野湾市
 市制施行 昭和37年7月1日
 人口 97,470人(平成27年12月1日現在の住民基本台帳登録数)
 面積 19.80km2
 平成27年度一般会計予算額 368億97百万円
 財政力指数 0.617 (平成25年度)
 視察項目 オスプレイ配備による影響について
 宜野湾市の中央に位置する米海兵隊の普天間基地では2012年10月よりCH-46に代わりMV-22の配備が始められ2013年9月までに24機が常駐することとなった。この機体の定期整備を木更津基地で行うため市民生活にどの様な影響が生じているのか調査を行った。
 意外なことに騒音の発生回数は減少していたが、市に寄せられる苦情は増加しているとの事である。苦情内容は22時以降の飛行をしないという協定を守らない夜間飛行に対するものや低周波の影響が心配といった不安からの意見が多いとの事である。低周波について体調を崩して入院等の実害が生じているかと質問したが市では聞いたことがないようだ。騒音測定器は基地を取り囲むように8箇所設置してあり、7箇所は県、1箇所が市(8割国庫補助)で、データは全てを確認できるシステムが出来ている。騒音の最大値は120.6dBと高いが、これは艦上戦闘機F-18の飛来によるもので普天間常駐の機体では100を上回る事は少ないようだ。それでも深夜0時2分に低空飛行のオスプレイにより92.1dBを記録しているので静かな環境であるとは決して言えない事は事実である。
 日米合意で22時から翌6時までの夜間飛行は「米軍の運用上の所用のために必要」なもの以外は認めらないが、平成24年度中に基地に着陸した1,367回のうち132回が夜間飛行であった(うち0〜6の未明の時間帯は5回)。また場周経路も設定されているが実態は異なる所を飛行しているようだ。
 市民の感情については当初は激しい反対運動が起きたものの現在では諦めているが、市長は反対の立場を貫き不定期に県や国に要望活動を行っている。それと関係があるかは解らないが国からの交付金はオスプレイが配備されてから下図のように増加している。
 市役所には24時間苦情窓口を設けているが、夜間や休日は留守番電話対応なので、これなら木更津市でも簡単に行える対策ではないかと考えて話を聞いていた。 
 視察を終え、普天間基地から返還を勝ち取った場所に建設された佐喜真美術館に立ち寄る。丸木位里・俊の両名による「沖縄戦の図」や屋上から見える基地の説明を受けながら、機内で読んでいた太田元知事が35年前に書いた「沖縄」の内容を思い地上戦の悲惨さを考えた。
 夜は独自に島歌を聴き、国際通りの映画館跡地に国場組が設置した屋台村などの調査を行ったが、その詳細な記録は割愛する。
 
 28日は朝6時半に起床すると暗い。経度の差を実感しながら首里城までの上り坂を散歩する。Tシャツで歩いても汗が流れる気持ちよさを満喫し、ホテルに帰ってシャワーを浴びスーツに着替えてこの日の研修を始める。
2.防衛省沖縄防衛局
 視察項目 沖縄県における米軍基地等の現状について
 防衛局は嘉手納基地の騒音が響きわたる嘉手納町役場の隣に有るのだが、この日は那覇防衛事務所5階の会議室での説明である。沖縄における米軍施設の返還に向けた取組や自衛隊の展開等について学習する。沖縄が日本に帰った1972年には約280km2も有った米軍施設面積が現在では約226km2に成り、今は176km2に向けた取組を行っているとの事で、特に人口の9割が集中する中南部での10km2の返還がまちづくりのためには重要事項である。残る40km2は広大な北部訓練地からの返還であり、山原の森の世界自然遺産登録と合わせた取り組みと聞くと一層支援したくなる。なお、人口の1割である沖縄北部には158km2の米軍施設が存在し、これだけで日本の全面積に占める割合は51.6%になる。中南部と宮古を合わせた約68km2は本土全体の80km2を若干下回る値である。この中に普天間の4.8km2が含まれる。
 米軍施設は、宜野湾市でキャンプ瑞慶覧の一部の51haが2015年3月31日に返還されるなど、少しづつ進んでいる一方、陸上自衛隊を与那国に配置し那覇の飛行隊の編成を増やすなど自衛隊の増強は進めるようだが、現在の自衛隊施設面積は合計で7km2にも満たない値であり日米間の格差は大きい。
 沖縄防衛局は約450人体制で北関東防衛局の約300人より規模が大きい。返還といった問題もあるが地権者が多いことや訴訟も抱えており大変なことだろうと思うし、沖縄県以外に整備拠点が行くことは少しでも事務の軽減になることだろうと感じざるを得なかった。
 視察を終えて、私の好きな牧志公設市場2階の食堂で昼食を取って帰路に着く。那覇と木更津の温度差のためか、帰宅すると疲れが出て早めに床に入って休んでしまった。
 
 29日は朝から冷たい雨が降る中、事務所で仕事を片づけ、市内で所用を済ませてから市役所に行くと火葬場の四市共同事業への基本合意に達したことの情報が入り、木更津総合高校が第88回選抜高校野球大会へ2年連続3回目の出場が決まった号外を受け取った。
 帰宅後はHPの更新を進めるが、沖縄の記録整理に時間が掛かって作業途中で就寝した。
 
 30日は朝からHPの更新を行い、午後からは農協本店で開催される和食特別講演会に行く。大勢の観衆が集まる中で日本料理の野崎洋光先生の「素晴らしい日本の食」と題した話を聴きながら産地が近い木更津市での可能性を感じてきた。その後は市内で買い物を済ませて帰宅した。
 後援会報の印刷物も届き、発送の準備を進めながらHPの更新作業も行っている内に外で遠く冬花火の音が聞こえてきた。
 
 31日は早朝から江川熊野神社でテントの設営など節分祭の準備を行う。帰宅して後援会報発送の準備をして、午後からは太田山で来月に行う『竹取物語』の準備を行う。右の安西家の竹垣は現在の状況で、これを繁茂する竹で更新する予定なのである。
 作業が終わり、帰宅後は夜遅くまで袋詰め作業を行った。
 
 
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2016年2月上旬の記録