No.25 四国編      日本を走る ←No24袋田編No26妙義編→
旅行期間 1981年7月20日〜1981年7月29日 旅行日数:10日間
総走行距離 1,169km
走破市町村 114
同行者 無し 使用自転車:OP
総費用 27,314円 当時の年齢:17歳(高校3年)
初日 1981年7月20日
走行区間 自宅〜箱根町関所跡
走行距離 127km
走破市町村 0
累計数 496
 この日は高校の終業式の日である。高校の直ぐ近くに済む友人のM家に旅行装備日を全て預かってもらい学生服で学校に行く。その日にもらった通知票は理数教科を中心に高得点を取り、理系クラス42名中の中で3番という満足できる成績だった。終業式終了後、M家で学生服からTシャツ短パンに着替える。2年の時に仲の良かった友人6人が集まり見送りをしてくれる。家業を継ぐ一人を除きみんな進学希望で、この夏は受験への追い込み勉強が待っている。みんな私の分も頑張ってくれよ、と託して君津を後にする。
 金谷まで下りフェリーで久里浜に渡る。何回も通過した湘南を抜けて箱根の山登りに取り掛かり、箱根編と同じ場所で野宿する。
2日目 1981年7月21日
走行区間 箱根町関所跡〜吉良町吉良吉田駅
走行距離 268km
走破市町村 21(清水,長泉,岡部,藤枝,島田,金谷,菊川,掛川,袋井,森,豊岡,天竜,浜北,細江,引佐,三ヶ日,御津,蒲郡,幸田,幡豆,吉良)
累計数 517
 朝5時半に出発。箱根峠を越え静岡県入りして三島に下り、坦々と大井川を渡るまで1号線を進む。金谷で東海道本線に沿って菊川を経由するが掛川で1号線に戻り、袋井からは一気に北上し国鉄二俣線(現天竜浜名湖鉄道)の遠江一宮に至り、線路沿いに天竜川を渡る辺りで体力的にきつくなり岩水寺で一休みする。
 休息後も線路に沿って三ヶ日まで至り、本坂トンネルで静岡県を後にして豊川に降り豊川稲荷の参拝。御津経由で蒲郡に至る。
 静岡横断1日というハードな戦いを終えたので風呂に入ろうと三河湾沿いに進むながら銭湯を探しているうちに午後8時に西浦温泉に着いてしまい180円で入れる温泉銭湯に入る。湯上がりにさっさと寝ようと思うが静かに寝られそうなところがない。探して走っているうちに吉良町まで行ってしまい名鉄蒲郡線の吉田駅で横になったのは夜10寺になった頃であった。今日の活動時間は16時間半だ。
3日目 1981年7月22日
走行区間 吉良町吉良吉田駅〜上野市光明寺
走行距離 173km
走破市町村 27(一色,西尾,碧南,半田,常滑,知多,東海,西枇杷島,新川,清洲,稲沢,平和,佐織,津島,佐屋,弥富,長島,桑名,朝日,川越,四日市,鈴鹿,亀山,関,伊賀,阿山,上野)
累計数 544
 吉田から247号線で碧南に至り衣浦トンネルという海底トンネルを抜け、半田から知多半島を横断し常滑に至り湾岸の247号線を北上する。湾岸道路というのはいずこも同じようなもので、市原市五井あたりを走って居るかのような味気なく空気の悪い区間であった。そのまま北上して熱田神宮や大須観音を参拝、名古屋城を公園から眺めた後、清洲城址に到着。この頃はまだ再建されていないので強者どもが夢の後、という気持ちである。
 清洲から濃尾平野を西に進み津島にいたり155号線で弥富に出て1号線で亀山にいたり、そこから25号線で西に進む。25号線という道路番号は主要幹線であり、事実名阪国道は立派な道路なのだが自転車が走行して良い一般共用部分は田舎県道より状況が悪く、油断すると道に迷いそうな代物である。そんな道を伊賀上野まで走り、松尾芭蕉生誕300周年記念で1942年に建設された俳聖殿や上野城を見学、名張方面に移動したところで郊外のお寺のお堂を借りて泊まる。
4日目 1981年7月23日
走行区間 上野市光明寺〜板野町金泉寺
走行距離 160km
走破市町村 24(名張,室生,榛原,桜井,明日香,橿原,高取,御所,五条,橋本,九度山,高野口,かつらぎ,那賀,粉河,打田,桃山,貴志川,岩出,和歌山,岬,徳島,藍住,板野)
累計数 568
 今回の計画行程では往路に南部大和路、帰路に奈良市と京都を楽しむ予定だった。7日目のアクシデントにより京都や奈良の観光は九州編まで4年待つ事になるが今日の大和は問題ない。
 出発は5時前。名張を経て165号線で奈良県に入り、大野寺、長谷寺を巡り桜井から多武峰の談山神社に至る。綺麗な神社を見終えて地図を見ると、岡を越えれば明日香村。自転車だから登山道ぐらい下れるだろうと担ぎで越えていく。
 談山神社から30分をかけて石舞台に到着。体力は不必要に奪われている。飛鳥大仏や酒船石、飛鳥資料館などを巡った後、掖上から和歌山線に沿って五条に出て、途中で九度山の真田館、粉河寺などに立ち寄りながら24号線で和歌山に向かう。四国に渡る方法は幾つか有るが深日から徳島のフェリーを選んだ。選択した要因は今となっては思い出すことが出来ない。
 5時冒頭の船があるような気がして和歌山から孝子峠を一気に越えて港に4:57に着くと4:55の出航をしたばかりで次の便は6:35だと知り、和歌山城観光してくれば良かったと後悔するが後の祭りである。
 待合所でゆっくり休み、船の2等船室で寝ているうちに21:05徳島港到着。四国上陸である。同じ船に乗っていた大阪の青年が千葉の高校生が自転車でここまで来たのを祝ってやると、ファミレスでハンバーグライスとビールをご馳走してくれる。高校生なんだけど・・1杯ぐらいは良いか。
 寝たのはそこから少し走った板野町の金泉寺で到着は午後11時を回っていた。
5日目 1981年7月24日
走行区間 板野町金泉寺〜山城町祖谷口駅
走行距離 172km
走破市町村 27(鳴戸,引田,白鳥,大内,津田,志度,牟礼,高松,国分寺,綾南,綾上,綾歌,飯山,丸亀,善通寺,琴平,仲南,満濃,高瀬,山本,財田,観音寺,豊中,大野原,豊浜,池田,山城)
累計数 595
 朝目覚めると連日のハードな行程と寝不足で顔がむくみ気味。気分も悪いのは風邪でも引いたのかと思うが、それでも走ることを選択する。
 金泉寺を出て四国八十八霊場の第1番札所の霊山寺、2番札所の極楽寺を詣でて体調の回復を祈念。大阪越えで香川県に入り、11号線を西に向かう。
 志度寺、屋島神社、栗林公園、善通寺を経て金刀比羅宮に着く。この史跡巡りの間にとてつもない讃岐うどん店を素通りしていたこと知り、後悔するのは中四編を行う20年後の事である。
 金刀比羅宮は長い石段を山頂まで往復したので1時間半の滞在となり出発は午後4時半になる。最後に観音寺市に出て「寛永通宝」を琴弾山から見下ろして香川県の観光終了が午後6時。この時間なら通常は宿に着いているものだが、これから柞田川を遡り五郷ダムを経て曼陀峠を越えようとする。
 トンネル抜けて徳島県に入る頃には既に夜の闇の中である。単独で長距離だから毎日どうしても無理をしてしまう。池田で夜食を食べ土讃線の祖谷口駅に着いたのは夜9時を回っていた。
6日目 1981年7月25日
走行区間 山城町祖谷口駅〜土佐清水市足摺岬
走行距離 256km
走破市町村 15(大豊,土佐山田,南国,高知,伊野,春野,土佐,須崎,中土佐,窪川,佐賀,大方,中村,土佐清水,三原)
累計数 610
 朝5時から行動開始。小歩危大歩危の渓谷を抜けてから朝食を取り根曳峠を越えれば太平洋に向かう下り坂で街路樹まで南国モードに成ってくる。自治体の名前だって南国である。急に暑くなってくる。高知に入れば土佐神社や高知城を見て喜び、はりまや橋でガッカリした後は56号線をひたすら進む。
 七子峠に登る久米坂に備えて中土佐町で昼食を取るなど、休息を適切に入れながら進めば中村には午後4時半に到着。321号線を進み市ノ瀬に着いたところで海岸だけを進むと取り残される三原村に入らねば成らない気がして川を遡り峠を越えて長谷川に沿って321号線に戻ってくるという回り道を行う。
 こんな事をしていたので土佐清水に着いたのは夜8時。そこで行動中止すればよい物を岬で朝日が見たいからとライトをつけて足摺岬を目指す。屈曲の多く狭い海岸沿いの道を進み、岬の東屋で横になったのは夜9時半である。着いて直ぐに雨が降り始める。せっかくここまで着たのに明日の朝日は大丈夫だろうか。
7日目 1981年7月26日
走行区間 土佐清水市足摺岬〜岡山市岡山駅
輪行区間 足摺スカイライン料金所→国鉄土佐中村駅→岡山駅→巌根駅
走行距離 13km
走破市町村 0
累計数 610
8日目 1981年7月27日
移動区間 岡山市岡山駅〜中央区姉の家(輪行のみ)
9日目 1981年7月28日
移動区間 無走行(中央区姉の家)
10日目 1981年7月29日
移動区間 中央区姉の家〜自宅(輪行のみ)
 そして運命の7日目を迎える。
 朝は水平線から上がることは見られなかったが雲も少なく良い天気である。灯台やジョン万次郎の像、金剛福寺を見て回る。今日も頑張って松山まで走るぞ、と決意を込める。昨日の海岸沿いの道が悪かったこともありお寺で海岸と有料道路とどちらがよいか聞くと、上りはあるがスカイラインの方が走りやすいと進められる。もちろんこれは車しか乗っていない人の考えなのだが、そうと気づかずスカイラインに入る。
 登りがきつくランニングに短パンという軽快な服装に変える。標高400mのピークを越え、快適にダウンヒル。そして料金所も近い左コーナーで自転車を傾けると前輪が砂で滑り、サイドバックがアスファルトをこすり前輪が浮き、トークリップが着いたまま人間と自転車はアスファルトの上を滑り対向車線を越え、路肩に衝突。
 幸い対向車が居なかったから轢かれずに済んだが顔、左肩、膝、脹ら脛などに深い擦り傷。おまけに打撲で節々が痛い。自転車はブレーキレバーが折れてハンドルが曲がっている。
 流れる血をタオルで止めながら料金所まで自転車を押して行き、転倒しましたので近所の病院を教えて下さい。と頼むと直ぐに救急車を呼んでくれる。そして生まれて初めて救急車に乗り土佐清水市内の渭南病院に運ばれ手当を受ける。
 骨折こそ無かった物の、傷は思いの外深く、これは心を入れ替えて受験勉強しろという天の声かな、と考え旅の続行を断念する。
 神はその第7日にその作業を終えられた。(創世記第2章1-3節)
 診療後、病院の人が親切に自転車を置いてある料金所まで送ってくれ、さらに料金所の人が土佐中村に買い物に行く地元の人に国鉄の駅まで載せていってくれるように頼んでもらい、親切のリレーで中村まで帰る。
 運送会社に自転車を木更津まで運んでもらうように頼むとかなり高い。これは持って帰るしかないな、と自転車屋を訪れ輪行袋を探すが在庫が無い。代わりにこれを使えともらった物は自転車が入っていた段ボール箱である。それに自転車を詰め、金物屋で買ったロープで縛った上に取っ手を付け国鉄に乗車する。急行や宇高航路に乗って進むがその日は岡山駅で終電が終わり駅のホームで寝袋に入る。山陽本線に出たら特急代を押さえるため始発の各駅列車で東に向かい、何度も乗り継いで東京に着いたのは夜11時近い頃であった。
 母が心配するからもう少し傷が治ってから帰りなさい、と言う姉のアパートで2泊して休息を取ってから家に帰る。数日後に高校で開催される夏期セミナーに参加したらみんなに驚かれ、説明するのが大変だった。(この旅で高校を卒業し大学へ。次は群馬に引っ越しをする妙義編