No.30 北海編(1/4)2/4 3/4 4/4 日本を走る←No29No31→
旅行期間 1982年7月16日〜1982年8月2日 旅行日数:28日間
総走行距離 5,005km
走破市町村 283
同行者 無し 使用自転車:OP
総費用 65,344円 当時の年齢:18歳(大学1年)
初日 1982年7月16日
走行区間 前橋市赤城荘〜片品村一ノ瀬休憩所
走行距離 90km
走破市町村 0
累計数 691
 夏の北海道!これは多くの自転車野郎にとって憧れの地である。もちろん私も迷うことなく大学最初の夏は北海道を目指すことになる。もちろん、最初の北海道なので輪行を極力抑え、往復とも長い東北の大地を走り抜けて行く、遙かなる北海道の旅である。
 出発は大学の講義が無くなった(つまり夏休み)最初の日。だがこの日は2輪の卒業検定で教習所に行かねばならないので午前中が潰れる。その上気も焦っていたので検定に不合格になり、旅を延ばす気も無いため教習期限切れで2輪免許取得叶わずとなった。今から考えれば、仮に免許を取っていたら多分ツーリングに走り、自転車全国制覇に繋がらなかったろうと思うと何が幸いするか解らない。
 出発は昼飯後、17号線の北上を開始する。さっそく岩本駅近くでパンク。さらには雨。そう言えば怪我して帰った昨年の四国編も午後出発だったな、などと様々な不吉を抱えながら沼田から片品村を経て大清水を目指す。実は、旅への憧れのテンションが高過ぎるため、旅の導入部から延々と続くパスハン(自転車の担ぎ)が前提である尾瀬越えによる東北突入という企画を立てたのだ。この日は登山口になる休憩所で寒さに震えて眠る。
2日目 1982年7月17日
走行区間 片品村一ノ瀬休憩所〜喜多方市湯浅家
走行距離 190km
走破市町村 10(桧枝岐,伊南,館岩,南郷,只見,金山,三島,高郷,山都,喜多方)
累計数 701
 朝は日の出前に起きる。既に登山客が歩き始めている。三平口までは林道を走ることが出来たがそこ以降は担ぎ。十二曲の急坂を上り三平峠を越え、尾瀬沼に続く木道を進む。登山客が不思議そうに見る(当たり前か)。長蔵小屋の兄さんには「自転車で来ないで下さい」などと言われるが後の祭り。延々と戦い沼山峠を越えて沼山口の車道に出たのは昼間に近い時間。まだ東北に入ったばかりなのにものすごい満足感に満たされる。
 檜枝岐から伊南川に沿って只見に出て河井継介終焉の地や柳津虚空蔵尊を見て今夜の寝所と考えた磐越西線山都駅へ至る。しかし有人駅で宿泊を断られ、おまけに時刻表を見上げたときにサングラスを落として割ってしまうなど昨日からの不吉が続く。これは日中線(この2年後に廃線)の駅でも目指すかと、喜多方方面に向かい、駅の場所を道に訪ねたところ、泊まって行けよという優しい言葉に甘えさせて頂く。本当にお世話になりました。
3日目 1982年7月18日
走行区間 喜多方市湯浅家〜戸沢村古口駅
走行距離 200km
走破市町村 14(米沢,高畠,南陽,上山,山形,天童,東根,村山,尾花沢,大石田,舟形,大蔵,新庄,戸沢)
累計数 715
 湯浅家に感謝を伝え出発。米沢との境にそびえる大峠越えの開始である。現在は国道に立派なトンネルが出来ているが、この頃は旧道はしかなく、その上りごたえは充分だった。峠を越えて山形県に降りるとフェーン現象でともかく暑い。
 炎天下の米沢の上杉神社を詣で、上山の茂吉記念館に入り、山形では芭蕉の句で有名な山寺に登る。当初計画では山形市から寒河江を経て月山越えを考えていたが朝の大峠越えで余力が僅かになっているため最上川沿いに日本海へ抜ける計画に変更する。
 天童まで走れば曇り始めて少し楽になってくる。13号線を舟形まで北上し、この日は陸羽西線の古口駅で泊まる。国鉄の駅はすっかり旅の宿である。
4日目 1982年7月19日
走行区間 戸沢村古口駅〜男鹿市入道崎民宿
走行距離 205km
走破市町村 16(立川,松山,余目,平目,酒田,八幡,遊佐,象潟,金浦,仁賀保,西目,本荘,岩城,秋田,天王,男鹿)
累計数 731
 最上川に沿って下り、雪の残る鳥海山を見ながら麓を巻くように秋田県に突入。それと伴に空も晴れ渡り、真っ青な日本海が広がる。海岸に出てみるとハングルの書かれた洗剤などが流れ着いており、海の向こうに朝鮮半島があることを実感する。快適な気分のまま本荘市を過ぎ道川の郵便局で貯金を降ろすために立ち寄る。
 この旅では財布を落とすダメージを少なくするためと、通帳に郵便局印を集めるのも記念になるからと毎日少しずつ降ろしていた。いつものように申請書に記載し印を押して窓口に提出すると「この通帳はオンラインの停止をしていないので秋田県では使えません」との回答。まさか本州内で使えない場所が有るとは・・・情報収集不足を反省。しかしここから山形県に戻って停止措置を執って再度出直すのも時間の損失だ。悩んでいると郵便局長が「こちらのシステムの問題で迷惑かけているのだからお金は貸します。後で為替を送ってくれれば結構ですよ」と助け船を出してくれる(2005年にはこんな優しい郵便局を民営化してしまったのだ)。ここで家にコレクトコールで電話をかけ、青森郵便局宛に10万円を送ってもらうよう頼み、青森までの費用の不足分として4000円を借りて進む。そして秋田を通過して男鹿半島に至る。
 こんな金に不安のある旅の途中だが前日までの強行が膝に効いており、寝袋でなく大の字になって寝たい欲求に押され、入道崎の民宿を素泊まり1500円で交渉して泊まり体を休める。
5日目 1982年7月20日
走行区間 男鹿市入道崎民宿〜小泊村農作業小屋
走行距離 240km
走破市町村 19(若美,大潟,八竜,能代,峰浜,八森,岩崎,深浦,鯵ヶ沢,森田,木造,柏,五所川原,金木,稲垣,車力,中里,市浦,小泊)
累計数 750
 布団で寝るのが快適だったと実感した後、五能線に沿った津軽の旅へ進む。海も山もその美しさに感動しながら進むと深浦で信州大生のY元君というサイクリストに追いつく。同行して話をすると私の同級であるK暮と同じ高校であることや、郵便貯金が下ろせなくなったことなど、共通点も多く、楽しく会話をしながらの走りが五所川原まで続く。
 ここで青森に直行する彼と別れ、津軽半島一周のため北へ向かう。太宰治の斜陽館に寄り、国道の尽きる小泊で宿を探す。寝れる場所を歩いている年寄りに聞いても津軽弁がきつすぎて殆ど理解することが出来ない。結局農作業小屋の藁屑の上で暖かく寝ることが出来たのは午後7時を回った頃であった。
6日目 1982年7月21日
走行区間 小泊村農作業小屋〜函館市青雲荘
走行距離 95km
走破市町村 7(三厩,今別,平館,蟹田,蓬田,青森,函館)
累計数 757
 いよいよ北海道に渡る日。津軽半島を回る国道が未通の頃なのでダートの増泊林道で山を越え三厩に降りる。青函トンネルは土木技師の卵としてとても気になっており、この時は掘削長が残り1000mを切った記念すべき日であった。陸奥湾沿いに寂しい漁村を幾つか越え、パンとラーメンを563円で食べてから大都会青森に入る。もちろん一路郵便局を探し、中に入る。財布には残り1,750円。
 「私宛の送金は来ていませんか」という問い合わせに「有りませんね」との回答。目の前が暗くなる。事情を説明し電話を借り家に電話すると「窓口に行ったら『電信にしますか郵便為替にしますか』と聞かれて解らなくなったから振り込まずに帰ったよ」と母の弁。今から電信で青森に送らせる?いや函館に移動だ!と判断し「お願いだから函館郵便局に電信為替で頼む」と話し、郵便局を後にして港に。青函航路の乗車券は人間だけで1700円となりこれで財布の限界。自転車代が払えない。そこで船に乗船する空荷のトラックを見つけ自転車を載せてもらう。これで代金を浮かせ、財布の中身50円で津軽海峡を越えて、友人Y永の住む函館に渡る。万が一彼に会えないと今夜はどうなるか・・・その恐怖に震えながら。


7日目 1982年7月22日
走行区間 函館市青雲荘〜函館市青雲荘
走行距離 10km
走破市町村 0
累計数 757
 やはり持つべき物は友人である。前夜に救出して貰い、夕飯と朝食をすっかり世話になって朝1番に函館郵便局へ行く。今度は無事に金が届いていた。すぐさま4000円の郵便為替を道川郵便局に送ると共にオフラインの通帳を作成する。
 ほっと安心した後で前期の試験があるとY永が言うので供に北海道教育大へ出向き、一緒に国語の試験を受ける(何故だろう)。午後からは彼の案内で立待岬や教会のある港町の散策をする。函館山は昨夜と同様に雲がかかり展望を楽しめそうもない。そうなると後は函館赤ちょうちん本店に行き、関東とはまるで味が違うイカソーメン等を味わい、彼の試験終了と私のこれから始まる北海道一周の無事を記念して乾杯するのである。(2/4に続く