No.84 山陰編      日本を走る ←No83筑肥編No85西海編→
旅行期間 1994年5月1日〜1984年5月7日 旅行日数:7日間
総走行距離 857km
走破市町村 54
同行者 F島 使用自転車:GT
総費用 114,639円 当時の年齢::30歳
初日 1994年5月1日
輪行区間 自宅→JR木更津駅→JR福山駅
走行区間 福山駅〜上下町広島MGYH
走行距離 53km
走破市町村 5(神辺,新市,府中,甲山,上下)
累計数 2,647
 山陰方面の太田市以西が未走破のまま残っていたので長い休みが取れたら走ろうと思い続けていた。この年は2日の月曜と6日の金曜を休めば4月29日から5月8日までの10連休を取ることが可能なので岡山から始まり対馬や壱岐までを含めて走破しようと決めてF島と計画を立てた。しかし、4月30日の日曜日に出なければならない会議が銚子で行われる事になり冒頭2日分を短縮する計画に変更となった。
 1日の新幹線で昼前に福山駅へ到着し走行を開始する。美作編でK坂に連れてこられた事を思い出しながら神辺町で同じようにお好み焼きを食べ、福塩線に沿ってMGYHを目指し走る。河佐峡を過ぎると八田原ダム建設のための付け替え道路が登り勾配で出来ている。それを駆け登り将来の湖畔道路を走れば矢野に至り、丘の上のMGYHに到着する。全国有数の人気YHと言われるだけ有って綺麗だし対応も良い。まだ夕食まで2時間以上有るが寝不足で走る気もなく、近くに有る矢野温泉あやめ荘でサウナや露天風呂などを楽しみゆっくりとすることにした。YHも同じ温泉であるが露天風呂が無いので入浴料は風呂を贅沢に楽しむ出費である。夕食も美味く、気持ちよく最初の夜を過ごすことが出来た。
2日目 1994年5月2日
走行区間 上下町広島MGYH〜出雲市立久恵YH
走行距離 194km
走破市町村 14(甲奴,吉舎,三良坂,総領,庄原,東城,神石,西城,横田,仁多,木次,吉田,三刀屋,加茂)
累計数 2,661
 YHの近くにある山陰・山陽の分水嶺を見てから三次方面に向かう。三良坂から総領に入り中山峠を越えて帝釈峡に行くという、走破のために作った私のコースをF島がきつすぎると嫌がり三良坂から三井野までは別行動をする。
 予定通りに走り、永明寺に着いた時に集合時間までの余裕を見込めたので、伊勢編の赤目四十八滝遊歩道の反省をすることもなく紅葉橋まで遊歩道を進むことを決める。帝釈峡遊歩道は馬車等の通行を前提としているので未舗装であるが自転車で走る事が出来るので赤目ほどの苦労はしなくて済んだ。逆に日本一の天然橋である雄橋の景観を見ると、あぁ来て良かったなと思うぐらいであった。
 紅葉橋から東城に出て昼食を取る。182号線の狐峠に苦労し、疲労のために走行速度もだんだん落ちて行き約束より10分遅れで三井野に到着する。
 F島と落ち合って県境に向かうと道が急に良くなり「おろちループ」へのダウンヒルに向かう。走り降りることの気持ちよさを充分に味わって横田町に出る。谷間の道を木次まで走り夕食に出雲名物の割子蕎麦を食べる。立久恵YHに電話して素泊まりでの宿泊を予約して走り始めるが、出雲市街に着く前に日没を迎えてしまう。
 暗くなった184号線をライトを頼りに、宿を通り過ぎないように注意しながら進み夜8時過ぎに到着する。山岳戦の200km近い走行はかなり身体に堪える。YHの温泉に入り瓶ビールを飲んで早々と寝てしまったようで、宿の中の記憶が殆ど残っていない。
3日目 1994年5月3日
走行区間 出雲市立久恵YH〜益田市BHキャッスル
走行距離 168km
走破市町村 7(佐田,頓原,仁摩,温泉津,江津,浜田,三隅)
累計数 2,668
 184号線を志津見まで走り三瓶山麓に登る。山の雰囲気がとても気持ちよいので登りたくもなったが今回は見上げるだけとした。南側を回り西の原に出て高原アイスを食べる。なお、登山したのはこのちょうど12年後の5月3日であった。
 三瓶山から坂を下り谷の反対側に登り直して石見銀山跡に着く。一時は世界の銀生産の大きな割合を占めたと聞くし、史跡も綺麗に残っておりとても気持ちの良い雰囲気であったので世界遺産に名乗りを上げたと聞いたときには当然だなと思った。銀山資料館を見て代官蕎麦を食べてから仁摩に出る。仁摩サンドミュージアムは入館料が高いと感じたため立ち寄らず、前の売店でかき氷を買って食べながら周辺の様子を見たりする。この日は気温がどんどん上がり暑い日だった。
 仁摩から先は9号線を坦々と進み、浜田の手前にある石見海浜公園の千畳敷に立ち寄って一休みをする。浜田駅の電話帳で益田市内のビジネスホテルを探して予約を入れ、ついでに月見そばを食べて益田に向かう。夕方になってだんだん天気は下り坂になってくる。ホテルにつく前に日赤病院を探し出す。ここは九州編の時に長崎集合に向けて西に向かっていたS井が転倒して担ぎ込まれたところで、旅の途中であったために見舞いに来れなかった場所である。そんなF島に取ってはどうでも良いところまで付き合わせてからホテルに着き、一風呂浴びてから近くの居酒屋に行く。2日続けてYHだったので日本海の魚をつまみに酒を飲みたくなっていた所であった。居酒屋で飲んでいるうちに外では雨が降り始める。明日の午前中も降水確率が80%もあり気が沈む。また、日本海岸を延々と進む私の計画に対してF島は津和野や山口を見たいという当たり前の要求をしてくるので明日は終日別行動として、19時に小倉港で集合して一緒に夕食を取る事も飲みながら決めた。
4日目 1994年5月4日
走行区間 益田市BHキャッスル〜JR吉見駅、JR小倉駅〜小倉港
輪行区間 JR吉見駅→JR小倉駅
走行距離 192km
走破市町村 12(田万川,須佐,阿武,むつみ,福栄,長門,日置,湯谷,豊北,豊田,豊浦,菊川)
累計数 2,680
 今日は単独行動で200km以上走らねば成らないのでF島より先に出発する。雨は夜のうちに過ぎてくれたみたいで夜明けには既にあがっていた。191号線を須佐まで走り315号線でむつみ村に入り県道で萩に出る。ここまでのアップダウンで既に疲れてしまったのは昨日の酒が残っているからだろうか。休息も兼ねて萩の武家屋敷を見に行く。連休らしく大変な人出であった。
 萩を出て長門粟野まで191号線を走る。そこから粟野側に沿って県道を遡り435号に出て豊田町に入り貴飯峠で菊川町に入って、そこより川棚温泉に出る。ここまでの走行を持って残る山口県は5町村まで減らすことが出来た。走破の達成のためのアップダウンにいい加減疲れてきたので大休止のためと、今夜は夜行船に乗るのだから少し入浴には早いが温泉の公衆浴場に入ることにする。
 湯上がりに新しい服を着て風を切る感覚は最高に気持ちがよい。しかしそれも汗を流し始めるまでの快適さでしかない。国道のアップダウンに汗を流しているうちに今日目標としていた市町村は全て走り終えてしまったのだから小倉まで輪行しようという悪魔の囁きが聞こえてくる。せめて下関市までは走ろうという気持ちで市境を越えて吉見駅に着いたら輪行に取り掛かかってしまった。470円分の乗車券を買って18:39の山陰本線普通列車に乗り下関で乗り換え19:12に小倉駅に着いた。直ぐに自転車を組んで港まで走ったがF島を30分も待たせてしまった。
 九州郵船上対馬航路の出港は22:40であり、まだ2時間程度有るがゆっくり飲んでいることも出来ないだろうと簡単にラーメンを食べて早めに乗船する。明日の朝日、対馬の比田勝港への入港が4:35なので、それまで2等船室で寝る。宿代が1回浮いて交通費5,070円は安いものである。
5日目 1994年5月5日
走行区間 比田勝港〜郷ノ浦町民宿船場荘
走行距離 127km
走破市町村 7(上対馬,上県,峰,豊玉,美津島,厳原,郷ノ浦)
累計数 2,687
 夜明け前に上対馬比田勝港に到着する。港で警察官が居り、降りてくる客を観察している視線の厳しさに驚く。旅客待合所には指名手配写真に並んで密航者に注意のポスターがある。道路標識にはハングルの併記もある。ここが韓国との国境の町である実感が急激に強くなる。明るくなるまで待合室で休んだ後、50km先の韓国釜山市の山並みを見る為に382号線を走り、千俵蒔山の中腹にある異国の見える丘展望台に行く。
 天気は晴れていたが風が強いために波しぶきが上がり韓国を見ることが出来なかった。そのかわりに展望台の案内板にある釜山の遠景を焼き付けたタイルを見てイメージを膨らませる。山を駆け下り国道に戻り木坂海神神社や和多都美神社を見ながら南下を続ける。これらの神社の格式はやたらと高く、対馬は日本と大陸の中間として中央政府からも大切にされてきたことを実感する。
 リアス式の海を見ながら万関橋を渡り厳原に着き武家屋敷や金石城、万松院などを見て回る。復活された櫓門や荘厳な宗家の墓地に歴史を大切に残す厳原に好感を覚えると供に、宗氏が大和と朝鮮の間で様々に苦労してきたことが解る。地の利を利用して韓国人を誘致し始めたと聞くが、そんな歴史を持つ対馬でも韓国人観光客問題を生じることに成るとは思わなかった。
 対馬を日帰りで素通りしてしまうことに心残りもあったが15:30の船で壱岐の郷ノ浦港に向けて出港する。17:50に壱岐に着き、牧崎を経て対馬で予約しておいた渡良浦の民宿に入る。夕食に出てきた魚がやたら美味かった記憶がある。
6日目 1994年5月6日
走行区間 郷ノ浦町民宿船場荘〜福岡市ビジネスホテル
走行距離 122km
走破市町村 9(勝本,芦辺,石田,呼子,鎮西,玄海,二丈,前原,志摩)
累計数 2,696
 民宿を出て午前中で壱岐観光を行う。昨日の対馬と比べると平坦な島で楽に走れる。まずは猿岩と大砲台跡を見て回り、次に勝本城に向かう。道の向こうから牛を散歩してくる人が来る。牛の散歩は珍しいがきっとうまい肉に成るのだろうなと思う。勝本から芦辺港のはらほげ地蔵を見て石田の印通寺港に到着する。
 呼子行きの船まで時間があったので郵便局に行って金を降ろし、土産物を購入してパンフレットや中国地方の地図、撮り終えたフィルム等を一緒に郵送して少し身軽になる。この郵送が悪かったのかは解らないが4日目までを写した写真が非常に色が悪い。だからこのHPでもくすんだような画像である。
 呼子港に到着して遅めの朝食を取り、秀吉の朝鮮出兵基地である名護屋城跡を見て回る。規模も大きく表示板も整備されているが観光地としては今ひとつマイナーな場所であった。そこから唐津に抜け、自身2回目となる虹ノ松原を見てから202号線で東に向かう。途中で長浜にある元寇防塁跡を見に行き、この程度で防ごうとしたことを驚いたりするなど、2日間かけて日本と大陸の歴史を考え続けた。
 日没頃に筑肥編から4ヶ月ぶりとなる博多に到着し、天神方面に安いビジネスホテルを見つける。そこに荷物を預け、自転車で中洲の屋台へと向かう。3軒ほど梯子して気持ちよく帰ってきてホテルまで残り少しの路地で横から出てきた車を交わして転倒してしまう。右手の着き方が悪かったのかかなりの激痛がする。もしやと思って鎖骨をさわってみると折れているではないか。
 F島が駆け寄り「大丈夫ですか」と聞くので「大丈夫ではないがホテルまでは行ける」と答え、ホテルから救急車を呼んで貰い広瀬病院の世話になる。レントゲンを撮られ鎖骨バンドを貰いホテルに帰る。酔っているためそんな状況でもよく眠れた。
7日目 1994年5月7日
走行区間 福岡市ビジネスホテル〜博多駅
輪行区間 JR博多駅→JR巌根駅→自宅
走行距離 1km
走破市町村 0
累計数 2,696
 朝から広瀬病院に行き、痛み止めを貰い昨日持参できなっかた保険証を提示して清算を行う。14,560円であった。休日は明日まであるがもちろん走行を続けることが出来ないので帰路に付く。F島もここでの中断に同行してくれる。腕が自由に使えないため、輪行作業は彼にやって貰うが、袋を担いで連休の混雑した電車で帰るのは本当に辛かった。(次は西海編