No.91 奄美編      日本を走る ←No90伊吹編No92北越編→
旅行期間 1996年12月29日〜1997年1月6日 旅行日数:11日間
総走行距離 322km
走破市町村 17
同行者 F島 使用自転車:GT
総費用 169,090円 当時の年齢:32歳
初日 1996年12月29日
走行区間 自宅〜羽田空港:那覇空港〜那覇市那覇国際YH
輪行区間 羽田空港→那覇空港
走行距離 34km
走破市町村 0
累計数 2,916
 「今回は奄美諸島の計画を立てた。島々の移動には時間が掛かるから那覇に着いた日に与論に向けて出航という計画はどうだ」「え〜!私は初めての沖縄ですよ。せめて自由時間を1日下さい」と言うような調整が長引き、航空機の手配が遅れてエコノミーの早割が売り切れになり、贅沢にもビジネスクラスの早割36,800円で行く沖縄になった。
 木更津からフェリーで川崎に渡り、そこから自走して羽田空港に到着しF島と合流。昼の飛行機で那覇に到着。首里城見学の後は沖縄料理でまず1泊目。
2日目 1996年12月30日
走行区間 那覇市那覇国際YH起点日帰り
輪行区間 久米島空港→那覇空港
走行距離 32km
走破市町村 3(渡名喜,具志川,仲里)
累計数 2,919
 F島は南部の沖縄戦跡国定公園を巡りたいというので早速別行動になる。私は片道3,100円のフェリーで渡名喜島経由で久米島に行き、飛行機で帰ってくる案を立てた。課題は僅かに荷下ろしのための渡名喜港で一瞬だけでも島の上を走ることだが、船員さんの理解で2分程度の走行を果たす。
 船の航路図には鳥島米軍射爆撃場周辺のの制限・禁止水域(半径約五・五キロ)が目立つ。水は綺麗なリゾートでもオキナワで有ることを痛感する。
 船は具志川港に到着。上陸後は半時計回りに島を回る。日程調整が長引いたので久米島の事前勉強をしていないので地図に記載されたポイントを尋ねる。島の北側で登り切ったところが比屋定バンタで遠くはての島が見える。坂を下って上江洲家に寄って古い沖縄民家を見学して空港へ。離島の空港はローカル線の待合所のようで年寄りがぽつんと座っている姿などがよい。離陸20分前でも対応できるのも有り難い。空からはリーフやはての浜を見下ろせるし、那覇までの6,400円は遊覧飛行機代金と思えばそれほど悔しくもない。那覇YHでF島の帰りを待ち、昨日と別の居酒屋に行くのであった。
3日目 1996年12月31日
走行区間 那覇市那覇国際YH〜与論町与論YH
走行距離 20km
走破市町村 1(与論)
累計数 2,920
 大晦日に沖縄を後にして南西諸島の縦走を始める。早起きをして8:00出航の那覇与論間の船の乗船券4,050円と船で飲み食いする食事と麦酒を買う。午前中は4時間以上の船倉暮らしになる。
 高校2年の夏、私が北陸を走っている頃にY永がこの島を旅し、賑やかだったと言っていたが時は流れ飲み屋や売店の空き家が寂しく並ぶ島になっていた。狭い島なので直ぐに1周も終わりグラスボートなど乗っていると気怠くなり早めにYHに帰る。どうやら風邪を引いたようなのでF島に薬を買ってきてもらう。そんな体調のため、酒は控えめの年越しを同宿の7人で行う。
4日目 1997年1月1日
走行区間 与論町与論YH〜和泊町沖永良部荘
走行距離 24km
走破市町村 2(和泊,知名)
累計数 2,922
 朝食前にみんなで初日の出を見に行く。綺麗に水平線から上がる姿に感動して宿に帰り、正月モードの朝食を頂く。
 船は上り下りとも1日1便なので昼までダラダラと過ごす。もちろん元旦の新聞はまだ手元に届いていない。風邪を治すのには良いスケジュールかもしれない。
 昼の船で沖永良部までの乗船券1,330円を購入。南風が強いため伊延港に着岸する。F島に「離島の旅は船が着くまで解らない」と教える
 国頭小学校に日本一のガジュマルを見に行く。初代日立の木と言われているがどうやら違うらしい。同様に北海道十勝のハルニレの木も違うらしい。
 宿は公営のフローラルホテルえらぶ、に名称をいつの間にか変えた沖永良部荘に予約したが、名前だけでなく建物まで立派に変わっていた。この島にこれだけの施設が必要なのか、この施設を作ったことで旅館業を営んでいる人達の収入がどれだけ脅かされているか、などと考えながらそれぞれにシングルルームでのんびり羽を伸ばして寝る。
5日目 1997年1月2日
走行区間 和泊町沖永良部荘〜伊仙町民宿やまと
走行距離 41km
走破市町村 2(徳之島,伊仙)
累計数 2,924
 朝から時間はゆっくりある。大山に登って展望を望み伊延港に付いて徳之島亀徳港までの1590円の券を買って、お好み焼きと麦酒でのんびりする。入港40分前に「今日の入港は和泊港に成りました」とアナウンスが流れる。和泊港はここ伊延港から10kmも離れて居る!昨日の注意事項が、すぐさま実践に成ってしまうのはさすがである。急な全力疾走をして何とか間に合わせ、あたふたと徳之島に向かう。
 それにしても奄美の船の操舵技術は関東の船と比べ物にならないほど高い。あまり減速せず港内に入りピタッと停めてさっとタラップを降ろす姿に感動する。徳之島到着は日没も近い17:00。若干の夜走りをして民宿やまとへ向かう。
6日目 1997年1月3日
走行区間 伊仙町民宿やまと〜住用村民宿みどり
走行距離 46km
走破市町村 4(天城,瀬戸内,住用,宇検)
累計数 2,928
 民宿やまとは名前の通り大和慰霊碑の近くに有り、カラオケの騒音とすきま風が短所で、食べきれないほどの食材の鍋が長所の変わった宿であった。朝は腹ごなしに慰霊碑近くの海岸を散歩してからのんびり旅立ち。徳之島平野土港に早めに付き古仁屋港までの乗船券3180円を買って、12:30の出航まで時間が有るので空いている食堂に入り、簡単な昼食を頼むと正月料理しかないと言われ、豚の煮た物を中心にご馳走を味わい麦酒を飲んで980円で済ませてくれた。
 古仁屋着は15:00。58号線を北上すると峠の多い道。途中道をそれて宇検村にも立ち寄る。今夜頑張って名護に出ても仕方ないなと思い住用村の民宿に泊まる。夕食はまたも豚を煮た物であった。酒でも飲もうかと麦酒を頼むが民宿にストックがないと言うことで近所の酒屋を起こしに行く。既に周辺は真っ暗で静かなのだが午後8時頃の話である。
 やっとありついた麦酒を飲みながら読んだ南海日日新聞で、昔は琉球王朝に搾取される奄美、今は沖縄観光の前に沈む奄美の観光などの記事があり、内地から沖縄を見る目は単純ではいかんな、と思った。
7日目 1997年1月4日
走行区間 住用村民宿みどり〜喜界港→大島運輸フェリー
輪行区間 奄美空港→喜界空港
走行距離 125km
走破市町村 5(名瀬,大和,龍郷,笠利,喜界)
累計数 2,933
8日目 1997年1月5日
輪行区間 JR西鹿児島駅→JR木更津駅→自宅(輪行のみ)
 峠を越えて名護市に出たら海岸を一旦西に走り大和村に入りUターン。1日1便の船で喜界島に渡っていてはあまりに効率が悪いのと、奄美大島の自治体を走るには空港のある東端まで行かねばならないことで6,500円の空路を利用する。
 あわてて喜界島に渡ってしまったが「あやまる岬」は行っておくべきだったなと後ほど反省する。僧俊寛の墓などを観光して居酒屋に。所で俊寛が流されたのは喜界島か三島の硫黄島なのか良く解らないが鹿児島県はそれでも良いのだろうか。
 最後の喜界鹿児島間の船に8,700円で乗ると大勢の人が見送りのテープを投げている。正月の帰郷が終わり島を後にする多くの人と同乗していることでこちらまで感動してしまうのは焼酎が回っているからかも知れない。
 西鹿児島に着いたらJRで長い帰路に付く。特急つばめ、新幹線ひかりとも出発駅からの乗車だから自由席でも座れたが10時間の電車旅も辛いね。もっとも多くの人が5時間程度立ちっぱなしだったことに比べれば楽かも知れない。ちなみにJRの料金は木更津まで25,130円だった。(次は北越編