No.101 | 神津編 ←No100長崎編・No102中四編→ | |||||||
旅行期間 | 2001年3月16日〜2001年3月20日 | 旅行日数:5日間 | ||||||
総走行距離 | 75km | |||||||
走破市町村 | 3 | |||||||
同行者 | 無し | 使用自転車:GT | ||||||
総費用 | 51,570円 | 当時の年齢:37歳 | ||||||
初日 | 2001年3月16日 | |||||||
走行区間 | 自宅〜東海汽船・さるびあ | |||||||
輪行区間 | 袖ヶ浦BS→横浜駅前BS | |||||||
走行距離 | 8km | |||||||
走破市町村 | 0 | |||||||
累計数 | 3,135 | |||||||
年度末だが仕事が一息ついて4連休を取れる見込みが出てきた。この季節だから自転車で北には行けない。4日間という日数では九州や四国は辛い。スキーという楽しみも頭を過ぎるが長崎で気合いを入れてきたので自転車を選択する。 近所で暖かい場所として、長年先送りにしてきた伊豆諸島の走破を行う事にした。特に神津島の天上山に登りたいし、三宅島噴火や群発地震による客足の低下に対するエイドになれば誰かの役にも立てると自分を説得する。 出発は例によって夜。仕事を終えてから東京竹芝桟橋に移動するのは時間的に辛いが、幸いこの季節には週末横浜寄港の船がある。これならアクアラインバスで横浜まで行けば出航に間に合う。夜のMM21地区を自転車で走り、大桟橋で東海汽船が来るのを待つ。 船は混雑しているが難民船と言われる程では無かった。ちゃんと船室で寝る事が出来ただけでも東海汽船なら良しとしなければならない。 |
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2日目 | 2001年3月17日 | |||||||
走行区間 | 東海汽船・さるびあ〜大島町民宿舟吉 | |||||||
走行距離 | 17km | |||||||
走破市町村 | 1(利島) | |||||||
累計数 | 3,136 | |||||||
事前に東海汽船に利島の就航率を聞いたが70%程度で有ったと思う。この日は風が若干強かったが利島に無事寄港できた。20人近い人が上陸する。島の人口の約1割だ。自治体人口が少ない方から4番目の村だけ有って家屋も少ない。ちなみに3番目と2番目は青島編で行く御蔵島と青ヶ島で1番目が愛知県富山村である。 つばきの島を半時計回りに走り始める。港の反対側に南ヶ山園地という展望台があるが、空気の透明度も悪く新島が霞んでいる。時々パラパラと小雨も降るので予定していた宮塚山登山は止め、1周し終えて港に戻り、食堂で朝兼昼食を食べ、麦酒を飲んでゆっくり新聞などを読み帰りの船を待つ。 単純に南下するので有れば利島に留まり翌朝の船を待てばよいが、利島の就航率から計算すると、2日続けて船が着く確率は50%まで落ちるという事に気が付き、一旦大島まで引き返すこととする。運賃は余分にかかるが色々と変化がある事も魅力だ。 大島に着き、元町港の御神火の湯に水着着用で浸かり、のんびり岡田港まで移動してその夜は終わった。 |
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3日目 | 2001年3月18日 | |||||||
走行区間 | 大島町民宿舟吉〜神津島村民宿文佐丸 | |||||||
走行距離 | 16km | |||||||
走破市町村 | 1(神津島) | |||||||
累計数 | 3,137 | |||||||
翌朝4時起床、風は昨日に増して強い。南下する船を待つ者は少ない。薄闇の中到着する船に乗り、大島岡田港を出航し、しばらくすると利島港寄港断念の船内放送が流れる。昨日利島に留まっていたら今夜も利島泊かも知れない。場合によると連休中をずっと利島で過ごしたかと思うと自分の判断の正しさに感謝したくなる。 乗船時間も早いので朝食は船の食堂で取る。この船は新島港、式根島港に立ち寄るが今日は素通りして神津島まで行く。島に近付くと断崖と海の綺麗な島で、伊豆諸島も悪くないなと見直す。港は風の影響もあり集落から離れた方の多幸湾に着岸する。港には予約してある民宿の車が迎えに来ているが荷物だけ持ってもらい自分は自転車を組み立てて走る。 道路のあちこちに群発地震の傷跡が残る。宿に着き観光客も減少して大変でしょうと言うと、土産物屋は大変だが、復旧工事の関係者が大勢いるので民宿の売り上げは伸びているという。さらに楽しみにしていた大露天風呂も工事中で入れないと知り落胆する。あまりエイドになって居ないばかりかつまらない島に成るのではと複雑な気持ちで荷物を調え、天上山に登山する。すると山の世界が予想以上に素晴らしく、神津島が楽しく思えてくる。 下山後、寿司屋に立ち寄り島の魚を食べ、湯柱温泉に浸かって海岸をぶらぶらする。何故こちらに着岸しなかったのかが一目で分かるような大浪が堤防を叩いている。夕焼けが美しい。早めに民宿に帰りのんびりと島の夜を過ごす。 |
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4日目 | 2001年3月19日 | |||||||
走行区間 | 神津島村民宿文佐丸〜新島本町民宿 | |||||||
走行距離 | 18km | |||||||
走破市町村 | 1(新島本) | |||||||
累計数 | 3,138 | |||||||
朝食をゆっくり食べて居ると、本日の寄港は昨日と同じ多幸港というアナウンスが流れる。神津島港なら街中散策を直前まで出来るのだが、反対側ということで神津島空港ターミナルなどを見てから多幸港に向かう。途中の三浦湾の景色が気持ち良い。多幸湾でも目の前の崖や白い砂浜が美しく、夏に来ても良いなぁと思う。 船に乗船し北上開始。今日は昨日素通りした式根島と新島の走破である。行政体はどちらも新島本町なので片方の島に行けば充分なのだが、両島とも良い無料の温泉があることや、東海汽船以外にも町営の渡し船が有るので移動手段が確保できると判断し両方に行く。 手前の式根島で船を下り、まずは足付温泉に到着する。海パンでこの海中温泉に浸かり、充分暖まったら石の上を歩き、太平洋側で本当の海水浴を行う。水は澄んでいる。他の客は2人しか居ないが海で泳ぐ奴は居ない。寒くないかと聞かれるが、3月の海はそれほど冷たくない。寒さを覚えたら温泉で暖まり直すだけだ。 1時間近くいると飽きてくるので次の地鉈温泉に移動。谷間の温泉に着くと、入浴可能な低い温度の場所が無い。海水を上手く入れ、混合を重ね、やっと入れるようになるが直ぐに熱くなり早々と撤退する。カンビキ山まで往復し港に戻る。新島との間の3km近い幅の瀬戸が300年前の地震で生じたとはにわかに信じられないと思いながら、野伏港近くの食堂でラーメンを食べ、またも麦酒を飲む。 町営船で新島に渡り予約してある宿に行く。民宿組合の統一単価が2食付きで7,350円になっているが、これは東北の1.5倍近い値段で、特に新島はサービスが半分という気分がしてくる。詳細は記載しないが、東京の生意気な若造が沢山訪れるせいで、島の外の人間は金を運んでくるだけの存在だと認識しているのではと思える。 ともあれ新島温泉やガラスアートセンター、親水公園などの施設の質はかなり良いところなので、もてなしの心が整えば良い島になるであろう。 |
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5日目 | 2001年3月20日 | |||||||
走行区間 | 新島本町民宿〜自宅(輪行含む) | |||||||
輪行区間 | 大島空港→羽田空港→袖ヶ浦BS | |||||||
走行距離 | 16km | |||||||
走破市町村 | 0 | |||||||
累計数 | 3,138 | |||||||
今日は連休の最終日であるが夕方から会議に出席しなければならない。。その為には東海汽船を大島で降りて、それから飛行機とアクアラインバスを乗り継がなければならない。これによるコストアップも痛いが仕方ない。もっと急ぐ場合は調布まで飛んで、そこからJRで帰る手もあるが、驚くほど高くなる割に木更津まで帰る場合は決して早くない。 気持ちが急いでも新島に船が着くのは昼過ぎである。それまで東京百景に選ばれた新島羽伏浦を新島トンネル手前から見下ろし、砂浜でサーフィンやっている人達を見て、街中で土産のくさやを購入し、再度新島温泉に入浴して時を過ごす。 新島港で船に乗り、甲板に出るとテープを持って涙顔になっている若い子が3人居る。岸壁にはその反対を持ちながら頑張れよと声をかける大勢の子供達。どうやら高校を卒業し、島を出ていく友人を見送っているようだ。船が動き始めると先端の燈台まで走り、1人の男の子が飛び込む。3人の内の1人が有り難うと怒鳴る。嫌いになりかけた新島も良い所じゃないかと急に思えるから不思議である。 大島元町に着いたら船を下船。入れ替わりに大勢が乗ってくる。飛行機は2週間前に押さえてある。空港まで走り、あんこ椿の衣装をした空港職員に自転車を預けて飛行機に乗る。羽田からバスを乗り継いで木更津に帰り、自宅で着替えて乗用車で会議に向かうのであった。 なお、新島で買った「くさや」をS井への土産に渡し、社宅で彼の女房が焼いてしまったから、さあ大変というおまけがこの旅の話しに付いている。(次は中四編) |
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