No.100 長崎編      日本を走る ←No99洋上編No101神津編→
旅行期間 2000年12月28日〜2001年1月4日 旅行日数:8日間
総走行距離 651km
走破市町村 30
同行者 無し 使用自転車:GT
総費用 136,598円 当時の年齢:36歳
初日 2000年12月28日
走行区間 自宅〜夜行寝台・はやぶさ
2日目 2000年12月29日
輪行区間 JR巌根駅→JR柳井駅、JR田布施駅→JR徳山駅
走行区間 柳井駅〜宇佐市かんぽの郷宇佐(輪行1回含む)
走行距離 100km
走破市町村 2(上関,姫島)
累計数 3,107
 12月26日の青年会議所の会計監事監査が書類不足により通過せず、次回日程を29日に指定されてしまった。専務理事という立場では同席せねばならないが既にはやぶさの寝台も押さえてある。会計担当者だけ来ればよいからと許しを得て世紀越えの旅に出発できる。
 28日の仕事納めを早めに終えて、準備済の荷物と自転車を持って巌根駅から出発。もう夜行列車も慣れてしまっているので缶ビールでも飲めば直ぐに就寝だ。
 29日の朝6:23に柳井駅到着。もちろん夜明け前である。九州に行くのにこんな所で下車するのは山口県に残る6町村のうち、上関町に行くためである。ライトアップされた柳井の街並みを味わってから気温一桁の中を走り始める。上関町に入る頃夜が明ける。太陽の暖かさを実感する。島に渡らなくても走破は済むが歴史に敬意を表して橋を渡る。物流の変化が上関町と下関市の活力差を生じさせたなどと考えながら島を後に田布施駅を目指す。柳井の次の駅である。
 計画では8:45の電車で徳山駅に9:15に着き無理矢理9:30の船に乗る予定だったが体が冷えて速度が上がらず、結局田布施で乗り遅れる。どうせ徳山の乗り換えも難しかったから構わないか、と自分を納得させる。しかし次の船は正午なので2時間以上も徳山で時間が余る。温泉でも行こうと観光案内で情報を聞くと近くない上に営業開始が11時なので再度乗り遅れる可能性もある。仕方ないから朝と昼の兼用の食事を取り日溜まりでのんびりする。
 九州には14時に上陸。すぐさま45分後に姫島に向かう船の出る伊美港に向かう。姫島には僅か15分だけ滞在し、伊美港に帰ってきたときには既に15:40で日も傾き始めている。宇佐神宮の参拝は日没後となり、暗くなり始めたし、宿は素泊まりなので宇佐市街のファミレスで夕食を取る。
 予約してある「かんぽの郷宇佐」に着いたのは夜明け前から動いているのに午後8時を回っていた。素泊まり6,345円とビジネスより高いが簡保施設らしく温泉の設備がとても良い。冷え切った体を温め簡易保険料の一部でも取り返すのであった。
3日目 2000年12月30日
走行区間 宇佐市かんぽの郷宇佐〜小国町杖立くきた荘
走行距離 118km
走破市町村 4(院内,安心院,小国,前津江)
累計数 3,111
 今日は昨日のように船や電車の時間に左右されないと言うのが気が楽である。それでも朝7時半には出発し、387号線を南下しながら朝食を取れる店を探す。道の駅いんないなら有るかと思ったが時間が早い。それほど空腹感もないので周辺の石橋などを見てどんどん進む。流石に空腹がきつくなってきた頃、分水嶺を越えて玖珠の街中への下り坂になる。鳥天定食を食べ空腹感を拭ったら387号線を南下し、秘湯の噂を聞く壁湯に入浴する。時間が有るとはいえ昼間から温泉に入るとは自転車の旅では贅沢である。他にも岳湯やはげの湯などにも行きたいのであるが、今夜は杖立温泉に泊まることもあり、それは別の機会に譲る。
 県境を越えて小国に入る。街中をショートカットしようと入った道がどうやら広域農道だったらしく、標高を維持したままだし、方向も杖立と別のようだ。道を聞こうにも誰も歩いているような人は居ないしたまに通る車は結構な速度で停めてられない。
 横道に直感で入り、細い急坂やダートを駆け抜け杖立に降りる。宿に着いたのは予定より1時間近く遅れてしまったがまだ午後4時前である。これで終わりなら何でもないが、今日のうちに前津江村境界までのピストンをしておかなければならい。
 身軽になって赤石小学校曽家分校前の境界を目指す。行きは松原ダムから駆け下るので最初の内は勢いがある。しかし国道から離れ細い道を登るとまだかと心配になり、その内実は通り過ぎたか、などと心配になる。谷は深く既に暗い。心が折れそうになる頃、植物に隠れそうになっている境界を発見。少し奥まで走りUターンし、今度は全力で宿を目指す。ダムサイトへ登りだって立ち漕ぎで飛ばしていく。しかし今夜も日没後になってしまった。温泉街の夜景が綺麗だからこの時間になったのも悪くないと自分を説得する。ハードに走った後の温泉は気持ちが良く、晦日の夜は年末の特別番組も程々に早めに寝てしまうのであった。
4日目 2000年12月31日
走行区間 小国町杖立くきた荘〜長崎市BHアイビス(輪行1回含む)
輪行区間 JR吉野ヶ里公園駅→JR長崎駅
走行距離 103km
走破市町村 8(中津江,上津江,矢部,黒木,三猪,大木,城島,三根)
累計数 3,119
 早出のために朝食を7時前に作ってもらったのに、清算の段階で40分も戸惑い、結局出発は8時となってしまった。その為少しでも早いほうがよいかと松原ダム堤体を通るコースをショートカットして下筌ダムに直接抜けるアップダウンと屈曲の多い道を通り、まさかカメルーン誘致で有名になるとは思っても居ない中津江村に入る。新池ノ山橋を渡り上津江村に入り対岸を少し走り元に戻る。これで九州では最初となる大分県走破完了である。それにしても前・中・上の津江は合併してしまえば良いのに、と思っていたが全て日田市になってしまうとは思わなかった。
 442号で想像以上に辛かった竹原峠を越えて福岡県に入る。この峠のピークでさらに高い峠越えが必要な星野村に入ることを諦め、谷沿いを下って行くだけになる。また、この辺りを走りに来る事になるのか、と諦めるときの敗北感は何とも言えない物がある。矢部川に珍しい木のトラス橋(?)等が有り、それが敗北感を癒してくれる。
 八女市で第3セクター経営のべんがら村という温泉に入り、20世紀中に全都道府県の温泉に入浴終了、という余分な記録を確立する(ちなみに376湯目)。その後は筑後川の両側に取り残した小さな自治体を虱潰しに走り抜け長崎本線の吉野ヶ里公園駅から長崎駅まで輪行する。予約していた特急より1本前に乗れ、その上指定の変更も取れたのは幸運である。しかし、事前予約が取れていなかった野母商船に電話を入れ、2日夜の「太古」で宇久から生月までの予約を取ろうとすると、その日だけ運行が正月休みと知る。自分の迂闊さに反省しながら、電車待ちの時間を使って、駅の時刻表を相手に計画変更をバタバタと行う。
 長崎ではあえてYHに泊まらずビジネスホテルを取り、孤独に21世紀に突入という状況を調える。日も暮れた中華街で中華料理と紹興酒を楽しむが周囲は家族連れや恋人達ばかりである。年越し蕎麦に長崎チャンポンを食べてホテルに紅白の後半戦を見に戻る。紅白終了後、近くのカウントダウン会場に行って人混みの中で自分と向き合いながら新世紀を迎え、強くあれと鼓舞する。
5日目 2001年1月1日
走行区間 長崎市BHアイビス〜大村市セントラルホテル(輪行1回含む)
輪行区間 JR佐世保駅→JR大村駅
走行距離 79km
走破市町村 4(伊王島,高島,大島,崎戸)
累計数 3,123
 ホテルに帰り5時間程度寝て、夜明け前に街に出る。元旦の空は綺麗に晴れ風もない。21世紀の最初の仕事が走破という事で、始発の伊王島行きの船に乗る。船上で初日の出を迎え、コンビニで買った朝食を食べる。
 今回の旅は、ちょうどNo.100になる上、世紀越えにもなるから記念に残る場所を選ぼうと考えた。未走破地帯の周辺の中で冬を越せる場所として絞ると那覇か長崎になったのであるが、残数が多い長崎を選んだ。結果として天気も良く、街の年越しイベントも賑やかで選択は良かったが、逆に単独行の寂しさが際だってしまったな、などと朝から思っている内に伊王島に着く。
 島について最初に馬込教会に着くが、初詣に教会というのは何かな、と思い参拝せずに時計回りに島を回る。灯台の建つ丘の上で海を眺め、船の時間を待つ。
 次の船で高島に渡り、上陸して直ぐに長崎行きの切符を購入。高島は乗船場の周辺50m程度を走っただけで長崎に帰る。原爆記念碑に寄って今世紀以後は原爆を使用しなくて済む世界になりますように、と祈る。
 ここから大村湾の西岸を北上し、オランダ村の正月の雰囲気を遠く眺め、川内から岡を越えて太田和に抜けて大島大橋に至る。この有料道路が出来たお陰で、寺島、大島,、蛎裏島を経て崎戸島まで走れるようになったのが有り難い。
 大島で佐世保行きの船の切符を購入し、待合室に貴重品以外の荷物を置いて、崎戸島まで往復する。崎戸島の国民宿舎の温泉は通称「狸の湯」と言うらしく、狸をシンボルとする街の出身者として妙に親近感を持てる。遠く見える島々も綺麗である。大島に帰り、船までの時間に茶でも飲もうかと思うと、長崎大島醸造という島の酒屋が地ビールを作っていることを知り、小さな島で頑張っている姿勢に共感してビールタイムになってしまう。
 佐世保に上陸して焼き魚定食とビールを頼む。もう日も暮れたのでこの辺で泊まりたいところではあるが明日の飛行機の時間が早いので大村市のビジネスホテルを予約して輪行して移動。宿に着いたのは今夜も真っ暗になってからである。この夜の初夢に何を見たのかは全く覚えていない。
6日目 2001年1月2日
走行区間 大村市セントラルホテル〜平戸市BH平戸(輪行1回含む)
輪行区間 長崎大村空港→小値賀空港
走行距離 64km
走破市町村 4(小値賀,宇久,吉井,世知原)
累計数 3,127
 朝6時半にホテルを出て空港に向かう。簑島大橋を渡り、ターミナルで輪行する。この長崎空港から小値賀空港間を飛ぶ9人乗りのプロペラ機に、はたして輪行した自転車を載せることが出来るか、という事が大きな問題だった。航空券を取るときに大丈夫でしょうと確認はしていただいたが他の客の大きな荷物が先に入って締まった場合はどうかと心配になり搭乗1時間前に手続きをしてしまう事になる。幸いこの日の乗客は4人だけで自転車を断られずに済んだ。なお、これ以降の旅で、東京都青ヶ島のヘリコプターや沖縄県多良間島への飛行機で輪行袋の持ち込みを断られる事例が発生する。全ての定期空路が自転車を持ち込めるわけでは無い。
 飛行機はワンボックスカーに羽が着いた程度の大きさので、少し体を動かすだけで両側の窓から下が見えるという楽しい思いをする。特に昨日の大島大橋が下に見えたときは感動物であった。後ろを振り返れば室内に荷物の自転車も見える。着陸時には横風にあおられバンクするが見事な着陸をする。遊覧飛行と思えば船との運賃さも安いものだ。
 小値賀島と斑島を観光した後で柳港に行く。町営船が宇久島の神浦港を運行しているはずだがその姿が無い。宇久町役場に電話してみると風のため今日は欠航と言われる。港で困って居ると、船の準備をしてる人が居る。話を聞いてみると親戚を訪れ宇久に帰る所だというので乗せて頂く。確かに良く揺れる。謝礼は断られるが油代だけでもと2000円を払う。
 当初計画では野母商船の「太古」でここから生月に行くつもりだったが、2日が欠航であるため佐世保まで高速船を使う。欠航は元旦便だと勘違いしていたのだ。そのため宇久島を観光する時間もなく港に着き、直ぐに輪行する事になる。高速船の中では佐世保港まで熟睡する。佐世保着が3時半なので平戸まで走ることにして宿を予約する。その後、名物のハンバーガーショップを探すが正月から営業している店を探せない。仕方がないと204号線を北上していたら思うほど速度が上がらず、今夜も日没を迎えてしまい、ライトアップされた平戸大橋を渡って6時過ぎの宿に着くのであった。正月2日から空いている数少ない居酒屋に入り、夕食と酒を飲む。他の客は久しぶりに故郷に帰った親戚や友人との交流を行っているようであった。
7日目 2001年1月3日
走行区間 平戸市BH平戸〜福島町つばき荘
走行距離 96km
走破市町村 5(生月,大島,鷹島,肥前,福島)
累計数 3,132
 午前6時起床。平戸ではまだ夜中であるが太古の休航によって取り残してしまいそうになっている生月町を走ってこなければならないので言葉通り朝飯前の仕事を行う。幸い生月大橋の架橋が終わっているので陸路の時間制限はない。
 フロントバックにカメラとタオルだけ入れて全力で橋の対岸まで走る。橋を渡りきるとかなり登り直さないといけないので、瀬戸を渡って目の下に陸地が広がってきたら橋上でUターンして帰る。トンネル内で引き返した関金村のようだとも思う。
 往復で1時間少々で7時半の朝食に間に合う。この時間なら的山大島行きの9時の船に充分ゆとりがあるので簡単な平戸観光を15年ぶりに行う。基本的には有る程度の距離を走らなければ失礼だと思っているので、大島の神浦港で降り、その船が荷物の積み卸しをして的山港に着くまでの間に自転車で的山港まで走る。美味そうな烏賊の干された的山港に帰りの船が入るまでにお茶を飲み終えて汗を引かす位の時間はあった。
 平戸から今福まで走りフェリーで鷹島の殿ノ浦港まで渡る。元寇の激戦地に敬意を払い、島の観光スポットであるモンゴル村まで走り、外側から写真撮影を行い土産物屋を見学するが、結局入場することなく日比港に駆け下り、九州本土の佐賀県側である星賀港に渡る。長崎編の船はここで打ち止めである。通算13回の乗船であり長崎は本当に船との戦いであった。
 星賀から204号線に出て、一部ショートカットしつつも南下を行い、宿泊地である長崎県福島町にある公営宿舎のつばき荘に行くため、県境の瀬戸に懸かる福島大橋を渡る。対岸に着いた段階で、自ら難攻不落と恐れていた長崎県を走破完了となる。今日は何とか明るいうちに宿に到着出来た。宿泊客はそれほど多くないようだ。ここでは数日ぶりとなる温泉大浴場でのんびり足を延ばして揉みほぐし、最終日となる明日に備えるのであった。
8日目 2001年1月4日
走行区間 福島町つばき荘〜福岡空港
輪行区間 福岡空港→羽田空港→自宅
走行距離 91km
走破市町村 3(七山,富士,三瀬)
累計数 3,135
 今回の旅は連日早出なので、初めて時間に注文を付けない朝食を食べて、ゆっくり8時半に出発する。唐津から323号線で山間に入り、観音峠を越えて古湯温泉に降りる。原因は忘れたが入浴を何故か取りやめ、263号線で北上をする。先ほどと同じ名前の観音峠を越えて三瀬村に入れば佐賀県走破完了である。これで福岡県の一部を残して北九州はだいたい片づいた事になった。
 県境は三瀬トンネル有料道路で抜け、下り坂で指先とかが寒さで麻痺しそうになりながら海岸まで走り抜ける。変わり行く福岡をよく見ようとシーサイドももちや福岡ドームを見てから空港まで走り、自転車を輪行し通路の死角にチェーンキーで縛ってから地下鉄で街中に繰り出す。
 帰りの飛行機まで4時間以上も残しているので、それを走る時間に当てるのではなく天神や中州で新世紀を祝うように福岡名物を贅沢に飲み食いを行って、北陸編全体以上の支出してしまう。今から振り返ると志賀島や玄海島への往復でもしていればと思うのだがよほど船に飽きていたのであろう。もちろん帰りの飛行機はシートベルトを付けたら直ぐに寝てしまい、気が付いたら羽田だった。夜のアクアラインバスで新世紀になった木更津に帰っていくのであった。(次は神津編