No.108 | 走破編 ←No107沖縄編 | |||||||
旅行期間 | 2004年4月29日〜2004年5月7日 | 旅行日数:9日間 | ||||||
旅行日数 | 9日間 | |||||||
総走行距離 | 192km | |||||||
走破市町村 | 1 | |||||||
同行者 | 無し | 使用自転車:GT | ||||||
総費用 | 187,963円 | 当時の年齢:40歳 | ||||||
初日 | 2004年4月29日 | |||||||
輪行区間 | 自宅→袖ヶ浦BS→羽田空港→鹿児島空港 | |||||||
走行区間 | 鹿児島空港〜国分市シティホテル国分 | |||||||
走行距離 | 24km | |||||||
走破市町村 | 0 | |||||||
累計数 | 3,253 | |||||||
39歳の時には忙しくて出かけられず、40歳の大台に到達してしまったGWに、いよいよ最後の走破の旅へ出発した。いつものようにアクアラインをバスで渡り全日空で鹿児島空港に入る。吐喝喇行きの船が出るのは30日の深夜なので明日の飛行機でも充分間に合うのであるが、全日空の超割のチケットがこの日しか取れなかったことと、最後の旅には余裕を持って臨みたかったのである。 羽田空港13:30発のANA625便で15:30に鹿児島空港に到着する。自転車を組み立てゆるりと走り始める。最初に野天が有名な平落温泉に行きガードレールに自転車を立てかけて一風呂浴びる。国道を通過する車からも良く見えてしまうが気にしない。天気も良く風も爽やかで最高の気分である。次いで犬飼の滝を見てきて妙見温泉の和気湯に浸かる。こちらも無料である。歩いた汗を直ぐ流せるのが気持ちよい。温泉に2箇所も入りながら宿泊は温泉のあるシティホテル国分である。 夕方に宿に着き、黒豚を食べさせてくれる店を教えて貰い『いちにいさん』という店に行く。敷居の高そうな店ではあるが今日は特別とな日だと自分を奮い立たせて暖簾を潜りカウンターに座り、豚しゃぶと生ビールと芋焼酎を頼み、1人で日本走破の前夜祭を行った。 |
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2日目 | 2004年4月30日 | |||||||
走行区間 | 国分市シティホテル国分〜フェリー十島 | |||||||
走行距離 | 78km | |||||||
走破市町村 | 0 | |||||||
累計数 | 3,253 | |||||||
この日の夜に吐喝喇行きの船に乗船するので、それまでの時間を利用して九州の軌跡の空白となっている国分から福山間や桜島の周辺といった未走破部分の走行を行う事にする。幸い天気も薄曇りで走るには良い陽気である。 ホテルから国分IC方向に走り、それから220号線を南下する。『死都日本』を読んでここが大きな姶良カルデラの外輪山と知ってから、火の国九州という実感が迫ってくる。南下に伴い桜島がだんだん近付いてくる。今日は機嫌が良いようで噴煙が殆ど上がっていない。火口淵の頂がくっきり見えて登山意欲を喚起する。桜島は日本200名山の一つなので安全になったら登りたいと思うが常に元気なこの山に安全宣言が出るとも思えない。 1914年 1月29日の大噴火で瀬戸海峡を閉塞して九州と地続きになったところが桜島口で、薩摩編ではここから都城に向かって走っている。九州編で泊まった桜島YHの有る桜島港周辺と軌跡がつながっていないし時間もあるので島の一周を行うことにした。黒神で埋設した鳥居に寄り、ここまでに見てきた多くの避難所や避難するための道路橋新設などを考えると財産権を尊重するあまり危険地域に居住を認める政策を続けることが良いのかという疑問も生じてくる。 桜島ビジターセンターを見学しながら十島村役場船舶課に船の予約の電話を入れると当日予約は受け付けないと言われる。一ヶ月前に電話したときは予約しなくても当日に連絡を貰えば大丈夫だと言われたと答えるが、今日は切符を買って貰わねば成らず、連休前なので混雑しているし定員以上は乗せないと注意を受ける始末だ。切符売り場は対岸の鹿児島なので切符を買うために船で往復するか迷う所であるがまだ午前中でもあり、島の一周を終えて垂水から鹿児島に戻って切符を購入することに決める。そうすると垂水と鹿屋の間が切れるが仕方ない。 垂水まで走り、船までの時間を利用してファミレスのJoyfullで昼食を取り鹿児島鴨池港へ渡る。フェリー十島の出る桟橋まで走り中之島までの切符を購入する。既に満席近いと言われ運の良さを実感する。さて船に乗船するまで6時間も残っているが、もう走る気が失せてしまったので公園で本を読み、温泉銭湯に行き、麦酒を飲みながら薩摩ラーメンを食べ、コンビニで麦酒や焼酎を購入して早めに港に戻る。ライトアップされた帆船が美しい。切符売り場では釣り客が満席だと断られている姿を見て渡ることが出来るだけでも成功と考えることにした。船は23:50出港なのでその前に寝てしまったようである。 |
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3日目 | 2004年5月1日 | |||||||
走行区間 | フェリー十島〜十島村海遊館倶楽部 | |||||||
走行距離 | 27km | |||||||
走破市町村 | 1(十島) | |||||||
累計数 | ||||||||
4日目 | 2004年5月2日 | |||||||
走行区間 | 十島村海遊館倶楽部起点日帰り | |||||||
走行距離 | 10km | |||||||
5日目 | 2004年5月3日 | |||||||
走行区間 | 十島村海遊館倶楽部起点日帰り | |||||||
走行距離 | 0km | |||||||
6日目 | 2004年5月4日 | |||||||
走行区間 | 十島村海遊館倶楽部〜フェリーありあけ | |||||||
走行距離 | 3km | |||||||
明け方に目が覚める。どうやら船が口之島に入港したようだ。私の降りる吐喝喇列島中最大の中之島はこの次の島である。気分が高まり十島村の姿を見るために上甲板に上がる。すっきりしない天気ではあるが雨には成りそうもない。 6:55に中之島港に到着する。船のロープを受け取る人もタラップを架ける人も全て島の人のようである。吐喝喇列島中、この島だけにいる警察官もタラップ架けを手伝っており離島に来た実感がこみ上げてくる。輪行袋を抱えて船を下りる。すぐに今夜泊まる海遊館倶楽部の迎えのワゴン車が待っている。宿は標高200mの高台に有るから登るのも大変ですから輪行袋を乗せて行きませんか、と言われるが何よりここで走るのが最大の目的だったので着替えの入ったザックだけを運んで貰い自転車の組立を始める。そしてペダルを踏み込みタイヤが動き、日本完全走破を達成する。 3254市町村目 鹿児島県鹿児島郡十島村 走り始めて直ぐの役場支所にある「汽船もまた道路なり」の碑の前でキャンプに来ていた学生に写真を撮って貰う。このために作ってきた走破記念書を広げるとそれを見て感動した学生に握手を求められる。何とも言えない深い満足に包まれる。 私の3,254市町村への28年にわたる戦いはこれで終わるが、その間に道路や橋梁の整備、コンビニやホテルの充実、航路や空路の安定化など旅を行いやすくする多くの変化があった。それは日本の成熟に向かう課程であり、最近から開始すればもっと楽に達成できるだろうと思う。また市町村合併が進み、基準時を2006年に置けば1,810市町村で全国走破が終わる事になる。私にしても自分が生まれた頃に終了した昭和の大合併を基準時とすれば3,472市町村であり、218の消滅した自治体の過半を私が走っているとは思えない。 それでもその与えられた時代背景の中で一所懸命に頑張り、全ての日本人の故郷の街を走ったことがあるという自信はどう表現して良いか解らないほど強く私を形作っている。私の記録が今後もこのような事に挑戦する人達への何かの手がかりになればと思う。 走破の戦いは終わってもまだ旅が終わったわけではないので先を続ける。 港から宿のある高台まで曲がりくねった細い道を登り、急に開けた牧草地帯に出る。右手には天然記念物の吐喝喇馬が遊び、左手奥には九州最大級の60センチ反射望遠鏡の有る天文台が見えている。歴史民俗資料館の前に第二次大戦後の米軍軍政から本土復帰を果たしたときの記念碑があり、そこで再度記念写真を撮る。そしてiモード圏内なのに驚きながらもS井、K藤、F島に達成のメールを送る。 宿に着き御岳登山に行く。この辺りの詳細は登山記録を参照してもらいたい。 山から帰ってから宿で昼食を食べ、T谷夫婦と別れて自転車でヤルセ灯台に向かう。周囲は牧場と椰子の木で南国ムードが広がり横になって本を読んでいるとT谷さんも到着する。灯台からの帰り道ではダイビングを終えた人達のワゴンともすれ違う。行くところが少ないから直ぐに一緒になってしまうのだ。夕食を取ってから登山した4人で天文台を訪問する。あいにくの曇りで星は見れなかったが若い館長さんから色々と話を聞くことが出来て楽しかった。 宿は男女混成の相部屋で若い娘も2人居て最初は気を使うが夜の宴会で一気に仲良くなり3泊を気持ちよく過ごせた。なお、宿泊者はバードウオッチ2名、ダイビング10名、旅行4名(私を含む)という構成だったと思う。 2日には昨日一緒に登山をした青年が1泊で帰る以外は全て前日通りである。私も今までなら1泊で帰ったであろうが離島をのんびりする贅沢を味わうことにした。この日は体験ダイビングを行う予定だったが前夜に水中世界の話を沢山聞いたり見たりので楽しみになる。このために写るんです水中を買ってきたが、皆はデジカメをハウジングに入れて撮影していた。この日は波が高く、浜から歩いて潜りに行き、ボンベを背負っての歩行の大変さも味わうことになった。水中の浮遊間はシュノーケリングとは別の楽しさが有り、水の抜群の透明度も有って気持ちよかった。 宿で昼食を取っているとT谷家が北部探検から帰ってきたので一緒に歴史民俗資料館を見に行く。資料館の館長は天文台の館長の兼務である。吐喝喇馬の取材が来ても館長さんが対応するという、学術的な一切を担当している様である。巨大な天文台で自由に観察できる幸せさと離島の雑事を秤に掛けると難しいだろう。 夕方の温泉に車で行き、1日に30分だけ営業する売店で麦酒を買って帰る。この日は夕食後から宴会になり記念写真を撮ろうという話になって私が例の紙を広げて写る。それによって同宿の皆がこの記録を知ることになり盛り上がった。 3日は朝から曇っていた。弁当を作ってもらい灯台の近くの海岸探検に出かけ海辺で本を読んで過ごす。離島も3日目にしてやることが無くなってきた。夕方は温泉に入って売店が開くのを待っているとか、昨日と一緒の日々である。夜には明日帰る4人の為に一段と宴会の時間が長くなり、住所やアドレスの交換を行う。 4日は5時半に起床する。小雨が降っているので宿で輪行し乗船するT谷夫婦とN原嬢とともに港まで運んで貰う。乗るのは名瀬に向かう船で、これで吐喝喇の島々を見ながら梅雨入りした奄美大島まで行き、そこから鹿児島に帰ろうという計画である。着岸した船にタラップを架けている1人が館長さんだと気づいて驚く。 見送りに手を振って答え船は南に進む。一度船室に行くが島が近付く度に男2人は甲板に上がり島見物を行う。T谷さんもゼネコンの技師なのでどの島にも生コン工場が有ることに着目するとか、考えが近くて楽しい。悪石島では着岸すると子供達が乗り込み、暫くしてアイスを片手に船を出てくる。この船は移動する商店でもある事に気づき思いを深くする。宝島では噂の巨大壁画を楽しんだらいよいよ船は吐喝喇を離れ名護に向かう。8時間以上の船の旅を名護で終えて皆とは解散する。 直ぐに鹿児島行きの船を取ろうとするが満席で断られる。頭を切り換え本日の志布志経由東京行きを確認してみると空きがあるというのでそれを予約し、名護市内で買い物をしてとんぼ返りで梅雨前線から離れていくことにする。 |
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7日目 | 2004年5月5日 | |||||||
走行区間 | フェリーありあけ〜水上村レンタカー車中 | |||||||
輪行区間 | 垂水BT→鹿児島空港 | |||||||
走行距離 | 50km | |||||||
8日目 | 2004年5月6日 | |||||||
走行区間 | 水上村レンタカー車中〜牧園町旅行人山荘 | |||||||
9日目 | 2004年5月7日 | |||||||
走行区間 | 牧園町旅行人山荘〜自宅 | |||||||
輪行区間 | 鹿児島空港→羽田空港→袖ヶ浦BS | |||||||
5日朝に志布志港に上陸する。名瀬とは違いこちらは爽やかなGWの空が広がっている。他のお客が待合室で始発のバスを待っている横で自転車を組み立て垂水までの約50kmを走る。もう自治体の境界などを気にせず、好きなように走って良い状況というのは重い荷物を降ろしたように楽な気持ちである。 志布志に上がったことで4月30日に諦めた鹿屋から垂水までの間の軌跡をつなぐことが出来るので垂水まで走って終わりにしようと決め、朝飯前の一働きを行う。50kmを走り垂水市内に入ったら朝風呂として浜平温泉に入り、1週間前に割引券を貰ったjoyfullで朝食を食べ、バス輪行で鹿児島空港に行く。ニッポンレンタカーの待合室の片隅に自転車を預けて自転車の旅を終了する。 自転車を預けてもまだ今回の旅が終わったわけではないので先を続ける。 レンタカーで熊本県水上村に行って車中泊をし、6日には市房山や霧島大浪池に登山してきて空港に近い霧島温泉郷で施設の評判がよい旅行人山荘に泊まった。温泉の質感や食事の内容などに満足するが、逆に良すぎると1人で居るのが寂しくなる。この満足度は誰かと分かち合いたいものである。 7日の朝にレンタカーを返し10:00の鹿児島発の飛行機で羽田に11:40に到着し直ぐにアクアラインで木更津に帰り、昼からの仕事に復帰するのであった。 記録を整理しながら振り返れば、支えてくれた家族や友人、仕事先の人々を始め旅先で出会い助言やアドバイスをくれた多くの人達、社会資本整備を進めた多くの人々、さらにはそれを税金で支えていただいた全ての人の存在に気づかされる。走破の記録を終えるにあたりそれら全ての人々に感謝を捧げたい。 |