No.107 沖縄編      日本を走る ←No106鎮西編No108走破編→
旅行期間 2002年12月28日〜2003年1月7日 旅行日数:11日間
総走行距離 425km
走破市町村 7
同行者 無し 使用自転車:GT
総費用 234,617円 当時の年齢:38歳
初日 2002年12月28日
輪行区間 袖ヶ浦BS→羽田空港→那覇空港→名護BT
走行区間 名護BT〜伊是名村まえだ旅館
走行距離 24km
走破市町村 1(伊是名)
累計数 3,247
 沖縄の離島自治体を全て走破しきるための戦いを年末休暇を利用して行う。しかしせっかく沖縄まで行くのだから全て走破に当てるのでなく前回見落とした場所を少し回っておきたいという思いもあり、また沖縄の最後には多良間を当てたいという気持ちもあり、北側から回ることにした。
 例により朝1番のバスで東京湾を渡り、6:55の飛行機で9:40に現地入りする。今回はさらに那覇空港からの10:30の高速バスを使い名護BTまで一気に移動する。12:15に名護へ着いて自転車を組み立てて走り始める。
 今回は小さな島を回るため離島情報を名護で購入しようと思っていたので通常の25万分の1地図を持ってきていない。本屋に立ち寄ると残念ながら離島情報が無いため仕方なく分県地図を購入し、沖縄そばを食べてから運天港まで走る。
 伊平屋と伊是名のどちらかに1泊する事になるので人口の多い島の方が宿泊施設も酒屋も充実していると考え伊是名島に15:30の船で渡る計画にした。なお、伊是名と伊平屋の間は民間渡船があるという情報をネットで入手していたので、それを朝1番に利用する前提で考えると、翌日に訪れる島の方が走行時間が長くなるので、面積の大きい伊平屋を後に回すのも合理的である。
 16:30に伊是名島に到着しターミナルから予約した旅館に荷物を預けて日没までの観光を始める。琉球王統第二尚氏の始祖尚円王がこの島の出身だとは勉強不足で知らずに、その親族を埋葬した伊是名玉御殿に着いて由緒正しい雰囲気に打たれる。その御殿の有る伊是名城を一望できる二見浦の展望も良く、その先の公園も石灰岩の石積方法が曲線を多用する琉球式で感心する。勢理客集落の石垣にを見ている内に暗くなり始め、時間が足りないと後悔する。
 暗くなった道を旅館まで帰り、明日の朝の船を予約する。伊平屋の船なので北の内花港に朝9時に迎えに来てもらうよう約束をする。仮に渡船を利用しないと明日朝の船で運天港に帰り午前の便で伊平屋に渡ることになる。滞在時間40分で運天港への折り返しが出来るがそれでは伊平屋を味わうことが出来ない(今まで直島や姫島など味わっていない町も沢山ある)。その上、フェリー代の合計が渡船の費用より800円高くなるのだから渡船の利用は極めて有効である。
2日目 2002年12月29日
走行区間 伊是名村まえだ旅館〜名護市キャッスルホテル
走行距離 64km
走破市町村 1(伊平屋)
累計数 3,248
 距離で考えれば15分も走れば着くと思うが道を迷う可能性があるので朝8時に出発して内花港を目指す。約束の時間に入ってきたのは漁船程度の大きさの船。これで5,000円という事は過去の甑島での謝礼が適正な金額であったことを証明したようで心がスッキリする。
 伊平屋に向かいながら海を見るが本当に澄んでいる。南部の野甫港に上陸し、北上を開始する。帰りの船は13:00なので3時間半の走行が可能である。最初に新橋工事中の野甫大橋を渡り伊平屋島に入るが橋から見た珊瑚礁も素晴らしい。夏にこの島に来ると気持ち良いだろうなと思う。
 島を北上し、船の乗り場も通り過ぎ島の北部にある巨木を中心とした念頭平松公園やクマヤ洞窟などの観光をして回る。途中の畑では菜の花が綺麗に咲いており沖縄の暖かさを実感する。伊平屋港に帰り、出航まで若干の時間があったのでターミナルでもずく蕎麦を食べ麦酒を飲む。残る日本は6村だけである。
 14:20に本島に戻る。今夜の泊まりは名護市に決め運天港から予約の電話を入れる。その公衆電話の横に張ってあったチラシが『とまりや』の広告で素泊まり2,000円の料金にクラッと来て電話番号と住所を控える。名護までの間に時間があるので屋我地島に橋で渡りマングローブを見て、昨日気になったソーキそばの発祥店である我部祖河食堂で美味いソーキそばを食べ、岡を越えて辺野古の基地移転反対看板を見に行ったりする。その内に日も暮れ、東シナ海を綺麗な夕日が染め上げていく。
 ホテルについて荷物を降ろしシャワーを浴びて、いつも通り居酒屋に行きオリオン麦酒と泡盛を満喫するのである。
3日目 2002年12月30日
走行区間 名護市キャッスルホテル〜那覇市とまりや
走行距離 94km
走破市町村 0
累計数 3,248
 この日は走破とは関係なく、10年ぶりの沖縄がどう変わって来たのかを見る旅を行うことにする。
 最初は2年前に行われた沖縄サミットの開催地である万国津梁館の主会議場が一般公開されているというので見に行く。会議室ばかりでなく周辺の施設まで素晴らしく立派である。つまり維持管理費がかなり懸かりそうな施設である。小渕総理の沖縄を何とかしたいという思いは伝わるがこれが地元に荷物を残した結果に繋がらなければ良いなと思う。最もサミットメンバーの記念写真を見ればここに世界の主要国首脳が集まった、という誇りを残すことは出来たであろうと思う。
 次に嘉手納基地の安保の丘を見に行く。明日で大晦日というのに大型爆撃機の離着陸訓練を行いかなりの騒音である。滑走路も成田より遙かに巨大であり米軍の力を感じることが出来る。しかし丘の上で写真を売る人や麓でアイスを売る人などが居て沖縄のたくましさも同時に感じてしまう。ここで昨日のチラシに電話を掛け、今夜から数日間の予約を行う。
 3番目に世界遺産に格上げされた沖縄のグスクのうち最も保存状態がよいと言われる中城城址を訪ねる。前回は素通りして帰ってから後悔した所である。入口には誇らしげに世界遺産の碑が建っているが、確かに九州以北の城を見慣れた目には新鮮な石積み様式である。首里のように復元されていないだけ味わいが深い。
 中城城址を見ている内に小雨が降ってきたので普天間飛行場を見ることなく泊港に向かい正月ダイヤをチェックする。座間味と粟国を比べると元旦ダイヤでは粟国を往復する方が良いと解り大晦日である明日は座間味往復をする事を決める。
 泊港から直ぐの『とまりや』はドミトリー方式の安宿だった。旅人より地元の人間が多い点が気になるが離島巡りをするのには絶好の立地条件である。
4日目 2002年12月31日
走行区間 那覇市とまりや〜那覇市とまりや
走行距離 17km
走破市町村 1(座間味)
累計数 3,249
 大晦日に小雨が降っている。海の綺麗さが有名な座間味に行くのにこの天気は気になるが、本当に海で遊ぶときは別に出直せば良いかと自分を納得させ宿から3分の港に向かう。
 10:00のフェリーで出航。船の中では宮部みゆきの「理由」を読み続ける。確かに面白いけど皆が傑作という理由が解らない。高校の頃から阿部公房や井上ひさしなんかを読んでしまって小説の中の人間関係に覚めているせいかもしれない。
 そんな事を考えているうちに2時間で座間味に到着。滞在2時間で帰らねばならないが依然として雨が続いている。海岸線を走り『マリリンに逢いたい』のモデルになったマリリン像に着く。シロが泳いだという海峡を見るが私にはとても泳ぎ切れそうもない。犬の偉さをしみじみと思う。そんな事を思っていたら雨が強くなってきたので街中に帰り慶良間海洋文化館を見て時間を費やす。沖縄戦の最初の激戦地がここだという事は知っていたが細かな資料を見ると壮絶さに辛くなる。
 14:00に出る船に乗るため島を後にする。なお、この3年2ヶ月後に鯨を見るために再度訪れるのだがそれは別の機会に報告する。
 那覇に帰り居酒屋で沖縄料理を肴に泡盛の瓶を開け、公設市場の2階で年越しに沖縄蕎麦を食べる。帰路の酒屋で泡盛の4号瓶を2本とつまみを買って帰り、紅白の後半戦を見ながら宿の若者に振舞酒をする。宿の応援を見ると紅白の戦いと言うよりヤマトンチューとウチナンチューの戦いのようだ。安室奈美恵、DaPump、TheBoom、夏川りみ、BEGINなどが出てくると盛り上がりが違う。殆どが正月の仕事で那覇に出てきた沖縄の子だから仕方がない。紅白も終わり行く年来る年を見ている内に酔いが深くなり、部屋の布団に倒れ込むように寝てしまうのだった。
5日目 2003年1月1日
走行区間 那覇市とまりや〜那覇市とまりや
走行距離 26km
走破市町村 0
累計数 3,249
 目が覚め時計を見ると9時45分である。粟国行きの船が出るまで15分なので準備を始めようと思うが頭が重く胸がむかついて動きが取れない。完全な二日酔いである。これは正月元旦ぐらいはのんびりしろという天の声だと好意的に解釈し今日の粟国往復を諦める。ただ、こんな時に限って天気は良い。もう一度寝直して11時に起床し、島から帰ってやろうと思っていた洗濯を行う。脱水後に服を干したら約10km離れた宜野湾市に出来たという温泉に入りに行くことにする。
 国道沿いのラーメン屋で昼食を取り、のんびり走ればJAの経営する温泉に到着する。必要以上に和風を意識した露天風呂に浸かりながら今年の生き方を考える。
 すっかり酒を抜いて那覇に戻り、空港で明日の大東島への飛行機を予約し、電話で明後日の宮古島への船も確保する。安心して国際通りに行き、今夜も居酒屋で夕食を取る。泡盛3杯と軽めに切り上げ、3泊目の夜は少し早めに寝るのだった。
6日目 2003年1月2日
走行区間 那覇市とまりや〜北大東村民宿二六荘(エア輪行2回含む)
輪行区間 那覇空港→南大東島空港→北大東島空港
走行距離 43km
走破市町村 2(南大東,北大東)
累計数 3,251
 正月の沖縄は夜明けが遅い。日の出の時間も7:20頃なので朝7時半というと夜明け直後の薄闇である。そんな中で奥武山公園の沖縄護国神社で初詣を行い、これからのより厳しくなる旅の安全を祈る。
 空港には朝8時半頃到着する。北大東島往復券を購入すれば午前中の南大東島行きで降り、午後の南大東島経由の北大東島行きに途中乗車(飛行機でもこう言うのかは不明)出来る事を昨日の内に確認してあるので、往復券を購入する。本心では大東島には大東海運で行きクレーンで上陸するという経験を味わいたかったのだが正月休み中には大東海運は運休だし、動いていても就航率の低さのため膨大な予備日を持たないと安心した船旅が出来ない。心ならずのエア輪行である。ちなみに往復で38,800円である。グアムやソウルにツアーで行くよりも高い。
 那覇10:00の飛行機で南大東島に11:00に着く。窓の外には平坦な島が北大東島と一緒に孤独な海に浮かんで見えている。空路でも沖縄本島からの距離を感じる。
 まずは日の丸山展望台に行き北海道の農場のような島を見渡してから旧空港跡地にあるビジターセンターに行き島の概要を見る。見慣れない野鳥が歩き回りここは沖縄でなく大東なんだと実感する。その大東島はニューギニア付近で火山島として誕生しフィリピン海プレートに乗って沖縄に向かっている事などを知り感動する(大東島のHPに詳しい記載がある)。
 次に星野洞に行くが料金所に人が居なくて鍵もかかっている。ビジターセンターでは休みではないと言っていたよな、と思っているとスクーターに乗った叔母さんが訪れ鍵を開ける。よく考えてみるとたまに訪れる観光客のために常駐できないというのも解る。湿度と気温の高い鍾乳洞を1人で見学して叔母さんに感謝の言葉をのべて街中に行く。それにしても私が星野洞に着いた事を良く解ったものだ。どこからか監視していたのだろうか。
 目標にしていた大東そばは正月休みだったが工事の人に仕出しを作っている食堂で昼食にありつく。そこで大東島測候所の地震観測系は台風の波を捉えることや台風の時には間違っても海を見に行ってはならないと言う話を聞かされる。
 後は大池周辺の自然に埋もれてから北大東に渡るために空港を目指す。本当は人口の多い南大東島に泊まりたかったのだが飛行機の運航スケジュール上、そのパターンは組めないのである。もちろん正月だから北大東の宿も確保困難で、何ももてなしできないという条件で民宿二六荘の予約を取ることが出来た。
 16:00の飛行機で北大東に16:05に到着する。この間は日本最短の空路と言われているが足は収納したのだろうか。北大東で20人近い人が降りる。私は自転車を組み立て島の反対側にある民宿を目指す。宿に着くと車が到着し「空港に迎えに行ったけど自転車で走っていったと聞いたから帰ってきた」という。民宿二六荘に泊まるなんて誰にも言っていないのに何で解るのかと聞くと、降りた客の内、島の人でないのは私だけだからと言う理由らしい。何処を走っていたかも筒抜けである。星野洞もこの理屈かも知れない。また今日は成人式だから出かけるし、夕食は8時まで待ってくれと言われ、じきに宿に誰も居なくなる。暇だから燐鉱石貯蔵所跡地を見に行くと歩いてくる若者が居る。「私は年末の船で来てサトウキビの刈り入れを手伝っているのですが観光客にも出会わず暇してました。帰りの船が出るまでまだしばらくありそうです」という。やはり辺境には変わった奴がいる物だ。
 外を出歩いても大東蝙蝠に出会えそうもないのでNHKBSを見て時間をつぶし、遅い夕食を取りに行くと「今日は澄まなかったね」と麦酒と泡盛をサービスしてくれる。なかなか気持ちがよい夜になった。
7日目 2003年1月3日
走行区間 北大東村民宿二六荘〜有村海運飛龍2(エア輪行1回含む)
輪行区間 北大東島空港→那覇空港
走行距離 36km
走破市町村 0
累計数 3,251
 今日も爽やかな朝である。夕方まで飛行機が無いので二六荘に着替えと輪行袋と雨具を入れたディパックを置いてのんびり島を巡ることにする。今回の最もじゃまな荷物は本州で着る冬服で、それと今回の大東で必要ない多くの着替えは那覇のとまりやに置いてもらっている。
 屏風岩の麓を通り南端の江崎港から南大東島を眺める。一旦昼食に二六荘に帰り、ディパックを背負って北側の海岸沿いに沖縄最東端の碑に着く。その間に水平線に見える船が全く無いというのも寂しいものだ。碑の近くの自然プールで正月から初泳ぎをしようかと思うが流石に寒い上に石で身体を怪我しそうだから止めてのんびり日光浴をしながら本を読む。
 そんな事をしている内に3時を回り、16:00の飛行機に乗るために空港に着き輪行する。この飛行機は南大東を経由するので那覇に着くのは17:55である。どちらの空港からも大勢の乗客が乗ってくる。正月休みを終えて都会に出ていく人達のようで見送りも大勢居る。みんな仕事なのに私はこれからさらに南下するのだと思うと申し訳ないような気もしてくる。
 那覇空港に着いたら雨である。大東があれだけ晴れていたのにやはり遠いのだなと思う。タクシーで那覇新港に行こうかと一瞬思うが流石に輪行袋をタクシーで運ぶのは気が引けて合羽を着て走る。とまりやに立ち寄り着替えを交換して那覇新港までひた走る。途中で弁当と泡盛を購入し待合所に到着する。結構込んでいるので2等が取れずに1等寝台を予約してあったが一晩寝られて4,250円は安いものだ。
 船は20:00に出航する。寒冷前線を横切るので船が揺れますというアナウンスが流れる。それを聞くと雑魚寝で無くて良かったと思う。船に酔う前に泡盛に酔って早めに寝てしまったので、どの程度揺れたのかは解らなかった。
8日目 2003年1月4日
走行区間 有村海運飛龍2〜平良市石水亭
走行距離 91km
走破市町村 0
累計数 3,251
 朝4:15に平良港に到着する。雨は降っていないが真っ暗なので星が見えないこと以外の天候の状況は解らない。睡眠時間は6時間以上取っているし、多良間行きの船でも寝られるから待合室で横にならずに街に出る。コンビニで朝食を買って雑誌の立ち読みを行い、6時を回った所で南にある来間島までの往復を考える。
 まだ暗い道を追い風を受けながら南に進み、橋を渡る頃に夜が明ける。竜宮展望台で展望を楽しみのんびり時間をつぶしたら向かい風と戦いながら来た道を引き返し、平良港にある多良間海運の事務所を探す。まだ開いたばかりという事務所について船の切符を購入しようとすると、今日は北風が強くて欠航だと言う。1日1往復だから午後からの運航も無い事を確認する。波はそれほど強く無さそうだが船にスタビが無いらしいから仕方ない。停滞は覚悟していたから今日は宮古観光だ。
 明日朝もこの多良間海運の事務所に来やすいように近くの旅館に行き今夜の宿を確保して輪行袋などの荷物を置いたら前回行かなかった北端の西平安名岬と池間島に出かける。時間はたっぷりあるから速度もノンビリである。岬の巨大な風力発電を見て回り離島は風力が似合うなとこの時は思った。しかしこの秋の台風14号の映像で壊滅させられた風車の映像はショックだったし台風の強さを実感した。
 岬の付け根から橋で池間島に渡る。橋の上から見る海が文字表現できないほど美しい。私が陸上から見た海の中で最高級の素晴らしさだった。島を1周してから宮古島に戻るがやはり橋の上が最も気持ちよい。
 南下中に下崎の砂山ビーチに行くと海も浜も綺麗だし何種類かの蝶々が飛んでいる。日本の広さと自然の多彩さが有りがたい。平良市街で宮古そばを食べ、前回は無かった上野村のドイツ文化村を目指す。洋風建築の並ぶ敷地で昼寝をする。入場無料が有りがたい。つい有料の資料館に入る金をドイツ麦酒に回してしまう。
 ドイツ村の帰りに空港に立ち寄り明日の多良間行きの空きを確認するが輪行袋の持ち込みが断られる。小値賀に行ったのも小さな飛行機だったが会社の判断では仕方ない。この年の秋まで待っていれば新空港が完成し、大東島と同じ39人乗りの飛行機が運航し、エア輪行が可能になるのでタイミングは早かった。これで多良間に行くのは海の状況次第になる。
 旅館に帰りTVを見ればこの冬一番の寒波が流れ込んだと言うことで西日本を中心に大雪で大荒れである。まだ船の欠航で足止めを受けても南の島を観光して歩いていられる私は幸せだと歓ぶ。
9日目 2003年1月5日
移動区間 平良市石水亭停滞 :走行距離3km :走破無し
10日目 2003年1月6日
走行区間 平良市石水亭〜那覇市とまりや
輪行区間 宮古島空港→那覇空港
走行距離 21km
走破市町村 1(多良間)
累計数 3,252
 5日の朝の風は弱いので今日は船が運航しているだろうと港まで走り多良間海運の事務所に顔を出すと『まだうねりが残っているため欠航』との話である。今日も待機が決まってしまった。見上げると小さな飛行機が多良間目指して飛んでいく。
 民宿に戻り連泊の手続きをした後、挫折感にやる気が無くなり正月番組を見て午前中はごろごろとする。午後から前回も行った東平安名岬まで走ろうかと思ったが雲が厚く気が乗らず街に出ることにする。宿の親父さんは今日は寒いと言うし街を歩く人達は冬服だが私はTシャツの上に長袖を1枚着ているだけである。ヤマトンチューには沖縄の冬は過ごしやすい。平良の商店街を散策して、夕方から居酒屋で泡盛を飲んでしまうという怠惰な日を過ごしてしまうのだった。

 6日の朝に行くと今日は運航すると言う。停滞が2日で済んだ喜びで直ぐに切符を購入し船に乗る。平良港を10時に出航し多良間島の普天間港に12時半に入港する。普天間出港は14時だから1時間半の多良間島滞在である。この1時間半のために3日の日数と膨大な資金を費やしてしまった。
 港に着き標高33mの八重山遠見台に登りに行く。上から見渡すと隆起珊瑚礁から出来た平坦な島だ良く解る。ここから那覇は台北より遠く東京は上海や北京より遠い。全国の天気予報では那覇以西をやらないが遙か遠くに多くの生活があると展望台で考えていた。展望台から降りたら昼食をとれる場所もなくフクグ並木に沿って塩川御嶽を見たら昼抜きで港に帰る。
 平良港に16:30に帰り、古謝そばを食べ石水亭で荷物を受け取り宮古島空港まで走る。なお那覇行きの船はあと3日間来ない。18:55の飛行機に乗り19:40に那覇に帰り、国際通りで沖縄県に王手をかけた事を祝ってから『とまりや』に宿泊する。
11日目 2003年1月7日
走行区間 那覇市とまりや〜自宅(エア輪行1回含む)
輪行区間 那覇空港→羽田空港→袖ヶ浦BS
走行距離 9km
走破市町村 1(粟国)
累計数 3,253
 元旦に二日酔いで行けなかった粟国村が日本で最後から2番目の自治体になった。今日は寝過ごすことも無く泊港に着き弁当とお茶を買って船に乗る。
 10:00に泊港を出て2時間で粟国に到着する。これでいよいよ残る日本列島は鹿児島県十島村を残すだけになった。那覇は薄曇りだったが粟国では小雨が降っている。帰りの船は14:00発なので2時間の滞在である。まずは筆ん崎の崖の上にある展望台に行くが雨のため特に展望も良くない。次に洞寺に行くがここは鍾乳洞になっており整備も良く雨の日の観光には最適である。鍾乳洞をのんびり見ていると出航30分前になり港に向かう。
 泊港に到着し、早めの夕食にアメリカ文化を食べようとステーキ&タコスを取る。事前に購入した超割のチケットは明日の夕方の飛行機を予約してあるが、課題の全ての市町村を全て走り終えてしまった。こうなる展開を予想して昨日宮古島空港で早割1を予約してあるので特割の手数料を払っても合計3万円程度の割高で済む。1日早く仕事を始めれば取り返せる額だなと思い今日中に帰ることを決断する
 とまりやの全ての荷物を背負って空港に向かう。那覇空港20:15発の全日空で羽田に着く。東京はやはり冬の気温で、沖縄では1度も袖を通さなかったジャンバーが役に立つ。アクアラインの終バスで帰宅するのであった。
 それにしても11日間で23万円とは普通の外国旅行より贅沢な旅である。ちなみにこの金額は琉球編に次いで第2位の消費である。やはり沖縄戦は交通費が高くつく。そして最後の吐喝喇列島にテンションも上がったが、船の運航が不安定だし空路も無いため予備日を含めて1週間以上休める時を待ったらこれより1年以上も間が空いてしまうことになるとは思わなかった。(次はいよいよ最後の走破編