No.74 薩摩編      日本を走る ←No73栗駒編No75金沢編→
旅行期間 1991年12月28日〜1992年1月7日 旅行日数:11日間
総走行距離 728km
走破市町村 63
同行者 W辺 使用自転車:WR
総費用 120,968円 当時の年齢:27歳
初目 1991年12月28日
移動区間 自宅〜福岡市グリーンホテル
2日目 1991年12月29日
走行区間 福岡市グリーンホテル〜国見町国見YH
走行距離 155km
走破市町村 20(粕屋,篠栗,筑穂,穂波,桂川,飯塚,庄内,頃田,糸田,田川,香春,勝山,行橋,豊津,筑城,椎田,豊後高田,真玉,香々地,国見)
累計数 2,312
 この頃はバブル景気が残っており、職人達の手間賃も高かった上に正月休みも長かった。現場も12月28日から1月7日まで全休とすることが決まった。年末は消防団として歳末夜警が有るが来年から役員に上がる代わりに免除して貰う。そんな形で地元に帰って2年弱の自己規制期間を終えて本格的な走行を再会する。
 S井・K藤・F島も当初は参加表明をしたがそれぞれの事情で抜けていき最終的にW辺が残った。彼も冬の九州に行きたいというので意見が一致する。車で移動する彼に同乗させて貰い九州までの往復と山を楽しむ形態が決まった。27日に現場の後始末や書類を整理して仕事を終え、松戸のW家に向かう。夜10時の約束時についてもW辺は帰ってこない。彼の妹に茶を入れて貰って飲みながら0:10まで待って、やっと帰ってきた彼とその足で出発。
 基本的には3時間交代で運転と睡眠を繰り返し博多を目指す。必ずW辺の時に雪通行止めや大渋滞に当たるというジンクスを越えて22:40に博多に到着。早く寝ればよいものをチゲ鍋などを食べて飲んで午前2時過ぎに寝る。
 朝8時に『よかとぴあ公園』で自転車を組み立てると時計がないのに気づく。途中で購入すれば良いさとて出発する。W辺は長崎の浦上ヶ丘YHに顔を出しに向かう。双方とも昨夜の飲み過ぎが辛いようだ。東に進み岡を越え青春の門に示された筑豊を見て走るがボタ山はあちこちにないのが想像外だった。小説の記述で風景を想定しても百聞は一見にしかなかった。
 飯塚で安い腕時計を買ってハンドルに付ける。201号線で行橋に抜ける途中で平尾台にも行きたいと思っていたが寝不足により取り止める。中津では福沢諭吉の旧宅と城に立ち寄り、あとは国見YHまで坦々と走る。YHでは前日の寝不足が響き、夕食を取って仮眠のつもりが朝まで寝てしまった。
3日目 1991年12月30日
走行区間 国見町国見YH〜別府市別府YH
走行距離 126km
走破市町村 5(国東,武蔵,安岐,大田,杵築)
累計数 2,317
 充分に寝たので体調が良いし天気も同様に好調である。今日は九州編後に写真を見て気になっていた国東半島の仏像巡りの日である。YHから213号線で安岐町まで走り、川沿いに両子寺まで登り参拝する。ついで走水峠を越えて真木大堂に至り国指定重要文化財の阿弥陀如来座像などを見て回る。最後に熊野磨崖仏を見て回り、山香を経て杵築に至る。休憩も兼ねて少し遅めの昼食に城下鰈か関鯖でも食べようかと思ったが店頭に掲げてある値段の高さに後ずさり、反動で安いお好み焼きなどを食べてしまう。
 別府に着いて温泉でも巡ろうかと考え、取りあえずYHに荷物を置きに行く。しかし青少年の健全育成のため繁華街から離して立地させる必要があるのかは定かではないが、このYHも街中から離れた丘の上である。一度温泉街まで降りてから登り直すのが嫌で外湯巡りもせずにYHの内湯に浸かって満足することにした。
4日目 1991年12月31日
走行区間 別府市別府YH〜日田駅前
輪行区間 日田駅前→九重町牧ノ戸峠W辺車中
走行距離 119km
走破市町村 8(野津原,狭間,庄内,湯布院,久重,久珠,天瀬,大山)
累計数 2,325
 今日は大晦日である。朝のうちは寒いとは言え晴れて風も穏やかで良い走行を保証してくれるような天候である。
 由布院に向かうのに峠回避と走破を兼ねて大分から210号線を通る迂回ルートを選ぶ。国道を走るだけでは通過しない野津原町に入り、ショートカットで国道に戻ろうとすると細い山道で却って時間も体力も消費してしまう。由布院の街が近付いてくると背景に由布岳が美しく聳えてくる。頂上近くが白いのは霧氷だろうか。一度冬に登りたいなという思いを達成するのは12年後の事になる。
 由布院について金鱗湖畔の共同浴場下ん湯に入ろうとすると清掃中と断られる。それを目標に来ていたので他の湯に入る気もせず昼食に鍋焼きうどんを食べるだけで先へ進む。水分峠を越え210号線でW辺との合流地点である日田駅を目指す。由布院をパスした分だけ時間が余り市街地には居る前に212号線で大山町境界まで走り1つでも走破数を延ばす。
 日田には午後5時前に到着する。集合時間は6時丁度なので1時間以上有る。その時間を利用して登山用の地図やジャージを購入して駅に行きW辺を待つ。予定より1時間以上遅れて到着した彼の車に自転車を載せて日田市内で年越し蕎麦を食べ、待たせたお詫びに麦酒を奢らせる。
 日田で買い物をしてから天ヶ瀬温泉に行き露天風呂に浸かり、翌日の初日の出を見るために牧ノ戸峠まで移動して車中泊をする。小型テレビで紅白を見てW辺が長崎で購入してきた酒を飲んで年を越す。槙原敬之の「どんなときも」や沢田知可子の「会いたい」などに心を揺さぶられる。和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」を聞いてこんな年越しも良いなと満足して油断していたら0:00を見逃してしまった。明日も早いので1時前にはきちんと寝た(実は4時間も飲んでいる)。
5日目 1992年1月1日
移動区間 九重町W辺車中〜高千穂町YH大和屋
6日目 1992年1月2日
移動区間 高千穂町YH大和屋〜水上村市房YH
7日目 1992年1月3日
輪行区間 水上村市房YH→えびの市役所
走行区間 えびの市役所〜鹿児島市BH若松
走行距離 97km
走破市町村 11(えびの,吉松,栗野,横川,牧園,隼人,霧島,国分,溝辺,加治木,姶良)
累計数 2,336
 元旦の午前5時半に目覚めると車の回りは雪が降っている。これは初日の出は拝めないだろうと寝直して8時過ぎに起床する。阿蘇神社に初詣をして内牧温泉に初湯を浸かり阿蘇の火山博物館に行く。午後から少し天気が良くなったので阿蘇中岳に登りYHの有る高千穂町まで移動し、夜は神楽を見に行く。
 翌日は天気が良いので再度牧ノ戸峠に戻り久重山に登る。下山後高速を使って南下して「幻のYH」と言われていた市房YHに着く。新年の祝いと言うことで地元の人達を交えて焼酎の飲み放題を行っており、遅くなったお詫びに武雄で買った日本酒を差し出した。宴会で飲もうとしたら"九州ば来て、焼酎飲まんでどないすっと。わしが味見ばしちゃる”と言いぐいっと一口、"こげん美味か酒ば飲んだらいかんたい”と言われてしまった。そんな場で熊本のサイクリストと話しているうちに峠越えの話題になり「日本の峠越えも悪くないが台湾の東西横貫公路には3000mを越える凄い峠が有り通過に3日を必要とした」という話を聞いてしまう。これに強く興味を引かれ琉球編の構成に繋がっていく。色々話して焼酎を重ねているうちに飲み過ぎでダウンしてしまう。
 1月3日は市房YHから鹿児島まで走るつもりだったが二日酔いのため前半をパスする。酒を抜くため人吉温泉の朝湯に浸かりに行くが、W辺が屋根付きの駐車場に車を停めるときに上の自転車を忘れて下がったので庇にぶつかりリムが若干曲がってしまう。幸いニップルレンチを持っていたので湯上がりに微調整を行い騙して走れる程度にはなる。
 結局えびの市役所まで車で移動して、霧島に行くW辺と別れて走行を開始する。肥薩線に沿うように南下して国分で昼食を取り10号線で鹿児島に向かう。桜島の灰が感じられる街を懐かしく思い出しながら西鹿児島駅に到着する。ここで宮崎の実家に里帰りをしているS原と待ち合わせて新年の飲み会である。昨日もあれだけ飲んでいるのに自転車で走るとまた飲めるようになるから不思議である。
8日目 1992年1月4日
走行区間 鹿児島市BH若松〜指宿市圭屋YH
走行距離 169km
走破市町村 11(松元,日吉,吹上,金峰,加世田,大浦,笠沙,坊津,枕崎,川辺,知覧)
累計数 2,347
 連日の二日酔い状態で起床する。隣の部屋のS原を起こし駅前の喫茶店でモーニングを食べて別れ走り始める。天気は今日も良い。
 鹿児島から鹿児島本線に沿って東市木まで走り、そこから海岸に出て270号線で南下をする。加世田で昼食に中華丼を取り、226号線で海岸を回る。野間崎を回った頃に後ろからクラクションを鳴らされ振り返るとW辺が追いついている。車と併走して話を聞くと明け方に韓国岳と高千穂を登って来たとの事である。坊津まで併走したら池田湖とかを観光に行くと言うので着替え等を積んで貰い別れる。
 坊津は何故ここが古代の名港だったか現地を見ても解らなかった。枕崎にはいると「スピード違反10,000円、かつおぶし1本500円」という看板が目に入る。佐渡島でこのシリーズは見たな、と思うが絵や「かつおぶしのまち枕崎市」などという余分なフレーズがあるだけ佐渡の勝ちだなと勝手に判定をする。
 そしてもっと行きたかった街である知覧に入る。公開されている庭園は借景を上手く使った綺麗な物で、庭だけでなく街並みも美しい。すれ違う子供達も皆気持ちの良い挨拶をする。この綺麗な町が特攻隊の基地に成っていたという事実に胸を打たれながら特攻平和会館を後にする。
 知覧町を出る頃に日も沈むと見る見る暗くなり開聞岳の麓を通過する頃にはライトが必要となる。公衆電話からYHに電話して遅くなる事とW辺に心配せず待てと伝える。夜になると薩摩半島の南端でも寒さが増し、指宿温泉に付く頃にはすっかり芯まで冷えてしまった。残しておいていただいた夕食を取り温泉で暖まると蘇った気分になり、今日は酒を飲まずに寝た。
9日目 1992年1月5日
走行区間 桜島口〜JR山之口駅
輪行区間 指宿市圭屋YH→桜島口、JR山之口駅→JR佐土原駅、佐土原駅前→佐伯八幡浜船
走行距離 62km
走破市町村 8(福山,大隅,財部,末吉,都城,三股,山之口,高城)
累計数 2,355
10日目 1992年1月6日
移動区間 佐伯八幡浜船〜東名阪道九重町W辺車中
11日目 1992年1月7日
移動区間 東名阪道W辺車中〜自宅
 まだ暗いうちに宿を出て開聞岳に登ってから宿に帰り朝食を取る。指宿名物の砂風呂を楽しんでから長い帰路に付く。桜島フェリーで錦江湾を渡るが島の中は降灰が多い。桜島口まで車で移動してから都城を走破するために自転車を出す。W辺は都井岬や日南海岸のドライブをするというので佐土原駅午後6時集合を約束して昼直前に別れる。
 午後だけで佐土原までの距離は走れると思ったが福山町の十文字への登りが予想以上に厳しく都城に着いたときには3時になってしまった。残り60km強の山道を3時間で走りきる自信が無く、その上小雨まで降ってきたから山之口駅から輪行することを決断する。決断すれば直ぐに駅の近くの酒屋で麦酒を購入するのだった。
 それでも列車の時間が悪くW辺を40分程度待たせる事になってしまった。今回は互いによく時間に遅れる旅になってしまった。そこからは第二国土軸に沿って帰ろうという話になり愛媛の八幡浜に船で渡り、朝の道後温泉に浸かり、津名から深日に渡って橿原の王将で夕食を取って名阪で帰る。往路と同様に交代制で運転をして夜明け前にW辺家に到着し、金銭の精算をしたら長い旅も終わりである。(次は金沢編