滝口元議長が逝く | |
2024/09/07記 | |
体調を崩していたとは聞いていたが、我が父の告別式にも列席していただいた滝口敏夫元議長が8月31日に亡くなられ、昨日が通夜で今日が告別式となった。今頃、きみさらづ聖苑で荼毘に付されているころだと思う。在りし日を思うと寂寥感で苦しくなる。 滝口元議長は我が父である近藤富男と同期になる平成3年に当選され、以来平成31年まで7期28年にわたって木更津市議会議員を続けてこられた。その間、平成11年に第48代議長を務められ、平成25年に59代、27年に60代の議長を務め、3代の議長経験は昭和29年から33年まで第9代から11代まで務められた石川三良氏以来の回数であるし、議長在職5年は私の調べる範囲で過去に前例がない。 第59代議長の時となる平成26年2月10日から当時304市が加盟していた全国高速自動車道市議会協議会の会長を2年間務めるとともに同じころに千葉県市議会議長会の会長兼全国市議会議長会理事も務めていただいた。私は平成26年6月から第60代副議長として滝口議長を支えていたので、その間の激務は横で見て実感しているが、滝口会長の活躍は木更津市議会の底力を全国に広げていただけたものと思う。 平成19年の統一地方選挙で富男から代替わりする形で私が当選し、4年間無会派を続けた高橋浩市議(現千葉県議)と同期の齋藤高根市議・鶴岡大治市議・平野卓義市議と共に旧「市政会」であった会派に合流し、名称も「フォーラム未来」に変えて11人の会派として出発した。当時私は43歳で滝口市議は67歳であった。父と同期で年齢が5歳下であったこともあり実の父に代わるかのように多くを教えてもらったことを覚えており感謝している。 4年間に高橋市議が県議補選に立候補して抜けた以外は10人で会派活動を行い、市長選とともに行われた補欠選挙を経て11人に成った。平成23年の東日本大震災の影響も濃い中で行われた統一選挙後で10人が改選を果たしたが、私の同期4人が会派から分離して羅針盤を結成し、滝口市議を含め残った6人は自由民主クラブと改名し「フォーラム未来」は4年間で消滅するに至った。 この4年間は「守破離」で表される守と破の期間であり離れて運営を始め新たな型を作った羅針盤もフォーラム未来の頃に教わった基本がベースになっており、貴重な日々であった。 自由民主クラブは当時新人議員であった重城市議を加えて7人と成り、私達も宮木市議、永原市議・草刈市議を加えて同数の7人にするように厳しい勢力抗争が行われた。しかし7人に勢力が拡大した羅針盤を評価していただき齋藤→平野→鶴岡→近藤と4年間で2期生の4人が連続して副議長に就任するといった異例の対応をしていただけた。前半の2人は公明党の岡田議長であるが、後半の鶴岡現議長と私が滝口議長時代の副議長である。私は議会運営の心がけや進め方などのテクニックだけでなく議会の矜持や哲学など様々なものを滝口議長から教えて頂いた。今があるのは父のように暖かく接していただいた滝口議長のお陰である。 私が副議長の頃に議会基本条例の制定とタブレットの導入によるペーパレス化の必要性を伝え続けたが、平成27年の改選後に白坂副議長と組み、議会基本条例と議会倫理条例を制定し、平成29年12月議会からペーパレスを導入した。平成27年の改選前に議員定数を28人から24人に減らしたことなどを含め議会改革は滝口議長時代に劇的に進んだことは間違いない。 平成から令和に変わる平成31年の選挙には立候補せず勇退されたので令和最初に就任した私の議長を議員として見ていただけなかったことは残念であったが、街中で会うたびに的確なアドバイスをいただいた。滝口さんも市議を引退しながらも自民党木更津支部の役員や森県議の後援会長を務めるなど前線に立ち続け、すっかり隠居生活を送っていた私の父とは大きな違いであり、その存在感には畏敬の念を抱かずにはおられない。 木更津市議会を代表する偉大な先輩が逝かれてしまった。残された私たちの世代から、次の世代に畏怖されるような存在が現れるとは思えないところもあるが、せめて僅かでも近づけるようにと思いながら、市議会での父を偲んでいる。 |