No.78 琉球編(3/3)1/3 2/3  日本を走る ←No77No79→
旅行期間 1992年10月30日〜1992年11月25日 旅行日数:27日間
総走行距離 1,456km
走破市町村 64
同行者 無し 使用自転車:WR
総費用 432,528円(内盗難被害額104,585円) 当時の年齢:28歳
19日目 1992年11月17日
走行区間 琉球海運かりゆし沖縄〜石垣市YH八洲旅館
走行距離 38km
走破市町村 1(石垣)
累計数 2,485
 朝目覚める荷物に違和感を覚える。調べてみるとM井さんから借りた離島情報と腕時計と財布を入れた袋がない。那覇でトラベラーズチェックを現金に戻し、有村海運の高雄〜石垣の払い戻しも受けているので財布の中には行程中最大額になる104,585円が入っていた事を前夜確認済である。日本に帰ってきて緊張感が緩んでしまったのが敗因だが、そんな事を言っても仕方ない。船のフロントに相談すると、多分中身を抜いて財布は海に捨ててしまったろうから出てくるのは困難だろうが盗難届を出せば乗客の荷物調査を海上保安庁に依頼することは出来ると言う。旅客の上陸を1時間以上送らせる迷惑をかけることに成るので悩むがM井さんや周辺の人に相談すると他の人に警告を与えることにも成るから依頼した方がよい、という言葉に押され依頼をすることにした。
 結局、発見されるわけもなく、2時間遅れて無一文で石垣島に降りる。M井さん達に心配されるが通帳と印鑑は無事だったので郵便局で金を御降ろし商店街で財布を購入し、気持ちを切り替え、一からの出直しを行うことにする。
 八洲旅館YHに荷物を置いて石垣島で一番綺麗だと言われる川平湾までM井さんと走る。盗難騒ぎで下船が遅れた上に石垣市での買い物などに時間をかけたので、川平湾からの帰路で日没を迎えてしまう。石垣島の走行はこの区間だけであったが、島を1周したいし沖縄県最高峰である於茂登岳にも登りたいとも思っていた。それが実行されるのは14年後の事であった。
 YHに戻るとこの日に到着するように着日指定していたカヤックが宿に着いていないので問い合わせると明日まで待てといわれる。仕方ないので膨大な洗濯を行って、同じ船で来た宿泊者達と街中に繰り出し八重山料理を食べ泡盛を飲んで、色々あった八重山初日を終えるのであった。
20日目 1992年11月18日
走行区間 石垣市YH八洲旅館〜石垣市YH八洲旅館
走行距離 12km
走破市町村 1(竹富)
累計数 2,486
 M井さんが今日は石垣見物をして西表に渡るのは19日にするというので、日程を合わせ、この日は有人島最南端になる波照間島の単独日帰り旅を行うことにした。
 離島桟橋に着くと八重山の島々への船の出入りが大変な賑わいである。民間船会社2社が競い合うとこのような活気が生まれるのか、それは解らないが他の日本の港では見られない雰囲気に異国情緒すら感じられてしまう。
 波照間への船は石西珊瑚の外に出るので揺れると警告されていたとおりにロールしながら高速で海を横切り波照間港へ到着する。早速最南端の碑を目指して走る。岬には夫婦が一組居るだけの静かな状況だった。碑も思っていたより貧弱で宗谷岬の最北端とは比べものにならないが離島だから仕方がないのだろう。
 次に日本最南端の海水浴場であるペムチ浜で泳ぐ。11月なので誰もいないが真夏の北海道や7月当初の房総より暖かいので苦にならない。残念ながら魚が見れなかったが代わりに海底にはやたらとナマコが居て気持ちよくはない。2時間程度泳いでから集落の中心に行きそばとビールを味わってから波照間を後にする。
 石垣に帰り日本最南端の銭湯に入ってからYHに戻るとカヤックは届いて居ない。宅急便の会社に明日から西表島だというとそちらに転送すると言われる。この仕事ぶりが沖縄なんだろうなと思いながら、M井さんと夕食を食べ泡盛を飲みに行く。
 酔って宿に帰ると与那国帰りの男達や今日の飛行機で到着した娘さんなどで宿泊者が増えている。談話室で買ってきた泡盛を飲みながら私が波照間を日帰りしたと言うと「あそこは民宿に泊まって幻の焼酎『泡波』を飲みながら南十字星を見るのが楽しいのに勿体ない」と言われる。今日来た娘さんが「明日渡ります」というと与那国帰りの男達は「製糖工場に若い男だけが沢山居るので女の子はお姫様扱いされるがその気にさせると事故の元だ」とアドバイスをする。島には島の楽しみ方のルールもあるようだ。
21日目 1992年11月19日
走行区間 石垣市YH八洲旅館〜竹富町いるもて荘YH
走行距離 36km
走破市町村 0
累計数 2,486
 朝の高速船で大原港に渡り、仲間川遊覧船で展望台へ行く。本当に日本とは思えないような景観が広がり感動する。仲間港に戻り走り始めるがM井さんは自転車を石垣島に置いてきているのでここからは単独での走行になる。
 由布島では水車が渡る姿を見て、自転車を乗り入れようかとも思うが「レンタカーの乗り入れ禁止」という看板もあり、途中で転倒するのが落ちだろうからと諦め、島に行くのも止める。次に期待していた日本最南端の温泉である西表島温泉に日帰り入浴をしようとするがシーズンオフの湯船改装中で入浴が出来ない。外の露天でチョロチョロ流れる湯で顔だけを洗わさせて貰った。
 船浦大橋からヒナイサーラの滝を遠望して直ぐに今夜の宿であるいるもて荘に到着する。そこで大阪から沖縄に来て2ヶ月という通称「長老」と那覇に努めていて仕事でも離島を頻繁に訪れる通称「常連さん」と一緒になる。
 カヤックの件を石垣の佐川急便代理店に問い合わせると明日の朝に船浦港に届けるという。YHまでは運ばないのかと聞くと島内の配達網が無いので港に取りに来てくれと言う。遅れた上にこの扱いには腹が立つが沖縄では怒っても仕方ない。
 食事の後で泡盛を飲みながら常連さんに西表の面白いところの話を聞くと、ユツン川の所にガイドに載っていない鍾乳洞があり、最後にはマングローブの海に出て終わるコースがあると教えてくれる。それは面白そうだと4人で行くことを決定する。常連さんお勧めの泡盛のシークワーサー割を飲みながら夜遅くまで色々な話をしていると宿の親父さんに「もう就寝の時間ですよ」と言われる。飲んで騒ぐならみどり荘の方がよいだろうし車を借りる事も出来ると言われ、翌日の宿を変更する事にしてその日は寝た。








22日目 1992年11月20日
走行区間 竹富町いるもて荘YH〜竹富町みどり荘YH
走行距離 2km
走破市町村 0
累計数 2,486
23日目 1992年11月21日
走行区間 無走行(レンタカーにてドライブ)
 20日の朝食をいるもて荘で取ったらみどり荘に自転車で移動し、宿の車を借りて常連さんと港に到着しているカヤックを探しに行くと本当に岸壁の上に置いてある。特に監理している人も居ない他の誰かが持っていってしまったらどうするのかと常連さんに話すと島では問題ないという回答である。そんなものかなぁ。
 宿に2人を迎えに帰ると朝食後にみどり荘に残っていた留学生の女の子がM井さんから鍾乳洞の話を聞いていて一緒に連れていって欲しいという。車は狭いスターレットだったが5人乗りを強行する。運転は私が買って出て、助手席に常連さん。後ろは長老に両手の花という状況でユツン川を目指す。
 昨日走った橋の近くにぽつんと開いた穴が鍾乳洞の入口で、西表にはこんな場所が沢山あるという。懐中電灯で鍾乳洞を進み、時には四つん這いに成って狭い穴を抜けて進み明かり挿す狭い穴を抜けるとマングローブの茂る海だった。海の中の浅瀬をじゃぶじゃぶと歩いて車に戻る。
 次に祖納に行き節祭(シチ)を見に行く。常連さんが祭りにお祝い金を払うと泡盛も飲んで行けと進められM井さんや長老はすっかり酔ってしまう。祭りは男達の船の競争や女達の踊りなど国の重要無形民俗文化財に指定されているだけ有って見所の多いものであった。後は買い物をしてYHに帰り、今日も泡盛祭りである。

 21日は石垣に帰って与那国行きフェリーに乗るつもりであったが朝から強風で全ての船が欠航になってしまった。今日一日はこの風が続くだろうと言う地元の話しに腰を据えて西表島3日目を楽しむことにする。
 昨日のメンバーに2人が加わって浦内川遊覧船(風で欠航には成っていない)で軍艦岩まで行き、そこに重い荷物を置いてからジャングルトレッキングでカンピレーの滝まで見に行く。軍艦岩まで帰ったら重い荷物であるカヤックを組み立てて1人川下りを楽しむ。他のメンバーはヒナイサーラの滝を探検に行ったようだ。
 川を下って浦内橋まで戻るとM井さんだけが残っている。カヌーに乗せてと言うので替わって、彼女がマングローブ林の中をさまよっている頃、売店で買ったオリオンを飲みのんびりとした島の時間にただようのだった。
 もちろんこの夜も夕食後は泡盛祭であるが長老も常連さんも連日の飲み疲れで早めにダウンしてしまう。残された私とM井さんでのんびりと深夜遅くまで飲んで1升瓶を開けてしまうのだった。
24日目 1992年11月22日
走行区間 竹富町みどり荘YH〜竹富町YH高那旅館
走行距離 6km
走破市町村 0
累計数 2,486
 夜明けが8時近い遅さなので深酒の翌日も早く目覚めたような気になる。荒れていた天候も回復し船の運航が再開されたようだ。上手く行けば与那国に船で渡れるかも知れないと電話を入れるがフェリーは運休しているの事を知り竹富島に渡ることにした。M井さんも長老も一緒に竹富に行くというので高速船で上原港を後にする。乗客も少なかったので3人が竹富島に行くから途中で寄ってくれと頼むが船長はしばらく悩んだ後でダイヤを変えるのは難しいから石垣港に戻って行き直してくれと言われる。
 石垣港で那覇に帰る常連さんを見送り、とんぼ返りで竹富島に渡る。着いて島の中に入ると流石に街並みが美しい。YH高那旅館に荷物を置いて水着に着替えてコンドイビーチに出かけ、綺麗な砂浜でカヤックを楽しみ、シュノーケリングを行う。11月下旬なのに八重山はまだ夏が残っていた。この8日後に天神平でスキーをするとは思っても居ない状況だった。
 2時間以上3人で泳いでから島内の散策を行う。最近では観光ずれが進んできたと言うがまだのんびりした頃であった。日没も近付いてくるとまたコンドイビーチに行き夕焼けを見る。既に女の子2人の先客も居て5人で綺麗な日没を迎える。
 宿に帰って夕食を取り終えると、同宿の40代の男性がいつも行く店が有るから飲みに行こうと誘う。外に出ると綺麗な星空で赤瓦の街並みが静かな夜に溶け込んでいる姿も風情がある。長老やM井さんも気持ち良いねと良いながら入った店で乾杯後、40代の男性はカラオケを注文する。「カラオケはおごるからどんどん謡ってくれ」と彼は言うがこの島ほどカラオケが似合わない場所も無いだろうと思い、そこそこに店を後にした。しかし、何であの男性はあの感性なのに竹富島でYHを使用しているのか、どうしても不明であった。
25日目 1992年11月23日
走行区間 竹富町YH高那旅館〜与那国町民宿さきはら
輪行区間 石垣島空港→与那国島空港
走行距離 24km
走破市町村 1(与那国)
累計数 2,487
 朝から自宅に電話するとK社のM氏より仕事の打合せをしたいので電話を貰いたいという。M氏に電話してみると12月からの仕事の件で26日にどうしても会議したいという。予定より2日早い帰路であるが25日の宮古島からの直行便を使えば間に合うし便も予約できたので改めて了承の電話を入れる。
 その後、竹富ビジターセンターに行き改めて竹富島の学習をしてから島を離れる。桟橋にはM井さんや長老が見送りに来てくれている。ほぼ1週間も行動を一緒にしているので別れるときはやはり寂しいものである。
 石垣港の離島桟橋に着いたらカヌーを入れた重いザックを背負って宅急便の会社を探し、残り3日分以外の服や入場券などの小物も入れて送り返す。ちなみに料金は4,120円であった。また与那国行きフェリーはこの日の出航が無い事が解り、与那国を走破して25日に帰るためには往復空路にするしかないことが確定した。
 空港に着き、今日の与那国と明日の宮古までの航空券を購入する。ちなみに国内最初のエア輪行である。料金は15,000円であった。終盤に来て急激に金遣いが荒くなっている。それでも石垣から与那国への空路は石西珊瑚の広がる八重山の島や海を見下ろせる遊覧飛行だと考えれば高さも少しは納得できる。
 昼の飛行機で与那国に着くと民宿の客引きが居る。宿はまだ取っていないが客引きが居るような所は回避したいと思い宿の名前も聞かずに誘いを断る。2人の客を乗せてその車が出ていった後で電話帳を元に電話予約した。
 明日は豪雨で行けないかも知れないからと真っ先に西崎の最西端の地に行き、そのまま反時計回りに島を回り比川から祖納に入って民宿に到着すると先ほどの客引きが受付に出てくる。何の事はなくその民宿を予約していた事を知った。
 民宿は施設も良く、宿の青年に誘われて一緒にアダンの林で捕まえた椰子ガニをゆでた物をつまみに泡盛を飲み、楽しい夜を過ごすことが出来た。
26日目 1992年11月24日
走行区間 与那国町民宿さきはら〜平良市八千代荘
輪行区間 与那国空港→石垣空港→宮古空港
走行距離 37km
走破市町村 1(平良)
累計数 2,488
 明るくなるのが8時頃と遅いので朝はのんびり起床し、朝食を取れば10時に近い時間である。民宿から近い入波平酒造に行き工場見学をする。立地条件が「どなん」という銘柄で有名な国泉泡盛の隣である事と、日本酒の造り酒屋に比べて施設規模が小さいことに驚く。一通り説明を受けて試飲させてもらった60度の泡盛(与那国だけが日本で唯一60度ものアルコール製造を許されているらしく酒税上はスピリッツ類)を飲ませて貰ったが強いと言うより美味く熱い。お猪口2杯で酔いが回ってきた気がするが、計算してみると日本酒2合近いアルコールを飲んでいる。気に入って土産に購入する。
 午後の飛行機までの時間を利用して東崎まで走り、開放的な草原を行く与那国馬や透明度の高い海に聳える立神石を見学する。昼食には再度西崎に戻り与那国帰りの旅人が口々に語る『ユキさんち』でカレーを食べて、再度最西端の地を踏み台湾を見ることが出来なかったことに落胆してからクブラバリを見学している内に時間となり空港に向かう。
 小さな待合所の前で輪行袋に入れ、搭乗手続きを済ませて自転車を預ける。宿泊者の送迎に来た民宿の人にも見送られ与那国島を後にする。飛行機で石垣に出て宮古便に乗り換える。乗り継ぎは初めてだったので輪行袋を無事リレーしてくれるか心配だったが杞憂で、しっかりと宮古島に自転車は届いた。
 最終日の夜になってしまったので沖縄の打ち上げにガイドに載っているラッキー食堂でウミガメや伊良部うなぎ(海蛇)等を食べるが変わっているだけで特に美味いとも思えない。宿泊についてもこの頃は宮古島にYHが無く、電話帳で安い宿を探すが良い物が見つからない。旅の最後はこんな形で終わりかな、と思いながら泡盛を空け港の近くの宿に泊まった。 
27日目 1992年11月25日
走行区間 平良市八千代荘〜自宅
輪行区間 宮古空港→羽田空港→JR浜松町駅→JR巌根駅
走行距離 81km
走破市町村 4(下地,上野,城辺,伊良部)
累計数 2,492
 飛行機の時間まで宮古島を回って伊良部島にも行かねばならない。久々に時間に追われるように真面目に走る日となった。西平安名崎まで行くと伊良部島がきつくなるので最も行きたかった上に道中で走破を出来る東平安名崎に絞って行き、両側が珊瑚礁の海の中を延びる道を楽しんでくる。
 島を半周して平良に戻り熱帯植物園を見学する。他にも行きたいところは多いがそれらを諦め、宮古島の時間不足を痛感しながら伊良部島行きのフェリーに乗る。港には伊良部架橋を訴える看板があったが、海峡の幅を考えるとあまりに非現実的な話だと思っていた。この12年後になる2006年3月26日には起工式が行われた事のニュースを聞き、橋の延長3,540mという離島架橋として国内最長のスケールには正直驚いた。
 伊良部島からほぼ地続きの下地島に渡り、離着陸を繰り返す飛行機を眺め、通り池まで行く。この頃は整備状況が良好とは言えず、観光を表に出している気配を感じられないままに港に戻り船で平良に戻った。
 街中の本屋で長い飛行機対策として井上靖の『おろしや国酔夢譚』を買ってから空港まで走り、カウンターに行き電話予約しておいたチケットを購入する。何と片道42,070円である。この料金だけで東京からグアムのツアーに参加出るではないか、と思うがこれも仕事のため、やむを得ない。
 2000kmを越える当時最長の国内路線を保有していたのが日航でも全日空でもなくて南西航空だったという事に貴重価値を覚えながら2時間以上の空の旅で日没後の羽田に到着する。気温は急に初冬になってしまった中をモノレールやJRを乗り継いで自宅に帰った。(次は伊勢編