No.78 琉球編(1/3)2/3 3/3  日本を走る ←No77No79→
旅行期間 1992年10月30日〜1992年11月25日 旅行日数:27日間
総走行距離 1,456km
走破市町村 64
同行者 無し 使用自転車:WR
総費用 432,528円 当時の年齢:28歳
初日 1992年10月30日
輪行区間 自宅→JR巌根駅→JR菊川駅
走行区間 菊川駅〜新居町駅
走行距離 68km
走破市町村 3(小笠,豊田,雄踏)
累計数 2,431
深夜なので写真無し  最後の県になった沖縄に入る時には、その距離を感じながら行かねばならないと考え船で渡る方法を選んだ。大阪からの航路ではYH2泊のついたパックがある上に那覇上陸が朝になるので効率が良い。そのため自宅から大阪までは陸路での移動となる。これを利用して東海地方の走破を行う事にした。
 なお30日は富津市長と道路公団木更津工事事務所にアクアライン開通後のバスアクセス提言書を提出しているので午後3時になってしまった。この時間から出発して、交通費を浮かしながら列車と走行を上手く組み合わせることを考えていたら、夜菊川に降りて新居町まで走り、大垣行き夜行に乗って仮眠すれば良いという計画になってしまった。特に今回は船で充分に寝られるため無理も効くだろうと言う判断である。そんな訳で走行の全てが深夜の内に静岡県走破が完了した。
2日目 1992年10月31日
走行区間 枇杷島駅〜守山駅
輪行区間 JR新居町駅→JR枇杷島駅、JR守山駅幡→大阪港
走行距離 148km
走破市町村 18(甚目寺,大治,七宝,美和,蟹江,十四山,飛島,木曽岬,東員,員弁,北勢,藤原,大安,菰野,土山,甲賀,甲西,石部)
累計数 2,449
 大垣夜行を枇杷島で降りて眠い目を擦りながら愛知県西部と三重県北部の走破を続ける。天気は快晴で気持ちが良い。三重県に入り桑名でモーニングセットを喫茶店で取り、員弁郡の町村を走り抜いたら亀山の王将で早めのランチを取り、鈴鹿峠に取り掛かる。走破の為もあるがこのような主要峠を越えていないことは心残りになっていたのだった。
 峠を越えて滋賀県に降りたら土山で2号線から離れ甲賀に入り、草津線に沿って自治体走破を進めれば滋賀県の走破を完了する事になる。東海道線まで走り、金沢編で輪行を開始した野洲駅の隣である守山駅で走行を終了して輪行して列車に乗ると同時に爆眠する。やはり不規則な徹夜走行は身体に堪える。
 JR大阪駅から地下鉄を乗り継いで大阪港駅に着いたら自転車を組み立てるのも歩くのも面倒になりタクシーで乗り場に行く。売店でパンや麦酒を大量に購入し大阪行きの船旅が開始される。
3日目 1992年11月1日
走行区間 終日、琉球海運かりゆし沖縄船中
4日目 1992年11月2日
走行区間 琉球海運かりゆし沖縄〜那覇市那覇国際YH
走行距離 72km
走破市町村 11(那覇,豊見城,糸満,具志頭,東風平,玉城,知念,佐敷,与那原,大里,南風原)
累計数 2,460
 11月1日は道東編の時のように終日船の中である。甲板に出ると同世代の青年が居るので話をすると鉄道マニアならぬ船マニアであった。目前を過ぎる吐喝喇の島々の名前を言い、そこに行ったときの話を楽しく話してくれる。世の中には色々な奴がいるものだ、と思うが先方もきっとそう考えているに違いない。
 2日の上陸前に車両甲板に行くとライダーの女の子が「御在所で有っていませんか」と話しかけてくる。直ぐに3年前のGWの石鎚編の事だと解るが私は彼女を覚えていなかった。そんなに強烈だったかな、と話すと彼女は笑う。聞けば仕事を辞めて日本1周の最中だという。那覇に上陸して記念写真を撮り、それぞれの旅の成功を祈り有って別れた。
 沖縄本島を回りはじめる前に中琉文化経済協会に寄ってこの当時必要だった台湾観光のビザ申請を行う。この許可が下りるまでの時間を利用して本島を回ろうという計画である。せっかく時間が取れて琉球まで来ているのだから小琉球と言われていた台湾にも渡ってしまおうという考えである。初の海外なのでパスポートも作ってきた。窓口が開くまで喫茶店で朝食を食べて待つ。必要書類を記入し写真を提出し手数料4000円を払って用事が終わり、今日は南部1周を行う。
 那覇から南下して、ひめゆりの搭や摩文仁の丘・平和祈念公園を見て回る。日本政府が琉球王国に対して行ってきたことや安保の中での沖縄の意味などを考えさせられる。戦跡公園以外にも玉泉洞という鍾乳洞を見てから首里に到着する。首里城の再建も終了し、公開を明日に控えている日というのも偶然とはいえ、妙に記憶に残るものだった。なお、今回の全編を通して翌年の放送が決まったNHK大河ドラマ「琉球の風」の影響は多く見られた。
 施設の綺麗な那覇国際YHに着き荷物を置く。琉球海運のYHパックは素泊まりなので、夜は琉球料理を食べるために国際通りに出て泡盛を飲んで宿に帰る。
5日目 1992年11月3日
走行区間 那覇市那覇国際YH〜伊江村民宿ぎぼ
走行距離 97km
走破市町村 9(浦添,宜野湾,北谷,嘉手納,読谷,恩納,名護,本部,伊江)
累計数 2,469
 これから3日かけて本島北部を1周して来るというゆとりの計画を立てる。まずは琉球村に立ち寄り沖縄建築や文化を見る。次に万座毛で巨大ホテル群の『リゾート地帯』を見て回り、時々海岸に出て海を見るが、決して寒くはないのだが泳いでいる美女が居なくてガッカリする。
 名護に着きオリオン麦酒の工場見学をしようと思ったが祭日は休みと言われ、代わりに市役所を見に行く。この市役所は冷房を極力使わなくて済むような設計をされている事で有名だ。祭日なので中を確認できなかったが建物の様式美も良く、ブーゲンビリアの花が咲き、芝生広場もとても気持ちよい。
 ソーキそばを食べてから海洋博記念公園に着く。熱帯ドリームセンターとアクアポリスは入場が有料であったが、イルカショーを無料で見ることが出来るのには驚いた。何より花壇等もよく手入れされており気持ちがよいので3時間も公園に居てしまい、伊江島に渡ったのは日没間近だった。船から見える家の白壁や岩山が行ったこともないエーゲ海の映像に重なって見えて気持ちがよい。
 既に時間も遅かったので伊江島タッチューに登るのを諦め、アーニーパイル記念碑を見に行く。アメリカの感傷によるこの記念碑が観光地として有り、多くの日本軍人や沖縄の民衆が無くなった場所が無名のままで居ることが多いことは深く考えさせられる。
 民宿に着くと前の自動販売機でオリオンビールが200円で売っている。この頃は発泡酒もないため本土の230円に比べると割安感で嬉しくなり、つい4缶も飲んでしまった。ちなみに価格差は税制上の暫定措置だったと思う。
6日目 1992年11月4日
走行区間 伊江村民宿ぎぼ〜沖縄市ビジネスホテル吉田
走行距離 174km
走破市町村 9(今帰仁,大宜味,国頭,東,宜野座,金武,石川,具志川,沖縄)
累計数 2,478
 朝からとても良い天気だが寝坊をしてしまいタッチューに登る時間が取れないままに伊江島を後にした。この日は沖縄本島最北端の辺戸岬までひた走るだけである。沖縄復帰までの間は辺戸岬と与論島の間に国境があり、ここは沖縄県民の本土復帰の象徴的な場所であった。岬には日本祖国復帰闘争碑があり、祖国復帰の熱い思いと米軍が残り本土なみの復帰が出来なかった無念さを訴えている。
 当初は国頭の東側を回るつもりだったが距離が長く高低差も大きそうなので来た道を戻り、大宜味村から331号線で東村に抜ける。東側の海岸は全体に寂れた感じで、辺野古や金武の米軍キャンプの側の商店は如何にも客足が減っている様子である。1982年頃にはドルが240円位していたのに、この10年間で半分の120円に成ってしまったのだから米軍兵も金遣いが大人しくなってしまうのだろう。米軍に頼る経済が有るというのも沖縄の一面である。そんな象徴であるコザの街中のホテルを取り夜の街に出てみるが、やはりすれ違う米兵は少ない。米軍依存も脱却しつつあるのかも知れないと思った。返還から20年、コザ暴動から22年後の事であった。
7日目 1992年11月5日
走行区間 沖縄市ビジネスホテル吉田〜那覇市春海YH
走行距離 65km
走破市町村 5(与那城,勝連,北中城,中城,西原)
累計数 2,483
 既に那覇は目前であるが時間もあるので朝食にタコスを食べて平安座島までの海中道路を走りに行く。両側が海の道であるが天気が曇っていたことと先の石油備蓄基地が気になり、思っていたほどは気持ちが良くはなかった。勝連城に寄ろうかと思ったが今日は期待の首里城に行くつもりだったのでパスして進む。
 首里城は再建披露開始3日目の月曜日であったが、ものすごい人混みである。これは昨日や一昨日は歩くことすらままならない状況だったろう、と思う。出来立ての首里城は朱も鮮やかで、本土の城とはあまりに違う石積み様式や建築などに、やはり沖縄は日本とは別の歴史を歩んできたことを深く実感する。
 首里城から市街地に降り、中琉文化経済協会に寄ってビザを受け取り、有村海運の事務所で那覇基隆と基隆石垣の乗船券を購入し、銀行で5万円のトラベラーズチェックを購入するなど、初めての海外旅行に向けた準備を着々と行う。この夜の宿は2日と同じ那覇市内のYHでも嗜好を変えて春美YHに泊まることにした。それでも夜は同じように国際通りの居酒屋に行くのであった。
8日目 1992年11月6日
走行区間 那覇市春海YH〜有村運輸・飛龍3
走行距離 8km
走破市町村 1(渡嘉敷)
累計数 2,484
 台湾に渡る飛龍の出航は今夜である。それまでの時間を利用して手近な島を一つでも往復して走破を増やそうと考えた。YHは離島桟橋のある泊港に近いので荷物を預かって貰い、港に行った。久米島や粟国島は船での日帰りが不可能で座間味島は往復が可能であるが最初は手近な島がよいだろうと渡嘉敷島を選ぶ。
 往復券を購入すると、本日は台風接近に伴い帰りの船を3時間早めると言う。島の滞在時間が5時間から2時間に短縮されてしまうがそれも仕方ないだろうと思い乗船し、少し揺れる船内で本を読みながら島に向かう。渡嘉敷港からは青年の家に向かう急坂を登り展望を楽しんで港に戻る。帰りの船が早くなった分だけ那覇での時間が取れるようになり崇元寺の石門や公設市場などをぶらぶらしてスーパーで船中食を購入して那覇新港に向かい有村運輸の飛龍3に乗り込む。
 この便で那覇から台湾に渡る日本人は私だけだったようで、2等船室を独り占めして岩波新書の『中国の歴史』を読みながら西に向かった。(2/3に続く)