No.78 琉球編(2/3)1/3 3/3  日本を走る ←No77No79→














旅行期間 1992年10月30日〜1992年11月25日 旅行日数:27日間
総走行距離 1,456km
走破市町村 64
同行者 無し 使用自転車:WR
総費用 432,528円 当時の年齢:28歳
9日目 1992年11月7日
走行区間 終日、有村運輸・飛龍3船中
10日目 1992年11月8日
走行区間 有村運輸・飛龍3〜台北市名香飯店
走行距離 105km
走破市町村 国外なので計上せず。以下帰国するまで同じ
 28歳になるまで海外旅行の経験が無いというのも遅いような気もするが、まとまった休みは全て国内の走破に回していたので仕方がない。しかし、今回は1ヶ月にも渡る休暇を自分に与えたから海外も組み込むことにしたのである。最初の訪問地である中華民国(台湾)は沖縄に近く船の定期便もあり、親日的な国家で筆談も可能な上に年寄りは日本語を話せ、戒厳令も5年前に正式解除され治安がよい事から、さほどの心配もなく選ばせて貰った。
 ともあれ11月6日に那覇新港を出た船は朝方に石垣島に到着し、夕方まで5時間半の自由時間を与えられる。この島は台湾帰りに立ち寄るつもりなので走破を増やすわけにも行かず自転車を船内に置いたまま歩きで市街地を巡る。八重山郵便局から郵便小包で本島の土産を自宅に送り、八重山産業祭が開かれている広場で勇敢な踊りを見たり山羊の中身汁を食べたりして楽しんで船に帰ると台湾に渡る日本人が3人ほど増えている。年輩の男性と水商売風の女性2人だった。男性は何遍も台湾に行っているようで色々な注意事項を教えて貰う。なお、台湾の人も8人ぐらい乗っているようだが部屋から出てこないので会話をすることもなかった。石垣港を出港直後に日本の主権を離れ、免税になったと言うことでアサヒのビールが100円になる!4人で大量に飲みながら国境を越えていった。
 
 基隆港に着岸前に台湾の入国審査官が乗船してきて皆のパスポートに査証を押してくれる。そして着岸してゲートを潜ろうとすると、私のパスポートだけ査証が抜けており手続き不足で入国できない。もちろん先方のミスなので港の役人が審査官を再度迎えに行く。その間に税関の青年が英語で何処に行くかとか自転車は幾らかなど個人的な興味を聞いてくる。自転車は20万はした、と倍以上の価格を言うと台湾旅行後は半額で譲ってくれ、と言う。凄くうまい話になってきたが譲ってしまっては八重山や宮古を回れないので断る。そのうち審査官が来て手続きも終えゲートを越える。もちろん同乗の旅客は誰も居なくなったような時間である。
 早速日本円を台湾元に変更しようと思うが銀行が開いていない。曜日感覚が無くなっているがよく考えると日曜日である。財布には10万円以上有るがジュース1杯も買えないというもどかしさである。基隆の街中で変えられるだろうと走り始める。しかし左右の通行帯が逆な上に人々の運転も荒くバイクも多く緊張して両替商を探すどころではない。ふっと気づくとすでに郊外に出てしまっている。台北まで頑張れるかな、と走り続ける。
 野柳を越え北端の石門を回り海岸沿いに淡水を目指す。途中で写真を何枚か撮るが軍人がよく目に付く。知らずに軍事秘密を撮影してしまいカメラを没収されないかと冷や冷やしている内に腹も減り喉も渇く。淡水手前のホテルに入り両替して貰う。為替レートはかなり悪い上に1万円札以外は受け付けないと言われるが足元を見られているので仕方がない。これでやっと飯が食える。
 食事はメニューを手帳に書き写して親父に見せるという方法で頼む。内容は文字で推測するが良く解らないので何が出てくるかはその時の楽しみである。淡水で腹ごしらえをして国立故宮博物院に至り3時間かけて見学するが膨大な展示品のごく一部を見たに過ぎない内容に心から感動する。陶器や石細工の精密さに日本の文化財は中国に追いつかないような気さえしてくる。
 台北市街に入り安いホテルを取り本屋で地図を探すが良い折りたたみの道路地図が無い。大陸との間で軍事的に秘密を多くするのか印刷技術の不足かは解らないが安っぽい地図を購入する事になる「台湾」を正字で「臺灣」と書くことをその地図で知った。夜の中正紀念堂を訪ね帰りにホテルの近くで食事をしていると日本語で話しかけてくる少し年上の女性が居る。警戒しながら話を聞くと近くのお茶屋の店主で青年会議所のメンバーだった。私の名刺を渡し両替を頼むと先ほどのホテルはもちろん銀行のレートより良い相場で変更して貰える。台湾を回った後に寄らせてもらう約束をしてその日は別れた。色々有ったが楽しい初日だった。






11日目 1992年11月9日
走行区間 台北市名香飯店〜花蓮市五洲大旅社
輪行区間 台北駅→花蓮駅
走行距離 62km
 2日は台北の街に朝から小雨が降っていた。この日は台湾東部の町である花蓮に電車で輪行を試みる。乗車券の購入も筆談である。道路標識もそうだが建物内の案内表示が漢字だというのは瞬間に認識できてとても有りがたい。つくづく漢字文化の偉大さを認識させて貰った。
 特急は幾つかの町を越え山が迫り護岸の無い石だらけの河原を長い鉄橋で渡り約3時間かけて花蓮駅に到着する。曇りの天候も有って第一印象は少し寂しい。今夜はこの町に泊まる予定なのでまずは街中で安宿を探す。市街地に行けば建物も密になり賑やかになる。なお、この花蓮の青年商会と木更津の青年会議所は姉妹提携を結んでおり毎年相互訪問を行っているので、これ以降2005年までに6回訪問している都市であり非常に馴染みの多い町になるのだがそれは後の話し。
 旧花蓮港駅近くに宿を取り荷物を預けて20km程北にある大清水断崖を見学に行く。往路で花蓮空港の海側の細い道を走っていると車から男性が道を訪ねてくる。実際には中国語が解らないので道を尋ねたかどうか確信できないが明らかに何かを探している様子である。「我是日本人・・・」と言ってみるが発音が悪くて通じない。手帳に書いてやっと理解して貰える。確かに少しの荷物で自転車に乗っているし日焼けもしているし南方系の顔だから地元の人と思われても仕方がない。
 大清水断崖の入口に着くと3000m級の山が一度に海に落ちているので日本の親不知や黄金道路より迫力のある景観だった。断崖は長距離に渡って続くので少し走ってから引き返す。明日入っていく東西横貫公路の小さな門を通りすぎ花蓮市街に戻る。市内で食べた青菜炒が妙に辛くて台湾ビールが進んだことを覚えている。
 そして腹も満たされてからアミ文化村を探して自転車で走るが場所が解らない。ホテルに戻りタクシーで行くことにする。着いてみると最終公演が始まったところで観光客は私を含め3人だけである。一緒に踊りに誘われ写真を撮られて写真代を請求されるが「不要!」と言い放つと請求も引っ込む。帰りは文化村の人が宿までただで送ってくれたので却って申し訳なかった。








12日目 1992年11月10日
走行区間 花蓮市五洲大旅社〜大萬嶺山荘
走行距離 117km
 正月の薩摩編の市房YHで聞いた峠越えが頭に残り、今回の計画では優先的に組み込んだ憧れの東西横貫公路を走る日が来た。私に話してくれた九州のサイクリストも3日かけたと言うので憧れと同時に不安でもある。少なくとも標高3100mを越える峠を1日で越えられないことは明らかなので途中の梨山分岐に有る大萬嶺山荘に泊まることを決めて出発する。
 朝から曇りで南国と言えども11月の台湾は暑くもなく快適である。新城で三明治(サンドイッチ)と木瓜牛乳(マンゴーミルク)を朝食に取り、昨日の門を通過して太魯閣渓谷に入る。最初の内はよく見たような渓谷美であるが、だんだん大理石の壁が高く、急になってきてよくぞ道を付けたと感心する断崖になってくる。特に燕子口では大理石を川の流れが鉛直に削っていった事が解るような狭く垂直な渓谷である。そこを出ると1000m近い鉛直さの崖に空が台湾島の形に見える。これは日本に比類するものがない本当に凄い渓谷であった。
 渓谷を過ぎ、少し開けた天祥に着いたらいよいよ峠越えの山岳ルートの開始である。観光バスも自動車も急激に減り、ガスで展望の利かない山道をひたすら登っていく。自転車のギヤ比が最低でも1.5も有り、そこそこの負担がかかり続け、なかなか厳しい。その上、全く店も民家もなくなり途中で昼食を取れるか不安になる。
 天祥から2時間も登った頃にコンクリートの立派な建物が出現する。中に入ると事務所のようで商店や食堂ではない。近くに食堂が有るかと筆談で訪ねようとすると「日本の方ですか」と長老の人が綺麗な日本語で聞いてくる。子供の頃まで日本語教育を受けて育ったその人(曽さん)に話を聞くとここは公路局の第四工務段という所で道路の維持管理を行っているという。私もそのような仕事をする技術者だというと、近くには食堂はないからここの職員用昼食を食べて行けと言われる。曽さんの通訳で若手技術者と話をしながら昼食を取り終え、食事代を払おうとするが受け取ってくれない。誰かに恩を返して下さいと言われ深く頭を下げ工務段を後にする。それにしても戦前の日本の気高い部分に出会ったようで嬉しくなる。
 さらに登りを重ねると空が明るくなり雲の上に突き出る。自転車で雲を抜けて雲海を見るとは思わなかった。通過しそうになった家族連れの車が止まり弁当と水とミカンをくれ励ましてくれる。弁当を食べ元気に高原を走ると下り坂が来る。せっかく稼いだ標高差を放出するのか!と思っている頃に登りに変わり大萬嶺山荘に到着する。標高は2,565mだ。山荘の親父さんには日本語が通じないので筆談で宿泊を予約する。私がその日の一番最初の客だった。近くの売店で食事をしてくる内に3人の家族連れ、若い男性2人、若い女性2人と3組の客が来る。その内の女性の1人がYMCAで日本語の先生をやっていると言うことで通訳になってくれる。男性2人はバイク1台に2人乗りで台湾を回っている学生だと言い、米酒などを飲みながら夜遅くまで話し込む。おまけに先生をしている女性は台北の案内もしてくれると言うので15日の約束をする。国際交流は実に楽しい。






13日目 1992年11月11日
走行区間 大萬嶺山荘〜日月湖青年活動中心
走行距離 93km
 夜明け前に起きて山荘前の広場で御来光を眺める。時差が1時間有るので朝の早起きも辛くない。標高も高いので夜明け前はジャンバーを着ていても寒い。これから越える峠の横には台湾で唯一のスキー場である合歓山(標高3,416m)が有るのだから寒いのも当たり前かも知れない。台湾の人達は御来光を見る習慣がないのか、誰も起きてこない。考えてみれば山小屋に泊まっていなければ私も起きていないような時間である。
 道端の売店では早くも朝粥を出しているのでそれを食べ、寝床を片づけて出発する。若い4人が起きてきて見送ってくれる。公路の最高点である武嶺は標高3,275mなので、これからまだ710mも登らなければならない。通常の大きな峠越えの標高差である。おまけに昨日1日の疲れと空気の薄さで登りが辛い。
 梨山分岐から霧社支線に入り、登り始めて40分ぐらい経つと昨日の2人組の男性がスクーターで上がってくる。追いつくと暖かな缶コーヒーを渡してくれる。言葉は通じないがこの峠に挑戦する日本人を励ましたいという熱い思いが伝わってきて嬉しくなる。そして山荘を出て2時間が過ぎたところで武嶺/標高3,275公尺の標識の建つ峠に着く。この標高は日本第2の高峰である南アルプス北岳より83m高く、富士山以外には到達できない高さである。
 頂上でしばらく休憩を取り、達成感に満たされて下山を開始する。すると未舗装道路となりパンクやスリップの恐れでゆっくり進む。長距離続くとブレーキ操作で手も疲れそうと思うがおよそ5kmで快適な舗装道路になる。日本人襲撃の歴史のある霧社の町も快適に素通りしてしまい、3時間近いダウンヒルで埔里の町に着く。気温は一気に熱帯に戻ってしまったようだ。
 街中の大きなレストランで遅めの昼食を取り、昆虫館に立ち寄り綺麗な蝶の羽のコレクションを眺める。そこから上り坂を少し上がり、日本統治時代に作られた日月潭の湖畔に出る。玄奘寺や文武廟を見て回ってから日月潭青年活動中心という、日本でYHに相当する施設に泊まる。日本の一般的なYHより綺麗である。
 ドミトリー形式なので台湾の青年と同室になる。筆談と片言の英語で彼が水道技師であることが解る。なぜ台湾では源水が良いのに水道の水を生で飲まないのかと聞く語学力が無く、もどかしい会話が続くのだった。




14日目 1992年11月12日
走行区間 日月湖青年活動中心〜阿里山美麗山荘
走行距離 16km
 早朝の日月潭の朝靄を楽しんだら水里に降りて台湾横断の部を終了し、ローカル線である集集線で輪行を行う。完全に日本建築の風景である水里の駅前で食事を取り、嘉儀まで移動する。途中の乗換駅である二水に着いたら、ダイヤが少し乱れているようで、適正な列車に乗り換える事が緊張する。
 嘉儀の駅で阿里山鉄道の窓口に向かうと「きしゃない」と近寄ってくるお婆さんが居る。何を言っているのか解らないので素通りして窓口行くと張り紙がしてある。すると先ほどの婆さんが「汽車無い。車で行く」という。あまり上手くない婆さんの日本語で案内されワンボックスカーに着く。いわゆる白タクだろうが輪行袋を持って阿里山に行ってくれれば文句はない。料金400元(=2,000円)を払い助手席に乗るが動く気配がない。運転手の青年は日本語を全く理解しないので筆談に移るが要領を得ない。20分以上もそうしていると先ほどの婆さんが他の客を連れてくる。相乗りで有る程度の人数が集まらないと行かないのだとこの時解る。程なく第3組目の客を連れ込んで車は出発する。
 走り始めると見通しの利かないコーナーで追い越しをかけるなど助手席に乗っていてとても怖い。事故が起きないように祈りながら標高差2200mを駆け登り阿里山駅前に到着する。明日が祭日とかで人出が凄く多い。客引きをしている宿の伯母さんと筆談で値段交渉をして宿泊を決める。
 荷物を置いて神木見物の散歩に出る。歩き回っている内に日が暮れる。宿でシャワーを浴びて隣の食堂で台湾ビールや紹興酒を飲みながら台湾横断祝いを1人行うのだった。




15日目 1992年11月13日
走行区間 阿里山美麗山荘〜防寮町玉山大旅社
輪行区間 後壁駅→防寮駅
走行距離 71km
 宿を夜明け前に起きて祝山での御来光を見に行く。既に大勢の人が集まり、中にはハンドマイクで冗談を言って群衆を笑わせている人もいるが中国語の冗談が解らない。そんな中で日本語が聞こえ、そちらに行ってみると青年2人が話している。私が「旅行者ですか」と聞くと台北に語学留学をしている大手商社と銀行の人達だった。日本の同胞が働いてくれているからこんな所に居れるのです、と言う。そこに企業派遣で留学をしている女性も加わり御来光を待つが雲が厚くて見られなかった。台北市内に住んでいる3人は住所交換をしているが自分の稼ぎと自分で休みを作ってここに来た私がどうも違和感を覚えそこを離れる。
 宿で自転車を組み立て、昨日車で上った道をダウンヒルする。1時間ちょっとで嘉儀の市街に戻り、昼食を屋台で食べ、北回帰線のモニュメントを見てから後壁の駅に出て再度輪行である。台湾1周の鉄道は開通したはずなのに防寮以南は動いていないと言われ、現在の終点である防寮駅までの切符を購入して移動する。
 駅に着いたら少し疲れが出てきて時間は早めだが駅前の宿を取り、夕食も取らずに寝てしまう。夜遅く目を覚まし時計を見たら11時を回っていた。小さな町だからもう寝静まってしまったかな、と町に出てみると若者も明らかに社会人の世代もウロウロしており店屋も多く営業している。夕食にありつけたのは良いがみんな何時寝ているのか疑問が残る夜だった。




16日目 1992年11月14日
走行区間 防寮町玉山大旅社〜四重渓景福旅社
走行距離 96km
 朝食を防寮の街中で取り、南下を始める。直ぐに山が海に迫ってくるし家が無くなる。横の線路を走る車両が見れないので、やはり工事中か災害の通行止めのようだ。座礁した船も放置されており侘びしさがより募る風景である。昨日から少し風邪気味で体調が不調な上に、阿里山の3名の日本人と少し会話した以外は殆ど個人の世界に入っているから精神的にも参り始めている。また疲労破壊でスポークが折れ、予備品が無いためレンチで調整したがタイヤもぶれている。
 それでも台湾最南端の墾丁国家公園に行くのに程良い青空も広がり天気は悪くない。だるい体でも坦々と走り森林遊楽区に到着する。板根の巨木や椰子の林、気根が豊富なガジュマルなど熱帯の樹木が生い茂る中に鍾乳洞などの見所も多い。海岸も爽快で泳ごうかと思ったが、透明度が沖縄より低いことと、泳いでいる間の荷物が心配な事で台湾での海水浴は行わなかった。
 鵝鑾鼻の燈台まで到達したらUターンして引き返す。恒春の町には清の時代に作られた南門が残っている。いかにも中国の風景が異国情緒をそそる。そんな異国の中に戦前の風景を残していると言われる四重渓温泉が近くにあるので今夜の宿はそこに取る。かつて昭和天皇が皇太子の時に泊まった本に書いてある景福旅社に着いてみると確かに大正時代の日本建築様式である。宿泊費も素泊まり500元(=2,500円)と安いので宿泊を決める。ただ、受付で日本語が全く通じなかったから微妙に心配になっていたが日本時代の大浴場は廃止され内湯だけとなっていた。それでも異国の旅先で温泉にのんびり浸かると体調は治りそうである。


17日目 1992年11月15日
走行区間 四重渓景福旅社〜台北市ビジネスホテル
輪行区間 防寮駅→台北駅
走行距離 32km
 温泉でゆっくりしたら防寮駅まで戻り輪行状況とし、高雄で途中下車をしながら台北を目指す鉄道の旅に入る。実は帰りに予約していた有村運輸が荷物がないために石垣寄港を中止したことを電話で知ってしまったので、那覇経由で石垣入りすると3日も船に乗り続けることになるため、有村運輸をキャンセルし、那覇までは飛行機で帰ることにして日本エアシステムに電話予約を入れた。日本語が通って本当に良かった。
 台北に出て大萬嶺山荘の日本語先生に電話するが、待ち合わせ場所を台北駅の西1番改札、WestOneと伝えたつもりがレストランに勘違いされ、合流できなかった。仕方なく1人で台北の青年会議所メンバーの店で烏龍茶を購入し、円環の屋台に行ったり酒を飲んだりして台湾最後の夜を過ごすのであった。


18日目 1992年11月16日
走行区間 台北市ビジネスホテル〜琉球海運かりゆし沖縄
輪行区間 台北駅前BS→桃園(中正)空港→那覇空港
走行距離 8km
 台北駅前からのアクセスバスで輪行し中正空港に向かう。まさか最初のエア輪行(飛行機を使った輪行の事)が海外の空港で行われることに成るとは思っていなかったのでどんな注意事項を言われるか不安であったが、普通の輪行スタイルで問題なく(なお、北覇編のシンガポールではタイヤの空気を抜かされた)、追加料金も発生しないとは意外であった。
 那覇まではあっけなく着き、入管を過ぎれば無事日本に帰る。銀行や有村運輸で紙切れを現金化し、自転車屋でスポークの交換等を行い準備を整え琉球海運の船に乗る。2等船室には自転車の旅をしている1人旅の女性であるM井さんや他の多くの旅人が居て皆と仲良くなり「離島情報」という本を教えて貰う。そんな感じで後半の沖縄離島の旅を続けるのだった。(3/3に続く)