No.99 洋上編      日本を走る ←No98釜山編No100長崎編→














旅行期間 2000年6月14日〜2000年6月18日 旅行日数:5日間
総走行距離 16km
走破市町村 1
同行者 JCメンバー大勢 使用自転車:RT
総費用 181,743円 当時の年齢:36歳
初日 2000年6月14日
移動区間 自宅〜旅客船/オリエント・ビーナス
2日目 2000年6月15日
移動区間 終日:旅客船/オリエント・ビーナス
3日日 2000年6月16日
走行区間 小笠原父島港起点日帰り
走行距離 16km
走破市町村 1(小笠原)
累計数 3,105
4日目 2000年6月17日
移動区間 終日:旅客船/オリエント・ビーナス
5日目 2000年6月18日
移動区間 旅客船/オリエント・ビーナス〜自宅
 昨年の島並編を走り終えた段階で残る自治体は164町村となり、市は因島市の走破を持って全て無くなった。こうなると、そろそろ最後の締めをどの様な形で終えるべきか考えてくる。最後はやはり特別な所、と考えれば日本最西端の与那国島に行ってしまった現状では本土から遙かに離れ、船でしか行けない小笠原村で最終章を迎えようと密かに決めていた。
 そんな中で1999年に千葉県内の青年会議所の研修事業として、小笠原への往復航路を利用して船内研修を行う『洋上スクール』が企画された。一度行った場所を最終章の地に選ぶのは耐え難いので、その年は同時期に実施された台湾花蓮公式訪問に参加することで何とか小笠原に行くことを回避する事が出来た。
 しかし、2000年の千葉県代表を地元から出すことになり、昨年の事業の引継で洋上研修を行うことが決まってしまった。それに参加する多くの人は小笠原に行けることが魅力の一つで参加してくるのだから、例えば同じような距離にある北海道や九州に行く先を変更することもできない。また、立場の上から不参加というわけにも行かない。
 その上、企画内容が詰まってくると研修メニューが多く、小笠原上陸時間は午前9時から午後4時までの7時間だけで、父島の上で夜を過ごすことも出来ない。もちろん母島へのツアーも不可能という‘行くだけ’の企画になる。今回は研修なので自転車を持ち込むことは出来ない。研修だから仕方ないと言えばそれまでだが小笠原を冒涜しているような気さえしてくる。上陸しないと言う選択肢も考えたがそれも大人げない。現地で自転車を借りて走らなければ今回は走破にはならない。しかし、一度上陸済の地点を最終段階で訪れて心から嬉しいと思えるのだろうか。
 前置きが長くなったが、そんなわけで走破の旅としては望まれない小笠原への旅が始まってしまうのであった。
 
 水曜日の午後に東京晴海埠頭に集合。船は小笠原海運の定期船でなく研修用に一部貸し切りを行ったオリエントビーナスという豪華なクルーズ船である。参加者は約100名。木更津周辺からは11人が参加している。もちろん皆今週後半の仕事は全て休みとしている。昨年の参加者の引継事項で皆が大量の酒を持ってくる。木更津からも造り酒屋が日本酒約3斗の差し入れをしてくれる。
 研修の内容は割愛する。基本的に朝5時に起床して23時まで研修が続き、午前2時まで懇親の飲み会が続くというような毎日だと思っていただければ結構だ。だから鳥島や孀婦岩の近くを通っても見ることが出ない事も地獄である。
 
 3日目になる6月16日に小笠原到着。着岸できないので沖合に停泊し、小船に乗り換えて父島に上陸する。憧れていたような悲しいような微妙な気持ちである。地元のメンバーの内、スタッフを除いた10人で行動を取る。
 8人は免許持参で来ているのでレンタバイクを借りる。1人忘れた者と私がレンタサイクルを借りて小浜海岸を目指す。着いた海は確かに綺麗で、潮の味さえ違う。そこでのんびり泳いで昼寝して、街に戻って島寿司食べて酒を飲んでいると上陸時間も終了である。船に帰ればジャックマイヨールの講演であるが映像の最中に寝てしまった。
 
 帰路も往路に増して濃い研修が続くが、皆テンションが高くて脱落するような者がいない。東京に到着し、迎えに来た人達が「変わったなぁ」というような効果であった。最もそれが継続しないのが人間の弱いところなのである。
 さて研修のことより小笠原であるが、どうしてもあの内容ではやはり納得できず、この5年後の春に自分の自転車を持って定期船で再度訪問し、母島まで行って来るのであった。しかしそれは走破の旅の番外である。ちなみにこの旅を終えて、最終章の場所は、多分日本で最も到達難易度が高いと言われる吐喝喇列島の十島村に変更したのだった。(次は長崎編