二十年後を考える
2022/11/03記
 昭和17年11月3日に旧木更津町、波岡村、清川村、岩根村が合併して木更津市となり、本日は80周年を迎えた。20年後には市制施行百周年を迎えることとなり、市では次世代をになう若者に、その頃はどの様な街であって欲しいのかを検討する集まりを設け、式典で「きさらづ未来ビジョン」として発表が成された。
 
 
 私は20年後を想像するために、逆に過去を遡って考えてみようと思った。
 
 40年前の1982年11月3日は大学に入学し、始めて一人暮らしを始めた文化の日で高校時代の仲間と遊んでいたことを思い出した。当時の国立大学は入学金が10万円で、授業料は入学年次で決められており昭和57年(1982年)に入学した私は前年度の18万円から21万6千円に値上げがされており、3年前に入学しながらも留年していた先輩は14万4千円しか支払っていなかった。先輩に比べれば高額になっていたものの、月額に換算すると1万8千円であり、同級生の中には親からの経済的支援が得られなくてもアルバイトで生活費と授業料を賄っているものが居た。これは学部に関係なく私立では極めて授業料が高くなる医学部でも同様であり、親の経済力に関わらず自分の力だけで何とか成る時代であったと体感してる。当時の学生が住む地方都市のアパートは月額3万円前後の中、私は4畳半で便所や風呂が共同のアパートに6千円で住んでおり、翌年度に教養学部のある前橋から工学部のある桐生市に移行する時に引っ越した先は日露戦争前に建設された古民家で月額1万3千円と格安であった。
 今年の夏に大学の後輩と登山に行き、彼の子どもが群馬大学の後輩になった事を聴いたが、今では入学金は28万2千円、授業料は年額で53万5800千円となり、とてもアルバイトで賄える額ではなく親もそれなりの経済力がないと国立でも入れることが出来なくなったと聞いた。当時も今も吉野屋の牛丼は400円前後で変わっていないと思うし、ガソリンに至ってはオイルショックの影響で今より高い170円前後であった記憶がある。携帯電話は無かったが固定電話も権利が8万円以上しているなかで自宅でない学生は個人の電話を持っていないことが普通であった。その頃、NECから日本語対応のパソコンとしてPC9800が販売され情報革命が始まった頃であり、SNSは当然として、この様なHPも世の中に存在していないが、生活のレベルでは現在と大きな差は感じられない。バブル開始前で企業の採用が少なく閉塞感が漂っていたものの、今より明日は必ず良くなると信じていた頃だった。
 
 30年前は日本道路公団を退職して地元に戻って仕事を行う中で消防団や青年会議所の活動も行い多忙な日々を送っていたが、富津市での建築工事の監督を終えて現場を一月休み、沖縄から初めての海外旅行として台湾に出かけていた頃である。当時の台湾はビザが必要で、アジアの多くの国々は治安も悪く簡単に入国すること出来なかったし日本との経済格差が圧倒的であった。格安な海外旅行が始まる前であったが、日本はバブルの余韻の中で経済成長が続くと信じていたように感じる。
 
 20年前は日韓ワールドカップが開催された年であり、私は青年会議所の一員として現在の渡辺市長とともに四市合併に向けて協議会の設置を求める署名活動をしながらも袖ケ浦市議会が否決したことにより「ダメ人間」に成っていた頃である。この頃はSNSが発展していない時代でHPの掲示板機能が情報を共有する場になっていた。その頃に覚えたHPの作成能力を今でもこの様に使用している。仕事は八幡台の西側の山を開発して現在の羽鳥野を造成していた頃であり、羽鳥野BSの設置に向けて旧道路公団と協議を開始する少し前の頃である。日本経済はバブルが弾け、木更津市では地価の下落が続き、多くの土地区画整理事業が採算的には行き詰まり、特に千束台については長いトンネルに入った頃である。東西冷戦が終結し世界は同じ方向を向いて発展すると思っていたところにアメリカで同時多発テロが起きるなど、対立軸が混沌とするなかで日本の凋落が見え始めた頃だったように感じる。
 
 10年前は水越市政の中で市議会議員になっており70周年式典にも出席している。木更津市はバブルの後遺症とも言える土地開発公社の借金を返済するために職員の給与も切りつめる中で地域の要望に応えることも出来ず、木更津市は負け組と言われていた頃であった。バブルの崩壊で多くの会社が消え地域経済が低迷する中では有ったが、アクアラインの通行料金を800円とする社会実験が始まり、この年の4月11日には金田東地区のまちびらき式典が開催され三井アウトレットパークが開業するなど、現在の木更津の盛況は、この10年間の出来事だと考えるべきである。
 
 20年前に現在の木更津市の姿を想像できなかったように、市制施行百周年を迎える頃の日本の経済力や地域の状況を想像することが難しいことが改めて解った。明らかなことは現在の人口減少が停まることは難しく、昭和の頃に整備されたインフラは危険なレベルまで老朽化が進むことである。社会はAIが導く明るい方向に進むのか、地球温暖化が加速した過酷な環境で苦しむのか見通しが着かない。富士山の噴火や海溝型大規模地震もそれまでに経験する可能性は否定できないし、国際情勢はどの程度の戦争と悲劇を繰り返すのか、中国やロシアなどの広大な国土をもち複数の民族が居る国々は更に複数の国に別れるのか朝鮮半島は一つの国になるのかも解らないが世界地図は今とは違う形になっていることが予想される。可能性は低いが沖縄が日本から独立したり千島列島が日本のものに成ることも有り得ない訳ではない。君津市や富津市で人口の減少が止まらない場合は四市合併も有り得るだろうし、それより深刻な安房郡や夷隅郡まで木更津市や市原市が広域的に統合することも想定するべきである。
 
 元号法が変わらず今上天皇の代が続くので有れば令和24年を迎えることとなり、その頃には私は78歳になっており、議員を引退しているものと思うし健康を維持しているか不明である。来年小学校に入学する私の娘は26歳となっており、木更津市に残っているか、そもそも日本にいるのか見通せない。見通せない中でも娘を含め、今の子どもたちが木更津市で不自由なく暮らし、学び、働けるように、私達は様々な政策を積み重ねていく事が重要な責務であると、本日の式典の中で考えていた。