木更津市史富来田編抜粋 木更津市史(富来田編1・2)・君津市史・富津市史・袖ケ浦市史
富岡村の分村合併
町村合併は、昭和20年後半から昭和30年始めにかけて行われた市町村最大の行政課題であった。各市町村とも合併に努力したが、ここでは当初馬来田・富岡・中川・平岡の四村合併より二村分割合併となった富岡村の経緯を年月日にしたがい、たどってみる。
国は、昭和26年(1951)頃から市町村の規模の合理化を指導し、昭和27年(1952)には地方自治法に合併促進措置を加え、千葉県でも郡ごとに町村規模合理化適正促進審議会がつくられた。
昭和27年(1952)11月17日県出先機関である君津地方事務所は、馬来田・富岡・中川・平岡の四村合併の試案を関係村に示した。
これをうけて、中川村は12月12日、富岡村は翌昭和28年(1953)2月1日、馬来田・平岡村は9月1日にそれぞれ町村適正規模調査委員会をつくり、検討にはいった。
昭和28年(1953)10月には町村合併促進法が施行された。
これは三年間に適正規模町村をつくり、財政基盤を強化するのが目的で、明治の町村制に匹敵するもので四〜五力村の合併により、人口八千人程度の町づくりを目標としたものであった。
このような情勢下に昭和29年(1954)2月3日関係村ごとに、村長・助役・議長・副議長など七名構成による四村合併促進協議会が設立され第一回会議が開かれた。その後、数度の会議で基本的には合併は了承されたが、一部の問題については結論がえられなかった。
4月26日富岡村の平川合併地区(以下西部という)代表は、四村合併の実現を富岡村長に、あるいは関係機開に申し入れた。
6月28日富岡村の合併促進協議会は、四村合併を決定し、30日、四村合併協議会も、四村合併を決定した。
7月10日四村合併協議会は、庁舎位置で馬来田・富岡両村は馬来田駅付近、中川・平岡両村は横田地区と対立し決定せず、7月20日までにまとまらない場合には、四村合併協議会も四村合併も自然消滅となることを申し合わせ、最悪の状況で会議を終った。
引き続き、関係者は努力したが、解決の道はなく、四村合併は進まなかった。
9月初めに君津地方事務所は、将来の四村合併を目標に馬来田と富岡、中川と平岡の二村づつの合併案を示した。
それにしたがって、9月6日中川・平岡両村は、二村合併協議会をつくった。
10月10日君津地方事務所の二村合併案に反対の西部住民代表は、馬来田合併地区(以下東部という)議員に、四村合併を実現出来なければ、西部は分村するという申し入れがなされ、村内各方面で調停工作がはかられたが、成功しなかった。
12月12日に西部住民は、富岡第二小学校で地区大会を開いて分村の決議をした。
その間、村内の西部と東部の住民の感情対立は、有識者の心配をよそにますます激しくなっていった。
昭和30年(1955)2月11日、富岡村議会は、将来の四村合併を前提とし、2月15日の馬来田村との二村合併を議決した。
また同11日、中川・平岡二村は合併し、平川町が誕生した。
同月15日西部代表は、県知事に分村を陳情した。
このようにさしせまった状況下に3月1日富岡村議会は開かれ、2月11日の議決を変更し、分村のうえ馬来田村と合併し、西部地区の平川町編入合併を議決した。
このようないきさつで、3月31日富来田町は誕生したのである。
なお、富来田町誕生前後に、小櫃村内数地区から、富来田町に分村合併の運動もあったが、小櫃村は分村をさけた。