富津市史抜粋 木更津市史(富来田編1・2)・君津市史・富津市史・袖ケ浦市史
富津町(昭和30年3月31日合併)
合併関係町村とその沿草
昭和30年3月31日、富津町、青堀町及び飯野村の三ケ町村は合併して新たに富津町を設置した。
富津町及び青掘町は、明治22年の合併により富津村及び青掘村として発足、前者は明治30年12月1日、後者は大正15年4月1日町制を施行し、飯野村は、同年の合併により設置されその後変更なく現在に至った。
合併を必要とした事情
当地区三ケ町村は、農、漁の生産品が互に需要供給の関係にあり、連たん地区の商業が当地方の農漁業者を主要な顧客とする一の経済圏をなしていた。したがって自然に生活関係が密接でそれに伴って三ケ町村の公的協力関係も多く、用水組合、耕地整理組合等が組織されている。
殊に戦後における自治行政の面から、各町村共合併による行財政力の強化を必要としていた。
合併経緯の概要
当初地方事務所が策定した案は青掘町、君津町、周南村、飯野村及び貞元村の五ケ町村の合併を予定していたが、その後町村合併促進法の制定があってから右五ケ町村の外に中村を加えた六ケ町村合併の線が打出され、関係町村が共同して合併に関する調査研究をすることとなった。しかるに君津町、周甫村、貞元村及び中村の四ケ町村は、一地区として合併を実現しようとする線が濃厚になったので。昭和28年12月にいたり、大貫町、佐貫町、富津町、青掘町及び飯野村の五ケ町村案が打ち出され各関係町村は合併の研究協議会を組織してそれぞれ住民の啓蒙にあたると共に、世論の調査に努めたところ青堀町、富津町及び飯野村三ケ町村の住民の間に三ケ町村のみの合併を希望する向が圧倒的に多いことが判明した。これより先青掘町においては、昭和28年4月15日、町長、町議会議員5名、商工代表1名、農協代表1名、青年団代表1名、教育委員会代表1名、その他学識経験者1名計11名をもって、飯野村においては、同年4月2日、村長、助役、議会正副議長、外に議員代表1名、一般村民代表2名計7名をもって、また富津町においては、同年8月25日、町長、助役、町議会議員13名、商工代表1名、婦人会代表1名、青年団代表1名、PTA代表1名、農協代表1名、漁協代表1名計21名をもってそれぞれ町村適正規模調査委員会を設置して、その時々の惰勢に応しながら前記の合併案について研究調査を行うと共に促進のために努力を続けてきたのであるが、研究調査の進展と共に前記のような三ケ町村住民の意向が明らかになり且一つ、一方昭和29年3月31日には、君津町、周南村及び貞元村の三ケ町村合併が実現したので、関係三ケ町村(富津町、青掘町、飯野村)は、同年4月14日三町村合併促進協議会を組織しその実現に努めることに決定した。その構成員は次の通りであった。
富津町 佐久間清、古宮恒雄、岩崎一男、森田仁平、鈴木初太郎、斎藤三五郎、田中不二夫
青堀町 小泉周治、秋元猪吉、麻薙惇三、永塚理一郎、森田勘助、本田政司、三辻時三郎
飯野村 石井甚之助、石井長蔵、山田作治郎、長島精、稲村利三郎、川名黒、林政隆
三ケ町村合併促進協議会は、発足以来翌昭和30年3月中句にいたるまで十数回にわたって協議を重ねその過程において、各町村30名から成る合併研究拡大協議会を組織する等、大いに推進に努めるところがあった。8月中旬にいたり飯野村は住民の総意に基き正式に合併に賛同の意を表明したが、富津町の世論はいまだ完全に統一するにいたらず正式に賛意を表明することを留保していた。その後10月18日の協議会において富津町も正式に賛同し合併が決定したので、大貫町及び佐貫町に対して三ケ町村合併促進協議会の右の結論を伝達しその交渉を打ち切る等の処置をとった。
かくて同年12月には新町の名称、役場の位置及び出張所、新町の組織機構、財産営造物及び各種団体処理等をはじめ合併に関する基本的条項が協定される等着々として合併の準備が進められ、昭和30年1月30日に各関係町村議会は、それぞれ合併案を可決した。(青掘町において反対が一名あったが別段問題はなく他はいずれも満場一致であった。)
新町の名称
新町の名称については、慎重な考慮が払われたが、富津町は日本武尊東征の伝説に因む名称であるばかりでなく近来県立公園の指定があり、海水沿場その他観光地として有名であるので新町の名称を富津町と決定した。
大佐和町(昭和30年3月30日合併)
合併関係町村とその沿革
昭和30年3月30日、大貫町と佐貫町は合併して大佐和町を設置した。
大貫町は、明治22年の合併により大貫村として発足、昭和12年4月1日、吉野村と合併して新たに大貫町を設置して現在に至り、佐貫町は明治22年の合併により設置され、その後変更なく現在に至った。
合併を必要とした事情
両町は、農業を主要産業としそれに若干の水産業、商業を含み、経済上の立場を同じくするばかりでなく人情、風俗、生活環境が同じで一個の社会経済圏を構成していた。一方戦後における地方自治の実情は、両町を合併して自治体の行財政力を強化し、時代の要請に応えることの必要な状態にあった。
合併経緯の概要
両町の合併が実現するまでには幾多の変遷があった。当初は大貫町、佐貫町及び富津町の三町合併案が取り上げられたが合併の見通しがつがないままに、右三町に青堀町、君津町、飯野村、貞元村及び周南村の五ケ町村を加え八ケ町村合併案が生れた。しかしながらこれは幾何もなくして実現不可能と見込まれ、三転して富津町、大貫町、佐貫町、青掘町及び飯野村の五ケ町村合併案が検討されるにいたった。この第三案は相当に実現の可能性を備えていたのであるが関係町村の間に意見が一致せず進展をみるにいたらなかった。
その間に富津町、青掘町及び飯野村の三ケ町村合併が確定的なものとなったので、ここに両町合併案が最終案として打ち出されたのである。
かくて両町は、さきに(昭和28年11月1日)設置されていた適正規模調査委員会委員の合同会議を昭和29年12月20日、大貫町役場において開催し、両町合併の基本的態度を明確にし、さらにこの合併を具体的に研究し促進するため昭和30年1月5日、それぞれ、町長、助役(大貫町は2名)、議会正副議長、議員2名、民間学識経験者2名からなる合併研究小委員会を設置した。その後合併小委員会及び適正規模調査委員会は、各別にあるいは合同して、合併後における議会議員等の身分、任期の問題、新町名等について協議を重ね略々それらの事項を内定し、同年2月7日両町合併促進協議会を設置して更に合併に関する事前協議事項の決定を行った。
その構成員は次の通りであった。
大貫町 斎藤行蔵、金木豊、榎本市蔵、榎本吉太郎、佐野清太郎、池田弥太郎、佐瀬三郎、下間机、小駒義一、三木仙太郎、白井長治、大野たか、平野重一、山口卯之松
佐貫町 阿部正基、五月女中、大森潤、三木三治、小川信吉、宮荘七、三平良、砂野留五郎、中山昭司、綾部登良、平野寿
その後合併の協議は早急にまとまり、昭和30年2月9日、両町議会は、いずれも満場一致で合併案を議決した。なおその際附帯事項として「本合併の規模は、いまだ満足すべきではないと思われるので将来四隣町村との協議により理想的大規模の合併を切に念願するものである。」旨が議決された。
新町の名称
新町の名称については「佐貫町」の名称を存続すべしと主張する佐貫町側と「大貫町」を主張する大貫町側との意見が対立し数回の協議が行われたが解決せず、佐貫町側から「大佐貫町」の提案があったが依然大貫町が同意せず結局大貫町の「大」と佐貫町の「佐」をとり、両町の完全和合を表徴する「和」の字を加えて「大佐和町」とすることに意見の一致をみた。
天羽町(昭和30年3月31日合併)
合併関係町村とその沿革
昭和30年3月31日、湊町、天神山村、竹岡村及び金谷村の四ケ町村は合併して新たに天羽町を設置した。
湊町、天神山村及び竹岡村の三町村は明治22年の合併により設置され、その後変更なく現在に至り、金谷村は、当時大村であったので合併を行わず、現在に至った。
合併を必要とした事惰
当地区各町村においては、農林産物資と水産物資とが相互に需給関係にある上に湊町の商業はこれら近隣農漁村を主要な顧客として存立し、一つの社会生活圏を成していた。一方、関係各町村は、湊町の人口4600余を除ぎいずれも人口2,3千に過ぎない小村であって、合併によって行財政力を強化し新時代における自治行政の要請に対応することの必要に迫られていた。
合併経緯の概要
君津地方事務所の合併試案では、湊町、環村、関豊村、天神山村、竹岡村及び金谷村の六ケ町村を一地区とする合併が予定されそれに基いて関係各町村の間に協議が進められたが、種々の事情から容易に意見の一致をみるにいたらないので、改めて純農村である関豊村、環村及び天神山村の三ケ村と海岸地帯である湊町、金谷村及ぴ竹岡村の三ケ町村のニブロックに分割して合併を促進することとなった。しかしその後天神山村の態度が変り湊町、金谷村及び竹岡村との合併案に賛同するようになったので再び六ケ町村合併案が検討されたが環村は最後まで同調せず遂に関豊村及び環村のニケ村を除き、四ケ町村のみの合併が実現することとなった。湊町は昭和27年12月20日、金谷村は同月27日、竹岡村は翌昭和28年4月17日、天神山村は同年9月17日それぞれ町村合併促進委員会を設置し世論の統一に努め翌昭和29年二月
1日、関係町村合併促進協議会を設置して、合併を具体的に進めることになった。その構成員は次の通りであった。
湊町 高梨三郎、神子武治、川合完、笹生芳郎、大南静祥、高梨健、藤井武、田中重一、加藤信太郎、中後辰五郎、神子伝
天神山村 早川隣、藤崎広、鈴木了玄、石和田万二、神作太市、林朗、秋元庄治、山崎利、小柴一二、神子隆義、斎藤栄、片山弥
竹岡村 宮崎君夫、鈴木荘三、染谷与助、角田孝、小宮保西郎、石井与兵衛、石井隆、斎藤由太郎、神谷金之助、荒井義雄、鈴木大仙
金谷村 鈴木四郎右衛門、黒用兵治、三佐崎孫一、鈴木富美雄、山田荘司、安田博次、金木清治、諸岡逸作、黒用政次郎、宮田栄二
かくて町村合併促進協議会は、設置当日、合併基本条項及び諸般の事項を決定して以来、数回にわたって会議を開き新町建設計画の策定等をはじめ重要事項の協議を進め、やがてその決定をみた。かくて関係町村議会は、昭和30年2月5日合併案をそれぞれ満場一致で可決した。
新町の名称
新町の名称に「天羽町」が選ばれたのは、往時、当地方が天羽郡に属していた事実によったものである。
峯上村(昭和30年4月25日合併)
合併関係町村とその沿革
昭和30年4月25日、環村と関豊村は、合併して峰上村を設置した。
環村は、明治22年の合併より環村及び駒山村の二村として発足、昭和12年4月1日、両村が合併して新たに環村を設置し現在に至り、関豊村は明治22年の合併により関村及び豊岡村の二村として発足し、大正15年4月24日、両村が合併して新たに関豊村を設置し現在に至った。
合併を必要とした事情
両村は、相隣接する純農村で人情、風俗を同じくし、人事関係も密接であって生活上の利害を共通にしていた。一方行政面においては、関豊村の児童の一部が、環村立小学校に通学している関係や、峰上土地改良区を通しての両村の協力関係等もあり、両村の協力関係は極めて緊密であって、十数年以前からi一部住民の間には合併への機運が動いていたのである。
合併経緯の概要
両村とも昭和28年10月、村長、村議会議員、各種団体代表者等をもって構成する町村合併促進委員会を設置し、合併に関する調査を行うと共に、その促進に努めたが、その方向は関豊村が天羽地区六ケ町村合併を目標としていたのに反し環村は、六ケ町村合併には反対でニケ村合併を目標としていた。しかも環村においては、一部において合併反対の機運があり一部においては天羽地区六ケ町村合併を主張する者もあって容易に全体の意見の調整がとれなかった事情もあり、この両村の合併は、当初から同一目標の下に進められたのではなかったが、昭和30年2月、天羽地区の他の四ケ町村の合併が確定的なものとなったため、両村は、二村合併を行う外ないという結論に達し、昭和30年3月14日、両村の町村合併促進委員会の決議に基き、両村合併促進協議会を設置した。かくてこの協議会において合併の促進を図り基本的意見の一致をみて、新村建設計画等をはじめ諸般の事項の協定が進められた後、昭和30年3月24日、両村議会は将来天羽町と第二次合併に向って進むべきことを前提として満場一致をもって合併案を可決したのである。
新村の名称
新村の名称は、合併促進協議会委員全員の賛成によって峰上村と決定した。蓋し往時から天羽郡の南部(当地方一円を含む)は「峰上」の名をもって呼ばれ、現在もなおこの名称で当地区を呼ぶ者が少くないのでそれに因んだものである。