君津市史抜粋 木更津市史(富来田編1・2)・君津市史・富津市史・袖ケ浦市史
君津市の誕生
八幡製餓株式会社の進出が決定し、昭和37年(1962)1月から工場建設地の海岸埋め立てが開始され、昭和43年には第一高炉の火入れが行われた。
君津町(第二次)の人口増加は昭和40年来続いていたのであるが、町の区域拡大及ぴ人口増により、税収(主として償却資産税)の増加をはがり、財政を強化し、市街地整備と人口増加による諸施設の建設等投資的事業に対応することを考慮し、さらには合併した町村とともに栄えていくことを念頭におき、近隣市町村へ合併を働きかけた。
君津郡市広域市町村圏事務組合は君津町の申し出により合併推進協議会を設け協議を行ったが、なかなか協議は整わず、最終的には君津町ほか四か町村が合併することになり、昭和45年9月28日第三次君津町がようやく誕生した。1年後の46年9月1日市制を施行し、君津市が誕生した。
合併及ぴ市制施行後は、新町建設計画、統いて五か年計画などを策定し、これにもとづく諸施設の建設も行われた。昭和51年には市役所新庁舎も落成し、市街も区画整理事業の実施により整っていった。
五か町村の合併
合併の経緯
昭和30年代後半から経済の高度成長は臨海部の重化学工業を中心とした工業開発、内陸部には宅地開発と水資源開発など、急速な地域開発の進展にともない市町村行政もまた大きな影響を受け、行政の広域化の必要性が生じてきた。
君津町では海岸埋め立て地域に進出した八幡製鐵株式会社(現、新日本製鐵KK)等から納付される固定資産税のうち、46年からの5年間に償却資産税約162億円が見送まれるが、地方税法の定めにより課税限度額があり全額課税できず、君津町の税収は約4分の1の46億円と予想された。人口増加及ぴ区域拡大により課税限度を引き上げることができた。そのため君津町は合併により税の増収をはかり、財政力を強化し行政の基盤強化をはかることを計画した。町長は町議会に対し合併調査を要望し、町議会は昭和44年6月「市町村合併調査委員会」を設置し先進地の視察を行い、委員会を数回開催し調査研究を重ねた結果、次のとおり議長に報告した。
@市町村合併は対等合併とする
A合併の条件として大規模償却資産税を町の建設事業並びに町内整備に投資し予算構成はタッチゾーン方式を採用し五力年計画とする
B新名称は君津市とすること
C庁舎の所在地は君津町内とすること
D合併の範囲は南部六町村、又は小糸町清和村及び木更津市が考えられる
町議会はこの報告をふまえ、協議の結果「合併すべきである」と決断した。町長は慎重を期し、さらに「君津町合併調査研究会」を設け、町民の意見を聴取し合併に対応すべく準備を進めた。
これより先、君津郡広域行政協議会は市町村合併研究専門部会を設け合併に対する研究と協議を重ねたが、進展しなかった。昭和44年12月この協議会は君津郡市広域市町村圏事務組合に組織替えし、組合の中に市町村合併推進協議会を設けた。45年1月鹿野山荘にて君津郡市(一市九町二村)の市町村長及び県係官の出席による協議会が開かれた。その席で、新日本製鐵株式会社等から納付される大規模償却資産税の地元還元により財政力の強化をはがり、自治体としての基盤整備することを目的に合併の提案がなされた。このとき君津町から議員の任期の昭和45年9月末までを合併期限とする条件付きであった。
ことは急を要し、同年5月10日までのわずか一か月の間に四回協議会を開催したが、九月合併は早急で準備不可能であり、46年4月君津郡市全域によって合併すべきとする町村と、君津町から申し出の9月合併が実現しないならばその後の合併は困難とする二派に分かれた。合併推進協議会長である木更津市長は後者に賛同したため、全郡市合併は中断した。
一市三町二村の合併案
昭和45年(1970)5月16日、君津町に賛同する木更津市、君津町、小糸町、清和村、上総町および小櫃村による合併予備協議会設立準備会が開催され、予備会議の機構および規約の協議がなされ、5月20日には設立総会が木更津商工会館で開催された。会長には木更津市長北見日吉、副会長には君津町長鈴木俊一、同小糸町長鎌田賢治が選任され、協議会委員は各市町村9人ずつ、計54人で構成された。さらに細部の検討機関として特別・総務・財政・計画の四部門が設けられた。
以後、特別委員会は3回、予備委員会は2回開かれたが、庁舎の位置、新市名をめぐり協議は暗礁に乗り上げた。君津町は「君津市」及び庁舎は君津町に、木更津市は「木更津市」、庁舎は暫時木更津市に置くとした、まったく相反する意見となった。
そこで当事者を除いた小糸・清和・上総・小櫃の四町村長はこの斡旋調停にあたり、いくつかの新市名を候補にあげ検討を重ねたのち、最終的に「君津木更津市」と定め、両首長に提示し、7月5日ごろまでに諾否の回答を求めた。両者は議会及び地元合併調査研究委員会に諮り、また君津町は客地域ごとに座談会を開催し、町民の意見を聴いて新市名を受け人れることとした。木更津市は議会も住民も難色を示し、合併は時期尚早ということになった。この回答は四町村長に通知された。この回答を受けて開がれた六市町村合併予備協議会は、「合併は不可能になり会の存続理由が消滅した」として、わずか58日にして45年7月16日解散した。
君津町ほか四か町村合併協議会
解散後木更津市を除いた君津町、小糸町、清和村、上総町及び小櫃村の五町村は直ちに非会式な協議を開始するとともに、君津郡南部の町村、すなわち富津町、大佐和町、天羽町の三町に合併の呼びかけを行ったが、三町とも同意を得ることはできなかった。
昭和45年7月1日、君津町ほか四か町村合併協議会設立準備会を開催、設立総会提案の議案等を協議した。準備会は終始友好的に進められ原案を決定し、7月18日には上総公民館において合併協議会設立総会を開催、協議会規約の制定、協議会委員、同役員、幹事を決定し、さらに合併の基本方針、今後の日程等が決定された。
昭和45年8月6日第二回協議会を君津中央公民館において開催、合併に要する重要案件12件を審議、役場の位置も現位置、名称は君津町と異議なく決定した。第三回協議会は8月8日開催、合併の時期を9月28日と決定し各町村とも議会を開催し、合併に要する議案の議決を行うことを決定した。
この協議会は、先に木更津市ほか三町二村との合併協議の破談に引き続きの協議であったために、異例の速さで進行した。しかし、住民の間には合併の地域が広大であり、交通の便、本庁への連絡、支所の機構等不安が一部にあったが、これらの不安も説明することによって了解された。8月11日、五か町村は臨時議会を開催し、合併の議決を行った。
同月13日知事に町村廃置分合についての申請をし、昭和45年9月28日新生「君津町」(三次)が誕生した。この時の人口は64,328人、面積310.77kuであった。市域面積は海岸埋立地が順次編人され、ますます広がっていった。
合併を祝う式典は、昭和45年12月1日君津町立君津中学校体育館において内外来賓1300人余りを迎え盛大に挙行された。