袖ケ浦市史抜粋 木更津市史(富来田編1・2)・君津市史・富津市史・袖ケ浦市史
袖ケ浦町の誕生
昭和27年(1951)1月、千葉県は町村合併の推進力を組織化するため、各郡ごとに町村規模合理化のための協議会または委員会を組織させるよう地方事務所へ指示した。そして、9月1日に千葉県町村規模適正化促進審議会を設置し、この審議会の審議を経て全県的仁調整した「第一次町村合併計画案」を作成した。この計画案では、君津郡にある32町村は9町村にまで滅少することとされた。
昭和28年10月1日、3か年の時限立法として町村合併促進法が施行されると、千葉県でも「千葉県町村合併計画」を策定することとなり、昭和27年の「第一次町村合併計画案」に再検討を加え、昭和29年3月31日に策定された。これによると、昭和町、長浦村、根形村は金田村、中郷村との五か町村合併が考えられていた。しかし、昭和町を除いては、海岸地帯と農村地帯との人情や風俗の相違を埋由とする反対論や、町村合併そのものへの疑惑が表明されたりして、五か町村の歩調を合わせることはできなかった。千葉県側も、この間の情勢変化に応じて町村合併計画の一部を変更せざるを得なくなった。
そして、昭和30年1月20日、4月仁迫った地方選挙前に合併未了町村の合併を強力に推進すべく町村合併計画を整埋し、昭和町、長浦村、根形村の三か町村による合併案が提示された。
この合併案が提示される直前の昭和30年(1955)1月7日、長浦村では町村合併促進協議会が開催され、三か町村による合併への対応が協議されていた。協議会では、長浦村議会が村民大会を開いて合併の賛否を決する意向を示したことが議題として取り上げられ、
「新設合併をすると仮定した場合は町村対等の立場で合併を促進するよう決定する。その前提として、村民大会を開き広く村民に合併の趣旨等を周知せしめ、合併の賛否を決定すること」が結論とされた。
こうして昭和30年2月25日午前9時10分から長浦小学校講堂で長浦村村民大会が開催され、「現下の地方公共団体自治の財政の危機は、一に歴代政府の無定見なる失政の結果である。従って我々は四千九百村民の名仁おいてかかる事態収拾のため昭和町、長浦・根形村の三町村合併を強硬に促進し、住民の福祉を計り、県財政議会に参与を求め」という決譲をなし、次のような宣言を発表した。
宣言
政治経済諸情勢の推移に鑑みても、国家再建の大道は地方公共団体自治財政の自給度を高めると共に、最近顕著になりつつある地方疲弊をいやし、町村自治体の経済の基盤を確立せずには求められない、これが解決については町村合併促進法により理想的町を建殻し、町村財政の窮追に拍車をかけるが如き無定見なる諸施策を実施しようとする政府政党を排斥する、現在の町村財政は崩壊の寸前にあり事態はまさに急である、今にしてこの痼疾を除去せんか町村財政の自立の崩壊は必至である、ここにおいて長浦村民は本日の大会に結集し、四千九百村民の名において昭和町、長浦村、根形村の町村を合併し、県政に参与を選出し地方自治体の確立を期す
右宣言する
この村民大会にみられるように三か町村の合併は問題なく進められるかに思われたが、平川町に隣接する根形村の三黒、谷中、岩井の三部落において住民全員が平川町への合併を強く希望したことにより、根形付は分村することになってしまった。村民大会からほば一週間後の3月2日、三か町村で議会が開催され、三黒、谷中、岩井の三部落の分村を認めた上で、昭和町、長浦村、根形村の三か町村による合併が満場一致で可決された。昭和30年3月31日、人口13,776人、土地総面積36平方キロメートルの袖ケ浦町が誕生し、宮崎音三が町長職務執行から引き続き初代町長に就任した。
平川町の誕生
昭和27年(1952)に作成された「第一次町村合併計画案」によって、君津地方事務析は同年11月17日に平岡村、中川村、馬来田村、富岡村の四か村による合併案を示してきた。これにともない中川村では昭和27年12月12日に、富岡村では昭和28年2月1日に、そして平岡村、馬来田村では共に昭和28年9月1日に町村適正規模調査委員会を設置し、各村内における合併への機運を醸成して合併に関する諸般の調査を進め始めた。また、四か村による協議を進めるため、各村の村長、助役、議会正副議長、議員代表一人、学識経験者一人、庶務主任の合計七人からなる四か村合併促進協議会を昭和29年2月3日に設置して合併活動を積極化した。
この協議会は設置以来数回にわたって協議を進めたが、昭和29年4月頃から新町の役場位置について結論を得ることが困難な形勢になっていき、7月上旬に至り暗礁に乗り上げてしまった。この時の状況は、平岡村と中川村は中川村大字横田を主張し、馬来田村と富岡村は国鉄馬来田駅付近を主張する、平岡、中川二か村対馬来田、富岡二か村の対立という構図であった。この意見対立は予想以上に深刻で、地方事務所長の斡旋にも拘わらず四か村合併は当分不可能となった。そこで9月上旬に、将来的に四か村合併を目途とするも、一まず平岡村と中川村、馬来田村と富岡村の二か村合併をそれぞれ行うという解決案が示され、四か村合併促進協議会は解体となった。これを受け、平岡村と中川村の二か村は次の構成員による二か村の合併促進協議会を9月6日に設置した。
〈平岡村〉大野広吉・清水喜一・高吉平蔵・吉堀慶一郎・長島俊一・武井清次
〈中川村〉長谷川若名・千葉一胤・鶴岡兵蔵・内海禰・金子政次・内海保三
こうして昭和29年12月17日に平岡村と中川村の村議会で共に合併案が満場一致をもって議決され、昭和30年2月8日に閉庁式、そして2月11日に新町として平川町が発足した。
ところが、この間に富岡村の住民の中から馬来田村との合併に反対する意見が強く出され、馬来田村と富岡村の合併に関する住民の統一を図ることができない事態が生じていた。富岡村の住民の中にはなお四か村の合併を主張する人々、さらには小櫃村を加えた五か村合併を主張する人々、あくまで平岡村との合併を主張する人々がおり、二か村合併を簡単に行うことはできなかった。既に四か村合併が暗礁に乗り上げた昭和29年7月時点で、平岡村と中川村の合併案に沿うという富岡村の住民416名の記名捺印入りの次のような「合併促進同志誓約書」が提出されていた。
富岡村立富岡第二小学校学区は阿部、堂谷、打越、滝ノ口、大竹、吉野田、岩井作、玉野、下宮田、上宮田の十部落を以て構成され、常に教育愛の精神に燃え学校の施設方面を始め公共の為には絶大なる協力を惜しまざる事は普く知る所なり。今回の町村合併に就いては当局並適正委員の熱烈にして、然も適切なる尽力により漸く四ケ村合併の望ましき出発を視るやに至り、偶々中央庁合位置の問題にて事態は深刻となり、住民の永年に亘る禍福の分岐点なれば此の際一切の行掛りを棄てて斉しく横田案支持に傾き、さきに提出せる上申書によって村当局並議会議員諸氏の深き同情にすがり、この実現方を要請いたしましたのでありますが、未だ何等の曙光も発見出来ず甚だ遺憾とする所であります。依って吾々は一層団結を堅囲にし、真に一丸となりて理想郷建設の為に又学校保持の為に総意の趣く所を表明すべく記名捺印して次のニケ条を遵守するものであります。
一、合併後は如何なる障害ある事態に立到るとも、子弟教育に関して部落単独行為は必ず行はざること
二、昭和29年7月18日富岡村立第二小学校議堂に於て誓約せし通り、如何なる場合と難中川、平岡の提案せる町村合併の線に沿い絶対変更せざること
しかし、馬来田、富岡両村の当局者はその後の協議を進める中、合併の時期が既に到来しているものと考え、昭和30年2月11日に両村議会で二か村合併案を議決してしまった。これに対し、富岡村西部地区の住民は分村をかけてこの合併を強硬に反対したため議会での議決を覆すまでに至り、3月1日、馬来田、富岡の両村議会は富岡村西部地区の分村を認めた上で合併案を可決決定し、3月31日に富来田町を発足させた。こうした状況に対して平川町では3月9日に開催された合併協議会において、「平川町の建設基本条項を遵守でき得るならば合併を諒とする事」で全員の意見の一致をみ、昭和30年3月31日に根形村の三黒、谷中、岩井の三部落と共に平川町に編入した。ここに人口11,796人、土地総面積46.5平方キロメートルの平川町が誕生し、町長職務執行者であった大野広吉が引き続き初代町長に就任した。