No.45 九州編(5/6)1/6 2/6 3/6 4/6 6/6  日本を走る
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旅行期間 1985年7月11日〜1985年8月17日 旅行日数:38日間
総走行距離 5,602km
走破市町村 543
同行者 無し 使用自転車:OP
総費用 143,660円 当時の年齢:21歳(大学4年)
26日目 1985年8月5日
走行区間 下関市火の山YH〜日田市光岡駅
走行距離 144km
走破市町村 24(北九州,水巻,遠賀,芦屋,岡垣,玄海,宗像,福間,津屋崎,古賀,新宮,福岡,春日,大野城,太宰府,筑紫野,夜須,三輪,甘木,朝倉,吉井,杷木,浮羽,日田)
累計数 1,733
 清々しい目覚めで、気持ちも新たに関門トンネルに向かう。20円の通行料を払いエレベーターでトンネルへ降り、海底で九州に入る。桐生市を出発してから26日も経っている。再度エレベーターから出た空は心なしか青さを増したようだ。
 小倉、戸畑を経て若戸大橋を渡る。宗像神社を詣でながら、そろそろ東大で2次試験が始まる頃だと思いつつ西に進み福岡市に入る。県庁でスキヤキ丼(400円)を食べていると国家公務員試験の案内チラシに目が行く。2次試験の九州会場は博多の人事院だと知り、つい会場前まで行ってしまう。
 福岡から太宰府に行き都府楼跡や太宰府天満宮を見て回りうめがえ餅(140円)を食べたら南下。二日市から甘木方面に向かい始めると23日ぶりの雨。朝倉の三連水車を小雨の中で見て筑後川を上流に向かって進む。日田郊外で長崎チャンポン(600円)を食べ、市街地に入る直前の久大本線光岡駅で横になる。久々の雨で命を吹き返したのか、海部で買ったスプレーが効かないほどの虫の群。寝袋を頭まで被って眠りに付いた。
27日目 1985年8月6日
走行区間 日田市光岡駅〜竹田市広瀬神社
走行距離 205km
走破市町村 21(山国,耶馬渓,本耶馬渓,三光,大平,新吉富,吉富,豊前,中津,宇佐,山香,日出,別府,大分,臼杵,野津,犬飼,千歳,大野,朝地,竹田)
累計数 1,754
 早朝から212号線を北上し新日本三景の一つと言われる耶馬渓に進む。朝の羅漢寺を拝観しているときにサイレンの音。時計を見ると午前8時15分である。あぁヒロシマから40年なんだな、と思いながら黙祷して合掌する。もちろん、その頃に島根県でS井に起きたアクシデントなど知る由もない。
 青洞門を抜け中津から10号線を南下し、宇佐八幡宮を参拝し、日出に出れば青空の下に別府湾が広がり、鶴見岳や由布岳がそびえている。美しい九州を目で味わい、大分県庁でハヤシライス(300円)を味わいながら大分市坂市坂ノ市まで進み有料道路を越えて臼杵に入る。
 旅に出る前に写真で見て強い印象を残した臼杵の石仏の実物を見学してから、犬飼、三重町、朝地を経て荒城の月舞台である竹田の岡城の麓に付く頃には日が暮れる。寝所は日露戦争で最初の軍神となった広瀬中佐をまつる神社である。
28日目 1985年8月7日
走行区間 竹田市広瀬神社〜高千穂町高千穂YH
走行距離 159km
走破市町村 12(久住,産山,南小国,一の宮,阿蘇,長陽,白水,高森,蘇陽,五ヶ瀬,高千穂,日之影)
累計数 1,766
 岡城の見学を早朝に済ませ、久住経由で瀬の本高原まで標高を稼ぐ。県道(現在は442号線)の最高所で1,070mまで上がるだけ有って上りはかなりきついが視界の広さと雄大さに満足するルートである。瀬の本からやまなみハイウエイで阿蘇を目指し、ミルクロードの途中にある大観峰で叫びたいような開放感を味わう。このために九州まで来たんだ。と充実感が満ちあふれる。
 外輪山を内牧に駆け下り登山道路を中岳に向けて登り直す。足に疲労が蓄積してフラフラだがアイスクリームを売っている女の子に「頑張って」と言われるので休むわけにも行かず草千里まで600mの標高差を一気に行ってしまう。中岳火口で大地の息吹を満喫したら白水に下り、高森から再度外輪山を登り直す。
 今夜は憧れの高千穂YHに泊まる。YHの雰囲気も食事も評判であるが、何と言っても日本一の高さ105mを誇る高千穂鉄橋鉄橋で行うラジオ体操は味わいなさいと散々旅人から聞かされていたのでコースから外れても行かねばならない。高森峠を出て道は分岐する。高千穂に行くなら左が近いが足がアップダウンに耐え切れそうもないので右の265号線を選び馬見原経由で津花峠を越えて午後4時半に到着する。夕食前にお約束のラジオ体操。夕食も鰻が出て2,450円だから良い時代だった。夜仲良くなった娘と明日は高千穂峡のボートに乗ろうと約束した。
29日目 1985年8月8日
走行区間 高千穂町高千穂YH〜瀬高町ルノアルYH
走行距離 156km
走破市町村 18(清和,矢部,砥用,中央,甲佐,御船,嘉島,熊本,北部,植木,玉東,玉名,岱明,長洲,荒尾,大牟田,高田,瀬高)
累計数 1,784
 朝から雨。この雨じゃボートもねぇ、という事で話は取り消しに。仕方ないのでこのYHにはW辺も来るだろうと、カウンターに置き手紙を残して出発。
 馬見原まで昨日と同じ道を辿り、清和村を抜けると雨も上がり始める。矢部の通潤橋まで来れば日も差し始め218号線に沿った石橋群を味わいながら進む。
 中央町で国道と離れ御船を経由して熊本に入る頃には真夏の日差し。お約束のように県庁によって焼きそばセット(370円)を食べてから水前寺公園、熊本城と回る内に午後3時になる。今夜の宿も旅人に評判の良いルノアルYHであり、食事の時間まで3時間を切ったが距離を60km残している。久々のタイムトライアルを208号線で行い時間内ぎりぎりで到着。
 YHは古い民家なので、何か懐かしいと他の客は言うが、よく考えてみると私の桐生の下宿は築80年だったので見慣れた感じだ。ただ食事は評判以上に良く、雰囲気も良いので連日のYH泊でもコストパフォーマンス的に納得できる夜だった。
30日目 1985年8月9日
走行区間 瀬高町ルノアルYH〜鹿町江迎駅
走行距離 149km
走破市町村 23(三橋,大和,柳川,大川,川副,諸富,佐賀,久保田,三日月,小城,牛津,多久,厳木,相知,唐津,浜玉,北波多,伊万里,松浦,江迎,田平,平戸,鹿町)
累計数 1,807
 長崎の合流日まであと2日間となった。ここまで快調に飛ばしてきたので寄り道を行えるゆとりが出来てきた。だから水郷柳川を散策しの後、佐賀から多久経由で唐津まで北上して虹の松原を見学したり。徳須恵経由で伊万里に至り焼き物の里を楽しんだりして、松浦線沿いに平戸まで走った。
 平戸ではスペイン祭とかで賑わっており、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂や寺院の風景に異国情緒を味わい、松浦線の江迎駅で泊まる。この日長崎は被爆40周年を迎えている。市内各地で反戦イベントが行われ、宿泊も困難だと考え集合を1日後で設定しているのである。仲間の集合まで残り少しである。
31日目 1985年8月10日
走行区間 鹿町江迎駅〜長崎市県立YH
走行距離 149km
走破市町村 11(小佐々,佐々,佐世保,西彼,西海,大瀬戸,外海,長崎,琴海,時津,長与)
累計数 1,818
 さぁ今日は仲間が集う長崎まで南下するだけだ。天気は曇りで九十九島の展望も利かないが日差しがきつくないと思えばそれで良い。シャツも短パンも30日を越える戦いでくたびれている上、街飲み歩き用のズボンもない。どうせ帰りの船でも使うからと佐世保で今夜のためにシャツとズボンを購入。早岐から202号線で西海橋を渡り、東シナ海を見ながら進む。
 外海で確認のため浦上ヶ丘YHに電話を入れてみると改装中で休業との事。W辺は浦上の常連だから安心しろと言い、予約のハガキを送っただけで確認してない、という事に気づいたのが当日の午後だとは自分の不手際にも頭に来る。南方苑やオランダ坂など市内の他のYHに電話してみるが何処にも予約は入っていない。W辺は予約できていないことにすら気づいてないのだと愕然とする。
 取りあえず長崎に入るのが優先だ。S井は今どこだろう。F原は電車で来るのだから駅に近い方が良いかなと県立YHに電話して4人分の仮予約を入れておく。
 先にYHに付いて談話室にいるとW辺が到着。開口一番「ここに居ると思ったよ」とは呆れてしまう。しかし呆れている感情はS井の母からの電話で粉砕される。
 S井は8月6日に岩国から津和野に向かう途中で転倒して腕を骨折。命には別状はないが手術のため当面島根県の益田日赤病院に入院するとの連絡がもたらされたのだ。(6/6に続く