No.45 九州編(2/6)1/6 3/6 4/6 5/6 6/6  日本を走る
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旅行期間 1985年7月11日〜1985年8月17日 旅行日数:38日間
総走行距離 5,602km
走破市町村 543
同行者 無し 使用自転車:OP
総費用 143,660円 当時の年齢:21歳(大学4年)
7日目 1985年7月17日
走行区間 曽禰村山粕神社〜尾鷲市尾鷲駅
走行距離 208km
走破市町村 26(御杖,美杉,白山,一志,嬉野,久居,津,香良洲,三雲,松坂,明和,小俣,御園,二見,伊勢,玉城,度会,多気,勢和,大台,大宮,紀勢,大内山,紀伊長島,海山,尾鷲)
累計数 1,457
 前夜に用意したパンを食べ、御杖から奥津、一志を経て高茶屋に至る。香良洲を走破し、木造2階の質素な三雲村役場で行革の象徴と感心し、そのまま海岸線を走り二見の夫婦岩に至る。そこから先はリアス式海岸のアップダウンが激しい道と想像されるため反転し、伊勢内宮神宮及び外宮に向かう。
 玉砂利も焼ける境内を参拝し、無料の麦茶を沢山飲んだ後は宮川に沿って西に進み、栃原に出たら42号線を南下する。大宮町に午後3時に到着するが、午後の暑さに耐えきれず喫茶店で1時間の休息。午後4時を過ぎて走行再会。私の四国編と同じ夏にS井が走り抜けた道なんて思いながら荷坂峠を越えて明るい太平洋に出る。紀勢本線には無人駅が多くあったが尾鷲でホルモン焼定食(680円)を食べて銭湯(170円)に入ったら、汗を流すことなく寝たいと思い、街中の尾鷲駅のベンチで寝る事にした。
8日目 1985年7月18日
走行区間 尾鷲市尾鷲駅〜串本町潮岬YH
走行距離 128km
走破市町村 10(熊野,御浜,紀宝,鵜殿,新宮,那智勝浦,太地,古座,古座川,串本)
累計数 1,467
 42号線の南下を続ける。矢川峠や小坂峠などを越えて鬼ヶ城に到着。S井から聞いていたとおり遊歩道を自転車担いで回る。午前10時を過ぎると暑くてたまらない。太平洋は透き通るよな海の色を見せつけている。今日は早く宿に着き一泳ぎしたいな、という要望のまま潮岬YHに宿泊予約を入れ、僅かに走ると雲が出て来て涼しくなる。こんなものさ、と思いながら熊野速玉神社、熊野那智大社及び那智の滝を巡り橋杭岩という奇岩を見たら午後2時に潮岬YHに到着。
 若干曇ってはいるが予定通りYHの下の磯に出る。水は暖かく、驚くほど透明で空中浮遊をしているような感覚のまま2時間半ほど海と戯れる。YHの食事後は宿泊しているみんなで盛り上がったのはいつもの通りである。
9日目 1985年7月19日
走行区間 串本町潮岬YH〜忠岡町忠岡神社
走行距離 238km
走破市町村 26(すさみ,日置川,上富田,白浜,田辺,南部,南部川,印南,御坊,川辺,美浜,日高,由良,広川,湯浅,吉備,有田,下津,海南,阪南,泉南,田尻,泉佐野,貝塚,岸和田,忠岡)
累計数 1,493
 朝から真夏の日差。昨日に海水浴をしてしまった分だけ今日は行程が長いので朝食抜きで出発する。しかし串本の街中で“名物めはりてん”の幟を見かけ、500円の手頃な値段でもあり食べる。結構美味かったのであるが早出した意味が無くなってしまった。
 予想通り日が高くなれば炎天下の42号線。国道から離れ立ち寄った白浜海岸はこれぞ真夏という風景を見せている。白浜有料道路で田辺に入り、国道をひたすら大阪目指して進む。暑さのあまり道成寺ではお手水を頭から被り、由良町でスーパーの冷えたスイカを食べ、紀三井寺で日没まで休憩を入れる。
 日が沈むと涼しくなるので元気が復活する。府県境の孝子峠を越え、泉州路を坦々とナイトランして夜10時過ぎに忠岡町に入り、都会で寝場所がない中で忠岡神社を発見し、その回廊で寝袋に入った。
10日目 1985年7月20日
走行区間 忠岡町忠岡神社〜北淡町岩屋港
走行距離 143km
走破市町村 15(和泉,泉大津,高石,堺,大阪,豊中,池田,箕面,伊丹,尼崎,西宮,芦屋,神戸,明石,淡路)
累計数 1,508
 涼しい早朝出発。最大のお墓である仁徳天皇陵を掘越しに眺め、四天王寺に詣でて、早朝のため入場出来ない大阪城を近くで眺めてから大阪市役所に入りトーストとミルクの朝食(160円)。豊中を抜けて箕面の滝に着いたら森も深く、都会のオアシスと実感する。トーストだけでは持たないので箕面市役所でスパゲッティ珈琲付(360円)を食べる。
 箕面から171号線で神戸に向かう。途中で競輪選手の卵らしい人が走っているのに追いつき約20kmに渡り前後し合う。トレーナーらしき人からツーリング車で早いね、と感心される。そう、20歳の頃は確かに早かったと思う。
 神戸は北野偉人街を見て回った後、生田から再度山ドライブウエイで六甲山に登る。摩耶山で日没を待ち、夜景も楽しんでから鈴蘭台を経て明石を目指す。なお、鈴蘭台の隣の箕谷には来年9月から住む事になる。この頃の神戸は「山、海へ行く」という言葉で表されるように須磨ベルトコンベヤーで西区の山を削り六甲アイランド等を盛んに造成していた頃。だから少し古い地図だと道が解らなくなり散々迷って明石に到着。日本道路公団明石フェリーで淡路島に渡り、船着き場の待合室で寝る。

11日目 1985年7月21日
走行区間 北淡町岩屋港〜海部町海部駅
走行距離 173km
走破市町村 20(北淡,東浦,津名,津名一宮,五色,洲本,緑,三原,南淡,西淡,松茂,北島,小松島,羽ノ浦,那賀川,阿南,日和佐,牟岐,海南,海部)
累計数 1,528
 朝早くから走り始め、淡路島に未走破の自治体を残さないように何度と無く山越えを繰り返すうちに五色洲本間で金属製のトークリップが折れる。
 本四架橋の最初の橋として1985年(昭和60年)6月8日に開通した大鳴門橋の設計委員長は群馬大学で私の研究室の担当をしている西村教授である。教授の偉業を確認するためにもこの橋を渡りたいのだが自動車専用道路であり、おまけに橋の完成に伴いフェリーも廃止されているため、通常の手段では淡路島から四国に自転車で渡る方法がない。さてどうするか・・・・
 回答は料金所の手前でトラックが来るのを待ち、橋の反対まで載せてもらうことである。そのような形で2回目の四国入りを果たした。暑さでボーと走っているうちに徳島を過ぎてしまい、トークリップを交換する店を小松島で探すが適当な物が無く、何とか阿南市で見つける(650円)。星越峠を越えて南下を続け、牟岐線の終着駅である海部駅で泊まる。横になると虫の多さが気になり、虫よけスプレー(700円)と睡眠薬代わりの1リットル瓶酎ハイ(300円)を買い出しに行く。
12日目 1985年7月22日
走行区間 海部町海部駅〜大方町入野駅
走行距離 252km
走破市町村 15(宍喰,東洋,室戸,奈半利,田野,安田,安芸,芸西,夜須,香我美,赤岡,野市,吉川,日高,佐川)
累計数 1,543
 海部駅の先も工事が中断した鉄道高架橋(阿佐海岸鉄道としての開業は7年後になる)を見ながら走り、高知県に入り坦々と55号線で室戸岬を回り赤岡まで走る。赤岡から海岸沿いの県道を通り浦戸大橋有料道路を渡って桂浜に着く。海岸を見て回り、桂浜郵便局で金を降ろしながら局長さんと色々話す。大学4年で1ヶ月以上旅行すると言うと就職は大丈夫かと問われる。儂が目指すのは国家ぜよ、と竜馬になったような気持ちで答える。
 爽やかな風吹く高知城を見てから高知県庁で昼食にカレーと牛乳(370円)を取り、33号線で佐川まで進み、峠を越えて吾桑に出たら、いよいよ挫折した四国編と同じ軌道を因縁の足摺岬目指して走り始める。そして日も暮れて満天の星が瞬きだし、走る根性も尽きた大方町の中村線土佐入野駅でホームのベンチで空を見ながら寝る。(3/6へ続く