No.45 九州編(6/6)1/6 2/6 3/6 4/6 5/6 日本を走る
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旅行期間 1985年7月11日〜1985年8月17日
旅行日数 38日間
総走行距離 5,602km
走破市町村 543
当時の年齢 21歳(大学4年)
同行者 無し
総費用 143,660円


32日目 1985年8月11日
走行区間 長崎市県立YH〜長崎市南方苑YH
走行距離 2km
走破市町村 0
累計数 1,818
 本来だったらここにいるはずの友が居ない哀しみがあっても空は快晴。命に別状はないという事と益田市の交通の便が悪いことからお見舞いは見送ることをS井の母に伝えているが気は沈む。F原は結局昨夜には到着せず、今日の午前中に長崎入りするという事になった。
 F原とその友人も電車で来るし、昨日YHで仲良くなった人たちも路面電車で観光したいと言うので自転車を置いて長崎見物に出る。行動を伴にするのは自分以外のサイクリスト2名と欧米人2名とW辺の6人。F原合流までは浦上の原爆記念公園を見学する。F原と友人のF井が合流し、中華街で皿うどんを食べた後は大浦天主堂、グラバー邸、オランダ坂、崇福寺、眼鏡橋などを見て回り、日が沈んだらビールを飲み、県立YHから南方苑YHに移動して泊まる。夜はS井に向けた見舞いハガキを寄せ書きする。 
33日目 1985年8月12日
走行区間 長崎市南方苑YH〜宇土市肥後長浜駅
走行距離 183km
走破市町村 23(飯盛,諫早,森山,愛野,吾妻,瑞穂,国見,有明,島原,深江,布津,有家,西有家,北有馬,南有馬,口之津,五和,本渡,有明,松島,大矢野,三角,宇土)
累計数 1,841
 朝から涙雨。雨具を着ても濡れるのは一緒だし、せめてS井の哀しみを共感するためにも濡れて走る。今日は1日50ccのW辺が同行する。34号線で日見トンネルを越えて下り始めたところで後ろのブレーキワイヤーが破断、橘の自転車屋で直ぐに交換する。そこでうっかりYHの会員証を受付に忘れてきたことに気づき、W辺に取ってきてもらう。エンジン付きが一緒だと便利である。
 250号線経由で愛野に至り、251号線で島原に至り島原城の見学をする。城に入る前にシャツを脱いで絞り、水を滴らせないように気を使う。島原から雲仙に登る予定で居たがこの雨では中止して海岸沿いに先を急ぐ。
 口之津港からフェリーで鬼池港に渡り、本渡、有明、松島と有明海添いに進むと段々雨も上がり始める。そして天草5橋を渡り、三角線の肥後長浜駅に付いたところで泊まり。近所の酒屋で球磨焼酎を買ってきて駅のホームで酒盛り。駅の家の網戸から航空機事故を報道するTVニュースが流れ始めた。
34日目 1985年8月13日
走行区間 宇土市肥後長浜駅〜桜島町桜島YH
走行距離 201km
走破市町村 24(不知火,松橋,小川,竜北,宮原,鏡,千丁,八代,田浦,芦北,津奈木,水俣,出水,高尾野,野田,阿久根,川内,串木野,市来,東市来,伊集院,郡山,鹿児島,桜島)
累計数 1,865
 駅から宇土まで走ったところで北に行くW辺と別れ、また単独行になる。台風9号が奄美に近付いているという話だが取りあえず晴れている。八代まで南下すると真っ黒な雲が山にまとわりついている。人吉経由で霧島連峰に行く計画は止めて3号線で南下を続ける。水俣で郵便貯金を降ろしながら益田のS井宛にハガキを出す。
 津奈木で遅い朝食を取る。TVは全て御巣鷹山に落ちた日航機事故の報道ばかりである。木更津のヘリコプター部隊が活躍しているが遠く離れた私は何の役にも立てないし、知人が事故に巻き込まれても居ないようだから、今は目前にいる台風の情報を知りたいのだローカル放送でもほとんど流してくれなくて困る。
 出水市に入ったら沖縄以外の都道府県走破が完了。そんな気分で一人盛り上がっていると3号線が大渋滞。横をすり抜けていくと交通事故現場に到着。死亡者が救急車に乗せられる所を目撃してしまう。
 串木野も過ぎると風が強くなり雨も降り始める。鹿児島が近付くと口の中までザラザラしてくる。あぁこれが桜島の降灰かと感心するが、今日の野宿が嫌になり桜島YHを予約。船(片道180円)で渡れば直ぐなのだが、港の場所を煙草屋のおばあさんに聞くと、説明が薩摩弁なのでほとんど理解できない。それでも日没前にはYHに着いた。同宿のライダーが一昨日長崎で一緒だったのに自転車がバイク並に走っていると感動される。ちなみに明日の錦江湾フェリーも同じ船だった。
35日目 1985年8月14日
走行区間 桜島町桜島YH〜串良町串良駅
走行距離 153km
走破市町村 14(喜入,指宿,穎硅,開聞,山川,根占,佐多,大根占,鹿屋,垂水,吾平,高山,串良,東串良)
累計数 1,879
 朝食が食パン2枚という信じられないYHを後に再度船で鹿児島に渡る。台風は夜のうちに通過したようで雲は残るが良い天気である。鹿児島の城山公園を見学後、錦江湾に沿って南下。今和泉から山に入り池田湖を巡り開聞に降り、長崎鼻に出る。S井よ、俺はここまで来たぞ、と海に叫ぶ。
 山川から錦江湾フェリーで根占に渡る。昨夜のライダーが佐多岬でキャンプするけど参加しない?と誘ってくれるが佐多岬ロードパークは自転車通行禁止と知っていたのと翌日の宮崎がきつくなるので断る。それでも九州最南端の自治体には行きたいので269号線を境界まで走る。反転し北上。鹿屋から今は廃線になっている大隅線に沿って寝場所を探しながら走り高山を経て串良駅に泊まることを決める。
36日目 1985年8月15日
走行区間 串良町串良駅〜宮崎市婦人会館YH
走行距離 156km
走破市町村 9(大崎,有明,志布志,串間,南郷,日南,北郷,宮崎,清武)
累計数 1,888
 夜中に降った雨も朝にはすっかり上がり、快晴の中を出発。今日はお盆の日で、例年なら自宅にいて花火でも見ているのに、今は遠い旅の空の下だな、等と思いながら220号線を西に串間まで進む。I藤の高校3年の夏の旅は九州だったが、そこで一番記憶に残っていると言う都井岬に立ち寄る。
 日南海岸の美しい風景は旅の終盤を飾るのにふさわしい、と思いながら日南市でS井にハガキを投函。鵜戸神社、堀切峠、青島と経て宮崎市に入ればF原と合流。船用にサンダルを購入する。
 婦人会館YHは素泊まり(1,700円)だから同宿のみんなで食事を取りに出かけ、帰りは焼酎等を買い込んで男の部屋で宴会を行う。
37日目 1985年8月16日
走行区間 宮崎市婦人会館YH〜日本カーフェリー高千穂丸
走行距離 77km
走破市町村 9(佐土原,西都,新富,高鍋,木城,川南,都農,東郷,日向)
累計数 1,897
 F原と宮崎県庁で朝定食(300円)を食べて、日向市駅3時再会の約束で解散。宮崎神宮まで行くと急にスコールのような大雨。悪天候の中も北上し、佐土原を抜ければ雨も止む。そこから西都原古墳群に向かっていると後輪がパンク。調べるとゴムの凹凸が無くなり下の繊維が見え始めているという、木曽編と同じ状況。このタイヤは半月前に松江で買ったばかりなのに、そんなにハードだったのか、と感動。負担が比較的少ない前輪と交換し、気遣いながら先へ進む。
 そして終わりの時は刻一刻と近付き、日向市駅到着を持って実質的な自転車旅は終了する。
 F原と合流し、駅前で早めの夕食を取り、焼酎を2本買ってから港まで歩く。
 日向から川崎は初めて乗る長距離航路である。この航路はマリンエクスプレスが引き継いでいたが2005年6月に廃止となってしまった。つくづく残念である。
 そして19:00。日本カーフェリー高千穂丸は日向港を出航した。
38日目 1985年8月17日
走行区間 日本カーフェリー高千穂丸〜自宅
走行距離 2km
走破市町村 0
累計数 1,897
 船では好きな時間に風呂に入り、甲板で日光浴をし、食事の時間には食堂が営業と、昨日までと打って変わって極楽生活。伊豆半島を回ると大島や洲崎など見慣れた物が近付き、特に浦賀水道に入ってからは東側に故郷の山河が近付いてくる。これが帰ってきたという実感か。
 そして14:30に川崎入港。同じ会社が運行する木更津航路に乗り継ぎ15:55木更津港到着。家までの2kmを走り、長い長い九州編は終了した。
 なお、この夜に陸送してきたW辺が木更津に到着。F原、K沢と4人で木更津赤ちょうちんに行き盛大な打ち上げを行った。なお、自転車は22日に輪行袋に入れて桐生に持ち帰ったのであった。(次の旅は関西ステージの吹田編