No.83 筑肥編      日本を走る ←No82道北編No84山陰編→
旅行期間 1993年12月31日〜1994年1月6日 旅行日数:7日間
総走行距離 644km
走破市町村 78
同行者 S原 使用自転車:GT
総費用 101,070円 当時の年齢:29歳
初日 1993年12月31日
走行区間 自宅〜北九州市北九州YH
輪行区間 JR木更津駅→JR小郡駅、JR厚狭幡→JR八幡駅
走行距離 48km
走破市町村 6(小郡,阿智須,宇部,小野田,橘,山陽)
累計数 2,570
 正月は九州に行こうと約束しながらクリスマス直前にG藤さんと別れた。理由は記載しないが責任はこちらにある。そんな訳で傷心中であるが消防団の副分団長として12月28日から30日までの歳末夜警を行わなければならない。逆にその日々が終わってしまうと何かを振り払うように旅に出ずには居られない。
 そんな訳で大晦日に福岡周遊券を購入して新幹線に飛び乗り西に向かった。年越しは九州で行いたかったので北九州YHを予約して、行きがけに山口県の一部を走破するために小郡で降りる。曇りで風も冷たい。自転車を組み立て日本の近代化をセメントの供給で引っ張ってきた宇部や小野田を抜ける。幹線から外れ人口もそれほど多くないのに宇部の街には歴史と風格が感じられる。柳井を江戸時代の街並みというなら宇部は大正の面影だろうか。観光地化していないところも良い。
 わずか48kmを2時間半で走り厚狭から各駅列車で九州に向かう。八幡駅で降りて丘を登れば今夜の宿である北九州YHに着く。眼下には新日鐵八幡工場が広がる。君津を隣接に持つ木更津市民としては親近感のある風景だ。
 YHには家族連れと静かな客しか居らず、酒の自販機もなくて、盛り上がりもなく禁酒のまま紅白を見て静かに眠ることになった。傷心の身には相応しい年末かも知れない。
2日目 1994年1月1日
走行区間 北九州市北九州YH〜福岡市グリーンホテル
走行距離 92km
走破市町村 13(中間,鞍手,直方,赤池,方城,金田,小竹,宮田,若宮,久山,須恵,宇美,志免)
累計数 2,583
 夜明け前から皿倉山に登り初日の出を見てからYHに帰り遅めの朝食を取ってから出発する。今夜は博多で帰省途中のS原と飲む約束をしているが、その前に筑豊炭田の栄光と衰退を供に味わった多くの自治体を走破していくことにする。
 薄日の射す中で3号線を水巻まで走り、そこから遠賀川に沿って直方まで北上し、赤池を経て金田町に至る。1992年から財政再建団体となった赤池町はどうなったかと気にはなっていたがやはり目に見えるほどの衰退には至っていなかった。それでも目を凝らせば炭坑が無くなっていった後と思われる廃屋等が見えて、自治体の合理化(合併)が必要な地域だと思われるのであった。
 金田から小竹、若宮を抜けて犬鳴峠を越えれば博多に向かってのダウンヒルである。時間調整に福岡空港に立ち寄り、博多駅でS原と落ち合い、電話帳で安そうな宿を取ると薩摩編と同じ宿となった。早速中洲の屋台に行き酒を飲み始める。色々な話をしている中でS原から「大学で教職資格は取らなかったのか」と聞かれ「そんな魅力無い仕事はやる気もない」と言うと隣で咽せる男が居る。もしやと思って聞いてみると中学校の先生だった。色々フォローしたが口には気をつけなければいけないと反省する。それから天神、長浜と梯子して良い気分でホテルに帰った。
3日目 1994年1月2日
走行区間 福岡市グリーンホテル〜武雄市武雄温泉YH
走行距離 152km
走破市町村 21(基山,鳥栖,小郡,北茂安,中原,上峰,三田川,東背振,神埼,千代田,江北,大町,白石,北方,武雄,山内,有田,西有田,波佐見,嬉野,塩田)
累計数 2,604
 二日酔いの頭でS原と後の集合時間を確認してからホテルを出発し、初詣に太宰府天満宮を目指す。今年あたり建築士と土木施工管理技師の資格を取ろうと思っていたので学問の神様を初詣の対象にしようと思ったわけである。近付くに連れて大渋滞に巻き込まれる。有る程度覚悟していたが自転車でも接近がまま成らず、政庁跡を見るだけで初詣を諦めて折り返す。これが建築士の二次試験に落ちた理由かどうかは解らない。
 旧国道で鳥栖に入り、S原の待つ吉野ヶ里遺跡に付く。1992年に国営歴史公園に指定され、復元工事が進んでいるとは聞いていたが、今までせいぜい静岡の登呂遺跡の小屋程度の復旧しか知らなかったので現物を見て規模の大きさに驚く。S原と園内を見て回った後に、宮崎の実家に帰る彼と別れ、武雄YHを目指す。
 武雄市内で遅めの昼食を取って坂を登り、午後2時にYHに着き、ザックを預けて身軽になって周辺の走破を始める。まずは35号線を走り西有田まで行き、多くの登り窯を遠望する。正月なので煙が上がっているところもなく静かな物であった。次に県境を越えた波佐見町を経由して嬉野温泉に着く。名物の公衆浴場である「古湯温泉」に入浴して冷えた身体を暖める。
 日没後にYHに帰ると正月なので夕食は特別に鍋だという。YHの温泉に浸かってサッパリして食卓に着く。北九州YHとは違い麦酒の販売もしているので500ccを2回購入し飲みながら食事を楽しむ。宿泊客は他に15人ぐらい居たので、明日ハウステンボスに行く人は居ないかと聞いてみるが1人も居ない。あそこに行く人はYHには泊まらないのかな、と思いながら1人でテーマパークを回る事の覚悟をする。






4日目 1994年1月3日
走行区間 武雄市武雄温泉YH〜武雄市武雄温泉YH
走行距離 6km 走破市町村 :0
 この日はJR武雄駅までの往復に自転車を使うだけで、基本的には終日ハウステンボスの観光である。府中編で1日を中央大学の学園祭に当てたことはあったが、テーマパークで1日を過ごすなんて初めてのことである。しかし、ハウステンボスはその建設に当たっての材料や職人をオランダに求めたように本物志向な事、運河の建設に伴う水質維持のゲートシステム、別荘地区の設定などまちづくり的な設計要素等、建設業界的にも見るべき物が多く、1992年3月に3,920億円をかけて営業を開始して以来、ずっと気になっていたところである。
 武雄からの往復企画切符を購入して電車で向かう。ハウステンボス駅に降りると正月休みだから結構人出も多い。大多数が恋人同士で残りの殆どが家族連れであり、1人は殆ど見られない。私も当初はここにG藤さんと来るような企画であったのだが年末に別れてしまったので仕方がない。
 園内に入ると噂以上に街並みが美しい。絶叫マシーンなどが無いのも心地よい大人のテーマパークだ。資料館等も内容や人材の充実があり、例えばここの磁器の博物館で日本の焼き物が欧州で有名になったのも大陸で清が明王朝を倒すための内戦の混乱で輸出が滞ったためであり、輸出再開後は中国でも日本的な図柄を真似る窯が増えたことなどを知った。まだこの当時は未整備のエリアも多く残されており、まだまだ良くなる事への期待が大きかった。だから、ここが会社更生法の適用を受けたときにはショックだった。
 日没を待ち、町の夜景を楽しんでからYHに帰る。夕食の時間には遅れてしまったが、食堂には食後の会話を楽しむ人達が残っていた。その中の娘2人が明日ハウステンボスに行くというので今日見てきた話をしながら、1日ずれたか、と心の中で後悔をするのであった。
5日目 1994年1月4日
走行区間 武雄市武雄温泉YH〜島原市BH宝来泉
輪行区間 島原鉄道口之津駅→島原鉄道深江駅
走行距離 116km
走破市町村 9(有明,鹿島,太良,小長井,高来,千々石,小浜,南串山,加津佐)
累計数 2,613
 YHを出て有明海側に出て海岸沿いを南下する。干潮の時間のようで海には栄養が豊富そうな干潟が広がっている。これを見ねばならないと有明干拓の里に着いて開拓推進側の資料を見る為に干拓資料館に入る。模型の写真を撮っても良いですかと受付の人に聞くと「何に使うのですか!」と緊張した様子である。個人的な記録ですというと許可してくれるが、前線の人は反対運動に常に気をすり減らしているのだな、と可哀想になる。資料館を出て近くの食堂でムツゴロウを食べた。なおギロチン堤防が降りたのはこの3年後の1997年4月14日であった。
 愛野町で東シナ海側に出て小浜温泉を抜けて南下を続ける。口之津港まで走ったところで、島原鉄道の救援をしなければいけない、という気持ちになりここから不通区間の手前である深江まで輪行する。乗車距離26.2km。料金は僅か800円であり毛ほどの役にも立たないが、区間乗車人数を稼ぐための微力なエイドである。
 深江駅で降り水無川橋梁からシルエットの雲仙普賢岳を望む。1991年6月3日の火砕流の報道は私の地元の消防団詰所で操法の訓練終わりに見た。報道関係者が避難勧告で無人になった家に勝手に入り込むのでその監視も兼ねて現地入りしていた消防団員も巻き込まれて12人が無くなった。消防庁から出された見舞金のあまりの少なさに特別公務員である消防団組織で死ぬことの軽さを憤慨したものである。その後消防団は保険での対応を考え金銭的な問題は多分解決に向かっているのだろうが、そもそも保険で対応するのではなく国家が対応しないと言う姿勢が残念でならない。災害現場は多くの人が訪れる場所になり始めていたので、少しでもお金を消費することで地元の活気につながることを祈った。だから私も夜の島原で焼酎を飲み魚を食べ、1人で消費活動を行うのであった。
6日目 1994年1月5日
走行区間 島原市BH宝来泉〜JR久留米駅
輪行区間 JR久留米駅→JR尾張一宮駅(夜行ぶるさとライナー九州)
走行距離 154km
走破市町村 19(飽田,天明,富合,城南,益城,菊陽,大津,旭志,泗水,菊池,七城,鹿本,山鹿,鹿北,立花,八女,筑紫,広川,久留米)
累計数 2,632
 朝のフェリーまでの時間を利用して島原城と水無川河口に行く。この頃は島原城が自衛隊の災害復旧基地になっておりお城の下には装甲車が数台停まり、第四師団島原災害派遣隊指揮所の看板も掛かっている。自衛隊の活躍には頭が下がるが、災害を忘れると戒厳令のようでもある。
 水無川の橋梁まで戻ると朝日を受けて普賢岳の姿がくっきり見える。火砕流や土石流がどの様に駆け下ったのかも想像が出来て痛々しい。手前の集落は完全に土砂に埋まってしまっている。この景観は後世のために残しておくべきだろうと思っていたが、それがドームに覆われ道の駅の展示施設に成ったことを島並編の時に知ったときは逆に複雑な気分だった。
 島原から熊本に渡るフェリーの上からだんだん遠くなる火山を見送り熊本シリーズに突入する。1991年2月1日に熊本県北部町、河内町、飽田町、天明町が熊本市と合併により消滅したので、未走破であった飽田町、天明町の扱いに苦慮するが取りあえず昔の地図を頼りに当該地域を走る。さらに熊本市近郊の町村を走破する中で豊肥本線の肥後大津駅まで来たときに帰りの列車を取るために窓口に寄る。年末には京都行きの臨時夜行快速列車は満席と言われていたがキャンセルが出たようで指定席を購入できた。
 325号線で山鹿まで出たところで時間に余裕を感じ、日も高いが温泉の公衆浴場に入る。そして3号線で小栗峠を越えて八女から筑後に入り209号線で久留米に着く。今日の走行は周遊券の圏内になる久留米までである。西鉄久留米の観光案内所で九州ラーメンの店を聞き、その中の一つである大砲ラーメンに入りその美味さに絶句する。そのため西海編でも訪ねてしまう。書店で東海地方の地図と麦酒とウィスキーを購入して夜行列車に乗るのだった。
7日目 1994年1月6日
走行区間 JR尾張一宮駅〜JR岡崎駅
輪行区間 JR岡崎駅→JR巌根駅→自宅
走行距離 76km
走破市町村 10(岩倉,春日,西春,師勝,豊山,尾張旭,長久手,三好,知立,安城)
累計数 2,642
 当初計画ではこの前日に福岡に停まり、最終日になるこの日はただの移動日の予定であったが上手い具合に夜行列車が取れたので、最後に急遽おまけの愛知県の走破を進める事が出来た。
 しかし、座席指定席では充分に寝ることが出来ず、京都から乗り換えた普通列車の中でも睡眠をむさぼりながら尾張一宮駅に着き、体調も整わないまま自転車を組み走り始める。一宮から小牧空港の近くの臨空公園に立ち寄り、勝川を抜けて尾張旭市に至る。そこで朝食兼昼食を取り、一休み後、尾張長久手の古戦場公園に行く。このような平地の古戦場は周辺の開発が進むと当時の面影が全く無くなるので、ただ行っただけになってしまった。そこから知立を抜け岡崎で北陸編の軌跡と合流すれば今回の目的も終了である。まだ時間も早いが、どうせ帰りの乗車券を通しで持っているのだから長距離を走っても損のような気もするので、後は余る時間にまかせて普通列車でのんびり木更津を目指すだけである。なお、この走行を持って残る愛知県は5市町村となった。(次は山陰編